餌食
水乃流
餌食
こんな時間に、女の子が一人で歩いている方が悪い。
男の勝手な理論だが、ここでは反論する人間がいない。当の少女が聞けば怒り出すか、反論するかしただろう。が、今、彼女にそのような余裕はない。背後から迫る男を振り切って逃げることに必死だからだ。
そう、少女は、必死に走っていた。いつもなら、こんな時間にはこんな場所に来ることはなかった。友人たちの何気ない誘い――帰りにちょっと遊んでいこうよ――に乗って、普段は避けていた、多くの人で賑わう街に来てしまったのだ。少しムシャクシャしていたのかも。今となっては、どうでもいいことだ。
ふと気が付けば、雑踏の中で友人(考えてみれば、それほど親しい訳ではない)たちとはぐれ、慣れない街で道に迷ってしまった。たぶん、こちらが駅だ――そう思って歩いていたのだが、駅には辿り着くことができず、どんどん暗くなって行った。
こんな時、スマートフォンがあれば道を調べることもできたのだろうが、家庭の事情でスマートフォンや携帯電話の類いは持ち歩いていない。親にも友人たちにも連絡できないのだ。困った。そんな時、背後から近づく男に気が付いた。
彼女は、咄嗟に男から離れるように歩き出した。だが、夜の帳を打ち消すような光が溢れる繁華街ではなく、人気のない方へ歩き出したことが、彼女の判断ミスであった。
しばらくしても、男は付いてくる。早足が、やがて駆け出しても、男は彼女に付いてきた。もう、男が彼女を狙っていることは明かだ。そして、彼女は二つめのミスを犯した。男から身を隠そうと、近くに見えた工事現場に逃げ込んだのだ。そこは将来、新しい駅が作られる予定の土地だったが、今は地盤工事が始まったばかりで、建築資材があちこちに置かれているだけの寂しい場所だった。
男にしてみれば、理想的な展開だ。まるで、自分の妄想が現実になったような高揚感を覚えた。
隠れるつもりか? いいだろう、すぐに見つけ出してやる。
少女の後を追って、男は工事現場へと入る。意外に広い。だが、彼女はすぐに見つかった。男の三十メートルほどを走っている。そのよろよろとした姿は、彼女の限界が近いことを示していた。
男は舌なめずりをして、走り出した。体力は十分にある。すぐに追いつくこともできる。が、それでは面白くない。彼女が逃げられないと思うまで、いたぶるように時に近く、時に先回りをしながら追い詰める。
彼女はパニックに襲われ、平常心を失ったために冷静な判断ができなくなっていた。耳元に男の呼吸が聞こえる。背中に指が触れる。かと思えば、前方に姿を現す。彼女は、足を動かすことだけで精一杯になっていった。
やがて、置かれた資材を縫うように、走った彼女の目の前に別の資材の山が。第三のミスだ。自ら逃げ場のない袋小路に入ってしまった。慌てて戻ろうと、振り返った少女の目の前には、あの男が立っていた。
「ひっ!」
思わず小さな叫び声を上げ、彼女は後ずさる。しかし、後ろには資材の壁が。
「お~やぁ~? もう、鬼ごっこはお終いかぁい?」
ゆっくりと、男が彼女に近づいて行く。鬼に捕まった子供はどうなるのか?
「い……いやっ……」
だが、もう、手足に力が入らない。資材の壁に寄りかからなければ、その場に頽れてしまいそうだ。
「へっへっへ。もっと抵抗してくれてもいいんだぜぇ?」
男がポケットの中から何かを取りだし、軽く振ると男の手の先にギラリと冷たく光るものが。ナイフだ。
「ほら、抵抗してみせろよ、えぇ?」
男がナイフを少女の顔に近づける。少女は思わず顔を背けた。その小柄な身体は、小さく震えている。
ゴクリ。男の喉が鳴る。
久々だ。久々に味わう感覚だ。本当に今日はツイている。この感覚をゆっくりと堪能して、後の事は後で考えればいい。騒ぐようなら、埋めてしまえばいい。幸いここには道具も場所もあるようだからな。
男は、ナイフの先端を少女の顔から下へと、ゆっくりと降ろしていく。細い紐のリボンに先端をかけ、力をかけて短く振り下ろすと、リボンは簡単に切れた。シャツのボタンもひとつひとつ、ナイフを使って弾き飛ばす。制服の下に隠されていた、少女の白い肌が、遠くにある常夜灯の光に照らされる。
「こいつも邪魔だなぁ」
ブラの谷間にナイフを突っ込み引くと、白いブラジャーは、身体の前でふたつにちぎれた。
「さぁて、どうする? 下も同じようにされたいか……それとも、自分で脱ぐか?」
男は
「ちっ」
動こうとしない彼女に業を煮やした男が、ナイフを突き出したまま彼女に近づく。男の好みは、少女が諦めて自らスカートを脱ぐことだったが、そうそう時間をかけてもいられない。さっさと――。
少女が動いた。
男の腕を掴み、自分は一歩前に。男のナイフが少女の胸に深々と刺さった!
「なっ、何を!」
少女の行動に驚いた男は、ナイフが抵抗なく少女の身体に沈み込んだことにも気が付かなかった。そして、次の瞬間、目の前に赤黒い壁が現れた。いや、それは壁などではない。少女の肋骨が左右に開き、ありえないくらい広く広がったのだ。男が見ていたのは、彼女の内部だった。そこには人間らしい内臓はなく、赤と黒が混じり合った、不気味に蠢く肉があるだけだった。
バクン。
男が叫び声を上げる暇もなく、少女の肋骨は閉じた。男の上半身を飲み込んで。残された下半身からドクドクと血が溢れ、ゆっくりと後ろへ倒れた。
「はぁ……もう、台無しよ」
ずっと我慢してきたのに、と少女は呟く。食欲を抑えるため人混みを避けてきたのに。親になんと言い訳すればいいのだろう?
「とりあえず、こっちも」
毒を啖わば皿まで。少女は男の足を掴むと、大きな口を開けて飲み込んだ。
ゴリッ、バリッ、グチャッ。
暗闇に湿った音が陰鬱に響く。しばらくすると、男の存在はこの世から全て消えていた。そして、少女もまた、暗闇の中へと消えていった。
餌食 水乃流 @song_of_earth
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