第5話 8月5日

 四日が終わろうとするまであと五分残っていた時、琳音がふとこんなことを聞いてきた。


「なあ、湖にはいねえのか? クラゲってやつは」


 『クラゲってやつは』……。『やつは』という、クラゲの後についた言葉の方がぼくは気になった。琳音は海のことをよく知らないやつなのか? 普段なら博識なところをぼくに見せてくるのに。ぼくは不思議に思って訊ね返した。


「見たことねえの?」


 すると琳音は砂浜に仰向けになって手足をジタバタさせながら答えた。砂が琳音が暴れた通りに砂で彼の手足が遊んだ跡を作っていく。その姿は、まるで天使の羽を広げたような形に出来上がっていた。


「うーん、海岸には行ったことあるぜ。でも、クラゲは見たことないんだ。柔らかそうな体してさ、海を漂ってるって本で読んだことはあるけど……」


 足をジタバタさせながら新月の空を眺める琳音を、ぼくは少し可笑しく思いながらクラゲについて教えてやった。


「湖にはいないよ。意外なところでお前って世間知らずを見せてくるよな」

「もう、それくらいわかってるっつーの!」


 頬を膨らませて、琳音はプンプンと声を上げるかのように怒りだす。その姿が可愛らしくて、ぼくは思わず彼の体を押し倒していた。


 何が起きたか全く理解していない様子の琳音は、どこか不思議そうな顔をして「あー」だの「えー」だの言いながら必死に状況を理解しようとしているみたいだ。やがてぼくの意図に気づくと彼は頬を赤くして、ぼくの目線から目を逸らした。

 その逃げていく視線を追いかけていくのがぼくの瞳。両の眼でぼくは琳音の恥ずかしそうな視線を追いかけて、袋小路まで追いかけていった。


 琳音が左へ視線をずらした。ぼくも左へ視線をずらして、わざと冷たいような、生暖かいような目線で彼を見守ってやる。すると彼は声を上げて抗議してきた。


「真夏。はっ、恥ずかしいからやめて……」

「やめねーよ。こんなに面白い反応が見れてうれしいぜ?」

「……真夏の変態! アホ! バカ!」

「いくらでも言ってろ。あはは」


 ぼくが笑うと琳音は涙目になってぼくを睨みつけた。そして、その赤い舌を出して片目を閉じた。


「バーカ!」


 琳音にとっての怒りもぼくにとっては挑発にしか映らなかった。白いワンピースを着た彼は、それからすぐ力づくでぼくのまとめていた両手を解放して湖の中へ入っていく。唯一着ている服さえ濡らして、彼は一体何がしたいのだろう?


「おい琳音、風邪ひくぞ? それに服で湖に入るな」


 すると琳音はぼくを振り向いて、涙目で睨みつけて叫んだ。


「クラゲを探しにいくんだよ!」

「だから湖にクラゲはいないっつの……」


 ぼくの言葉を無視して琳音は湖にその体を濡らして、溺れ気味に泳ぎながら深い深い湖へ潜っていこうとする。

 危ないと思ってぼくも仕方なく湖に入る。一緒に服を濡らして琳音と水浴びをして、クラゲを探しにいった。いないというのは分かっているのに。


 やがて琳音が湖の中で立ち上がった。白い布地がピッタリと肌に付いて、胸の突起さえ見えてしまう。

 それをいやらしいと思ったのか、ぼくは自分の中で何か激しい衝動を感じて、思わずその熱がよく感じられる箇所へ両手で触れる。


「琳音……」

「ん? 何だよ」

「おれさ、精通しちゃったみたい……。お前の胸で……」

「……は?」


 股間を抑えるぼくをどこか汚いものを見るような眼で見つめる琳音。だがそんな瞳もすぐに細められて、彼の顔には笑顔が浮かんでいた。


「おめでとう」

「まさかお前の胸でとは……」

「でも、これで大人に近付いたね」


 そう微笑む琳音の笑顔には暗い闇がさしている。ぼくは自分の成長を喜べないまま、琳音の元へ泳いで抱きしめた。


「熱いよ、お前の体」

「琳音のせいだぞ」


 どうしてか。湖の温度は冷たいはずなのに、ぼくの体は熱い。琳音の体温を徐々に奪っていく湖さえ、ぼくの体と同じくらい熱い。


「まさかお前がクラゲだったなんて、思いたくないよ」


 琳音の苦笑いに、ぼくもつられて笑う。湖のクラゲはぼくだった。その嬉しさとどこか後ろめたい、複雑な感情を抱えながらぼくは琳音の白い体を抱きしめ続けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

真夏くんの初恋日記 夏山茂樹 @minakolan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ