第4話 8月4日

 真っ昼間の塾。二階建てのコンクリート建ての小さな自習室の一角で、ぼくは眠りについていた。今までならゲームをしているか、漫画を読んで暇をつぶすかのどちらかだったのに琳音と出会った夜からずっと眠りしかぼくには選択肢がない。


 意識がぼうっとしてうたた寝をしていると、ツンツンと肩を指で突かれる感覚を覚える。いったい誰だ、眠いのに。ぼくが振り向くと、そこには青崎がいた。青崎はこの塾では一目置かれる優等生で、県内トップの中学校を志望している奴だ。

 そんな優等生がどうしてサボり魔のぼくに近づいてきたのだろう。不思議でならなかった。理由を聞こうと口を開くが、青崎が先に出てしまった。


「最近、よく昼寝してるな。お前さ、何やってんの?」


 できたばかりの恋人と近所の湖水浴場で逢瀬を重ねてます、なんてとてもじゃないが言えない。琳音は自分がどこから来たのかを明かすことは決して無いし、ぼくも自分から聞こうなんて思わない。もう琳音が一人で涙を流すのを見たくはないから。


「え、えっと……」

「知ってるぜおれ。塾の帰りにお前が湖水浴場に行くのを見させてもらったぞ。あそこで何をやってる?」

「教えねえよ。お前は秘密をすぐ話す奴だからな」


 すると青崎はどこか不服そうな顔をして、ぼくにこんな警告をしてきた。どこか怖い顔をして、何かを警戒するように。


「最近湖水浴場の近くに出るんだよ。夜に白目を赤くしたレッテがさ……」

「それってどういう……」


 ぼくが身を乗り出して聞き返す。すると青崎は眼鏡越しにニヤけて目を細めた。恰幅の良い体は部屋がクーラーで冷えているのに汗をかいている。


「白目が赤いレッテ……。それは薬を買えなくて血に含まれる酵素を必要とするから、吸血願望と必要性に迫られて人を襲う奴らだ。気を付けろよ。お前のコレによく似た外見だからよ」


 青崎が左手の小指を立てて笑う。それから彼は授業があるからと消えて行った。


 琳音がレッテ……? まさか、ぼくと会う時は白目は普通に白いし、至って普通の少女、いや少年だ。まあ、この町にはレッテがよくいて市が対応に困っていると母が言っていたが……。


 そんなこんなで塾での自習、もとい仮眠と授業を終えてぼくは真っ直ぐ湖水浴場へ向かった。この日は時間割の関係で、夜八時に湖水浴場へ着くからだ。砂の上をスニーカーで走り、重たいリュックを投げ出すとぼくはそのまま琳音と落ち合う場所まで走り出した。


「いらっしゃい。今日はおれからプレゼントだよ」


 そう笑いかけて、琳音は五〇〇ミリリットルのペットボトルに入った緑色の炭酸ジュースを近づいてきたぼくに渡した。ペットボトルにはラベルで外国語らしき言葉が書かれているが、英語ではないようだ。


「なんだよこれ」

「セボリーニャ。味は名前の通りだから……。一度飲んでみるといいよ」

「琳音がそう言うなら。いただきます」


 セボリーニャを口にした途端、炭酸とタマネギの風味が口の中に広がって、爽やかな辛みを口内にもたらす。ジンジャーエールは生姜を炭酸水にしたものだが、それでも美味い。だが玉葱に炭酸水はさすがにぼくの幼い舌にはまだ合わない。


「いひひ。これね、ブラジルでとっても有名なジュースなんだ」

「なんでブラジルのジュースをお前が持ってんだよ?」

「んー、知り合いにブラジル人がいたんだ。その人がおれにくれたんだ。これがおれの飲める、唯一の炭酸ジュースだよ」


 どこか寂しそうに笑う琳音に、ぼくは疑いを晴らしたいと思っておもいっきり聞くことにした。


「ねえ、琳音ってレッテなの?」


 すると、彼は目を丸くしてどこか驚いたような表情をした。そのまま固まって、動くことができないようだ。


「……お願い。あんまりぼくの内側に入ってこないで。じゃないと真夏も酷い目にあっちゃう」


 目を険しくして、琳音は自分にあまり干渉しないようぼくに言いつけた。やっぱり琳音はレッテだった。しかも、かなり危ない立場にいるらしい。


「わかった。でも、この町でお前はかなり目立ってるぞ。塾でも噂になるほどにな。お前、白目が赤いんだろ?」

「え……?」


 さっきまで強気でいたかと思いきや、今度の琳音は今にも消え入りそうな声でぼくに近づいてきた。


「ちがうの……。ちがう、あれは……」


 血迷った様子の琳音に、ぼくは困惑しつつも話を聞いてやることにした。それが自分にできる一番のことだと信じていたから。


「あれは……、真夏。信じて、お願い。おれは確かにレッテだし、今は薬を買うお金がなくて、おじさんから血を分けてもらってるんだ……」

「おじさん?」

「……お客さん。血を分けてもらう代わりにしゃぶって……」


 しゃぶるって、きっとアレをだろう。ぼくは怒りのあまり、琳音の頬をぶった。すると琳音は倒れこみ、その場で突っ伏して泣き出した。さっきまで優等生相手に恋人を傷つけたくないと思っていたのに、やってしまった。


「ごめんなさい……。でも、お金がないんだよ、今は本当に……」

「血ならおれがいくらでも分けるのに……。お前は体を売りやがって……」

「ごめんなさい。ごめんなさい……」


 泣き続ける琳音をよそに、ぼくは暗闇に輝く星空を眺める。粉砂糖がチョコレートケーキのように、暗い夜に散りばめられたような空をしていた。星々はぼくたちを見て何を思うだろう。


 ぼくもあまりの急展開に困惑しつつ、夜空を眺めていた。きっと初めてぼくと出会った日の琳音もこんな気持ちだったのかもしれない。不安で不安で、将来に希望が持てないままここまで彷徨い歩いてきたのだろう。

 そう考えると、中学受験で親と喧嘩している自分が恥ずかしく思えて、琳音に優しくあろうと言う気持ちになってきた。


「琳音」

「なに……?」


 顔から出るものを全部出した琳音の顔はぐちゃぐちゃで、ぼくはハンカチで彼の顔についた汚れを拭いてやる。それから頭を撫でて、琳音を抱きしめた。


「さっきはごめん。おれ、お前がそこまで追い詰められてるなんて知らなかった。もっとお前のことを知りたい。おれこそ、さっきは殴ってごめん。許してくれないか」

「……うん」


 琳音の悲しみや孤独は一体どんなものだろう。体を売って、自分がどこからきたのかさえ明かすことができない。でも彼が自分の中にぼくを入れることを許すことはない。


 琳音が声を殺して泣く中、ぼくは自分の血を彼に渡すための方法を考えていた。だがダメだ。何も思いつかない。


 そうだ。明日、青崎がいたら教えてもらおう。そう決心して琳音を許し、ぼくもまた許された夜だった。


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