第3話 8月3日
一昨日、昨日と琳音が隣にいて、一緒に湖で逢瀬を重ねる夜を送っている。ここ二日間も夜の活動が続けば眠くなるのは当然で、どうしても塾の授業中で眠ってしまう。
今日も国語の授業中。先生にみんなの前で起こされて怒られてしまった。
「こら真夏くん! 真面目にしなさい!」
笑いで教室が騒がしい中、ぼくは夜が来るのを待っていた。時計を確認する。今は午後二時。琳音が毎晩湖水浴場にくるのは夜八時だから、あと六時間ある。それまでに宿題やら授業やらを片付けておかなければならない。
片付けて湖水浴場で琳音と遊ぶのはとても楽しい。あの美少年を独り占めできるのは、世界でもぼく一人だけ。そう思うだけでどこか誇らしく思えてくるのだった。
授業を終えて自宅に戻ると、すぐ宿題に取り掛かる。ぼくが好きな教科は算数で、苦手教科は国語だ。特に漢字が無理。小学生で漢字検定五級の子供なんてザラにいるけど、六年生ができる程度の漢字さえぼくは書けない。
だから小説を読む時もいちいち漢字を調べないと話が進まない。小説は嫌いだ。今日はそんな話を琳音にしてみよう。そう思って夜の八時。ぼくはこっそりと自宅を抜けて湖水浴場へ走り出す。
そこにはぼくの恋人、神様が待っている。琳音はどんな顔をしてぼくの話を聞いてくれるだろう。着いてみると、そこでは琳音が真っ暗な空を仰ぎ見ていた。
「やあ琳音」
そう声をかけると、彼が反応して笑顔で答えてくれる。
「ようこそ」
「ねえ、今日は何して遊ぼっか?」
「んー、いっぱい愛して」
「なんだよそれ……」
ぼくが暗闇から浮かぶ琳音の白い顔を見ると、彼は男性な顔を歪ませている。その様子はどこか寂しそうで、見ていられない。
「おれがどれくらい愛してるか、分かるか?」
「ううん。でもおれは真夏の顔を見てると、明日も生きようって気持ちになれるんだ」
すごい例えだ。きっと琳音は、家庭では誰にも愛してもらえなかったり、逆に愛されすぎてこの世で生きることに疲れた存在なのだろう。
勝手にそんな妄想をしていると、琳音がぼくに微笑みかけて促してくる。
「次は真夏の番だよ」
「おれは……。あー……」
どうしよう。こんな時に限って、いい例えが出てこない。ぼくは脳内の言葉をかき集めながら琳音への愛を語った。
「言葉にできないくらい愛してる。I love you以上の言葉で表したいけど、おれの脳内にはそんな言葉が思い浮かばないんだ。残念な十一歳でごめんな」
どうしようもないくらいキザで残念な言葉しか吐けない自分の情けなさに呆れながら、ぼくはうつむいて湖を眺めている。きっと琳音も同じ気持ちなのだろう。
「ううん。ちゃんとおれはこの耳で聞いたよ。真夏の愛を」
「琳音……?」
琳音が珍しく真面目な表情で演説する。暗闇の湖水浴場にはぼく以外の観客はいなかったけども。それでも愛する上でしっかりと聞いておきたい演説だった。
「この世には沢山の愛がある。愛の形がある。でもそれが歪んだ形に姿を変えるとどうなるか。愛される人間にとっては苦痛となり、逃げたくなってしまう。おれも……。おれも、そんな経験があった。でも助けてくれた人がいたから、ぼくは今日まで生きることができた。だから、愛し方をしっかり言葉にできる真夏はすごい。天才だよ」
普段は国語が大嫌いなぼくが、珍しく心打たれた。塾や家庭で否定されてきた国語へのヘイトが琳音への愛で、琳音からの愛で好きなものへ変わっていく感情を心の底で覚える。
「琳音、おれ国語が嫌いなんだ」
「どうして? こんなに語彙力があるのに」
「なんていうか……。漢字がダメなんだよな。漱石だってそうじゃん。石で口をそそいで、水を枕に眠るって言い間違いから来てるんだぜ?」
すると琳音は苦笑いして、ぼくを安心させようとする。肩を叩いて、微笑むその姿はまるで天使のようだ。
「それは中国の偉人が言い間違えたからでしょ? 中国語はね、同じ漢字でも日本語と意味が違うものがあるんだよ。今でも、日本語の携帯電話は中国語だと手に機械の機と書くんだもの」
ぼくは琳音の博識ぶりに驚いてしまった。つい尻餅をついて、その尻が砂浜についた途端彼がどこから来たのか気になった。
「なあ琳音、お前はどこから来たんだ?」
すると途端、琳音はうつむいてどこか暗い雰囲気を醸し出した。とてもじゃないが言えない。そんな空気の中で、彼は黙ってしまう。
きっとどこかから逃げてきたのかもしれない。もしかしたら大きな何かから追われているのかも。幼い妄想でぼくは琳音の両手を取って握りしめる。
「琳音が言いたくなかったら言わなくていいから。それでもおれはお前を守るよ」
「たとえ大きなものからでも?」
ためらう時間はなかった。
「もちろんだよ!」
すると、琳音は今までの感情が決壊したのか涙を流して、ぼくに抱きついてきた。その柔らかい肌と温かい体温は人間のものだった。
「ありがとう、真夏……。ありがとう……」
琳音はいつまでもありがとうと繰り返して吐き続け、ぼくの体をしっかりと抱きしめていた。
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