藤枝伊織

第1話

 チャイムが鳴ったからドアを開けたら男が立っていた。見るからにセールスマン然としていた。ビシッと着こなした濃紺のスーツに七三分けの頭。白い顔は能面のようだ。一般的に見て顔立ちは整っている方だったと思うが、小さい瞳孔や切れ長の目がどうしても薄気味悪くて寒気がした。

 私はドアの脇に貼ってある、〈セールスお断り〉のシールを指さしながら言った。


「買いませんよ。うちはセールスは全部断ってるんです」

「いやいや、そんなこと言わずに」


 男は私の話など一切無視して、セールスマンの象徴のような黒い鞄を開けた。小脇に抱えられるくらいのその鞄の中には一匹の猫が入っていた。顔の右半分が茶色、左半分が黒のぶち猫だった。ブサイクだが、そこに愛嬌がある。成猫だった。そこまで大きくなってしまった猫を売っているのはペットショップでも見たことがない。それに、こんなに大きいのに、無理やり鞄の中に詰められていたのだ。


「なんでそんなところに猫を入れているんだ」

「お買い得ですよ」

 可哀想じゃないか。という私の抗議の声は打ち切られた。こいつはどこかおかしいのではないか。常識がないどころではない。

「うちは犬を飼っているから……」

「いまならなんと五千円です」


 犬を飼っていると言っているのに、聞く耳を持たない。

 猫があまりにも哀れだった。仮にも生き物に付ける値段ではないだろう。おもむろに目を開いた猫は、その黄色い瞳で私を見つめている。そんな鞄では狭かろう。猫がか細い声で鳴いた。

 こいつに金を渡すのは癪だが、猫を助けてあげなくてはという気持ちで私は尻ポケットから財布をとり出し、男に投げるようにして渡した。犬は、クランシーは穏やかな性格のラブラドールだからきっと大丈夫だろう。

 男は五千円を受けとると、「ありがとうございます」と深々とお辞儀をした。顔をあげたそいつの口元は、に、と反り上がっていた。やけに赤い唇から蛇のように、赤い舌が覗いた。



 犬の散歩のついでに猫用品を買いに出かけた。家の中に一匹で置いて行っていいものか不安ではあるが、犬と一緒にいるよりは少しは安心かもしれない。

「いいかい、クランシー。これから猫を飼うことになるが、意地悪するんじゃないよ」

 私が言うと、クランシーは了解したというような顔をして、小さく吠えた。物わかりのいい犬だ。

 ペットショップで、よくわからないからとりあえず店員が勧めるものを勧められるままに購入した。キャットフードもどれがいいのか小一時間悩んだ。大荷物を持ち帰ると、家の中はぐちゃぐちゃだった。犯人はどこにいるのかと探したところ、勝手に風呂場に入り込んで湯船に落ちて鳴いていた。救いだしてやると、廊下でぶるるっと身を震わせてしぶきを飛ばした。おかげで私も廊下もびしょびしょだ。タオルで拭きながら猫に向かって言った。

「お前は今日からピートだ」

 いつかもし猫を飼う機会があればそう付けようとずっと決めていた。ピートは首を傾げたが、一応納得したらしい。クランシーは私との約束を守ってピートと仲良くやってくれるようだ。鼻を摺り合わせて挨拶をしている。

 私はピートに首輪を付けることにした。かなり嫌がられたが何とかして付けた。突然ピートが唸り声をあげた。毛を逆立てる姿は何かに怯えているように見えた。顔をよく見ようとしたら、唐突に「びゃっ」と鳴き、本棚の上に逃げてしまった。

「ピート」

 私は呼び、猫缶を開けた。しかし、それくらいでは騙されないようだ。毛を逆立てて、本棚に爪をたてる。その異様さを察したクランシーも私の足元にすり寄ってきて、心配そうにピートを見上げた。


「おいで、大丈夫だから!」


 ピートは毛を逆立てる。その顔は遠目にもわかるほど目やにが溜まり、眼球が飛び出ていた。

 ピートは唸り声をあげる。大きく体を震わせたかと思うと、そのままどろりと溶けだした。私はとっさに机の上にあったガラスのコップでその液体を受けた。いったい何が起きたんだ。

 本棚の上にもう猫の姿はなかった。液体が伝ったはずの本棚にもそれらしき跡はない。首輪が本棚から落ちてきた。


 私の手の中のコップから「にゃーん」と子猫が鳴いた。

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藤枝伊織 @fujieda106

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