どんでん返し

λμ

DonDen

「ねぇ、もうどんでん返した?」

「……えっ?」


 ミリエリの意味不明な発言に、わたしは満腹感からくる眠気が冷めるのを感じた。声のイントネーションから、どんでんを返したのか、と聞いてきたのはわかる。でも、わたしには、どんでんがわからなかった。

 ミリエリは苦笑しながら、おどけるように言った。


「『えっ?』 じゃないよー。ちゃんと返しとかないと、嫌われちゃうよ?」


 声色を真似られ、わたしはちょっとイラっときた。

 どんでんって、なに。

 でも、尋ねたら追撃されそうな気がするので、とりあえずわたしは口の端を柔らかに吊った。


「えーっと……おっけー。わかった。ちゃんと返しとく」

「……ほんとにわかってる?」


 ミリエリの訝しげな視線に、わたしはぶんぶん首を振った。ふーん、ま、いいけど、なんて気取った言い方をして自分の席に戻るミリエリのことをいったん忘れ、わたしは国語辞典をひっぱりだした。紙の辞書だ。分厚いやつ。電子機器のたぐいは校内のアルファ・ジャミングシステムで一時的に使えなくなるので、物理を持ち込むしかないのだ。


 どんでん返し。

 一.演劇で舞台転換の際に床や大道具をひっくり返すこと。どんでんがえし を参照。

 二.立場や形勢などが逆転すること。どんでんがえし を参照。


 インターネット・ウィクショナリー紙版には、そう書いてあった。

 わたしは次にどんでんがえしを引こうとし、やめた。

 さっきミリエリはわたしに、どんでんかえした? と聞いてきたのだ。

 どんでんがえした? じゃない。

 ミリエリが聞きたかったのは『どんでん』を返したのか、ということで、『どんでん返しはしたのか』という意味じゃない。

 引くべきはどんでん返しじゃなく、どんでんだったのだ。


 どんでん。

 一.どんでん返し - 小説やドラマなどの物語の展開が急激に変化する技法。元は歌舞伎用語。

 二.味の素から発売されていた「ほんだし うどんおでんだし」の略称。TVCMでは『どんでんでんねん』というフレーズで有名となった。

 三.上記TVCMに出演していた岡田彰布氏の愛称。


 ニコニコ大百科ペーパーバックには、そうあった。

 岡田彰布。誰。すくなくともわたしは岡田彰布なんて借りてない。じゃあ、『ほんだし うどんおでんだし』のこと? いやいやいや、家庭科実習なんて、もう何百年も前に消滅したはず。というか家庭科実習でうどんなんかつくる? 香川じゃあるまいし。


「……聞く、か?」


 わたしは誰に言うでもなく呟き、自分の席に戻って他の女子と話し始めているミリエリこと美里絵里みさとえりを見やった。こっちを向いた。はやくしなよ、と口だけ動かした。そのなんでもない唇の曲げ方までかわいいんだからミリエリはなんかずるい。

 とにかく、いまは岡田彰布だ。ちがう。どんでんだ。

 わたしはどんでん返しを調べた。


 一.忍者屋敷の扉のからくり。

 二.歌舞伎の強盗返のこと。

 三.上から転じて、フィクションなどのストーリー展開技法の一つをいう。同様に、話や形勢、立場などが正反対にひっくり返って逆転したことにも用いられる。


 とりあえず、わたしの知り合いに忍者屋敷に住んでる子はいないから、からくり扉を借りたまんま返してないってわけじゃなさそう。

 三番目の意味は知ってる。なんかこう、犯人はわたしだったのだ! 的なやつだ。ち陳腐ちんぷいぷい。わたしはまだストーリーをひっくり返していないけど、まぁいつかひっくり返してやるつもりなので、これでもなさそう。

 

「じゃあ……二番?」


 歌舞伎とかいうのを借りた記憶はないけれど、強盗返はしたことがない。

 わたしは強盗返を調べた。なんか必殺ワザっぽいと思ったけど違った。


 強盗返・龕灯返(がんどうがえし)とは歌舞伎で用いる舞台用語で場面転換の方法である「居所変(居所替, いどころがわり)」の一つ、若しくは強盗返を用いた仕掛け。一般的には短時間で行う場面転換で用いられる。


 紙のウィキペディアはリンクがつながってないからページをめくるだけでも大変だった。

 ともかく、また新しい言葉が出てきた。

 がんどうがえし。

 龕灯は知ってる。江戸時代の懐中電灯みたいなものだ。提灯だと周りに光が散って自分も丸見えになるから、カバーをつけて正面だけ照らすようにした道具。わたしの家にも一個ある。龕灯じゃなくて懐中電灯が。

 ふむぅ、と、わたしは唸ってしまった。

 どんでん、とはなんだろう。

 同じ機構をもつなにか?

 つまり、ひっくり返る、的な。

 実際、歌舞伎ではそういう意味らしい。床と壁がL字型になっていて、場面が暗転している間に壁を奥に倒して床を立ち上げる。すると床には次の場面の書き割りがあって……という具合らしい。その暗転している間に、どんでんどんでんどんでん……と、太鼓を鳴らす。


「あ、太鼓!」

 

 わたしはハッとした。

 

 太鼓だ! まだ返してない!




 当たり前だ。借りてないんだから。

 もう、岡田彰布ってなんなのさ。野球選手らしい。阪神のレジェンド。バース、掛布、岡田のバックスクリーン三連発。意味わかんない。

 わたしはちらっとミリエリを見た。目があった。まだ? とかわいらしく唇を動かした。やっぱりずるいと思った。と、同時に気づいた。まだかどうか聞いてきたってことは、ミリエリに返さないといけないものかもしれない。

 ミリエリに借りたもの、ミリエリに借りたもの、ミリエリに借りたもの……。

 わたしは今や死語となりつつある恋のおまじないのように唱えながら席を立ち、ミリエリのところに行った。なんか、いい匂いがした。


「どうしたの?」


 ミリエリは不思議そうに小首をかしげた。ちっちゃな首ってなんだろうとわたしは思った。首を小さく傾けたなら『首を小かしげた』のほうが正確なのに。


「世界って曖昧なものだね」


 わたしは言った。


「そうだね。曖昧だね」


 ミリエリは答えた。


 どうしよう。思わせぶりな単語を言ったら、思わせぶりな返しがきた。こうなってくると、どんでんの意味が曖昧になってくる。信頼できない語り手というやつだ。さっき見た。一人称の記述で意図的に情報を隠している小説がうんたらかんたら。ち陳腐いぷい。


「わたし、もうどんでん返したよ」


 語り手はわたしだろうから、信頼できないのはわたし。きっと、わたしは無意識のうちに意図的に情報を隠しているのだ。真相は、わたしはすでにどんでんを返している、に違いない。

 ミリエリはすぅっと目を細め、囁くように言った。


「わたし?」

「あ」


 しまった、とわたしは思った。


「えっと……はもう、どんでん返したよ」

「……まだ返してもらってないけど」

「……よくわかんないけど、味の素の『ほんだし うどんおでんだし』でいい?」

「どこの世界にバレンタインデーのお返しに『ほんだし』もらって喜ぶ子がいるの?」


 わたしはどんでんの意味を知った気がした。

 長かった。とてもとても長い旅だった。どんでんは太鼓じゃなかったし、からくり扉じゃなかったし、阪神タイガースのレジェンドでもなかった。

 それは恋のおまじないとともに送られる、甘いチョコレートへの返礼品――。

 ――。

 ――――。

 ――――――。

「って、ぼくチョコレートもらってないんだけど!?」

「チョコレート?」

「え?」

「そんなことより、ちゃんとどんでん返したの?」


 どんでんって、なに。

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