手を放すには遅すぎた

位月 傘


 年下の、私よりも長生きする予定の幼馴染がいる。それは別に私が重篤な病を患っているとか、自殺願望があるとかそういう事ではない。

 ほんの少しだけ、本当に少し高い位置にある彼の顔を覗き見る。何度見ても慣れないのではと思うほど美しい顔立ちではあるが、ずっと共に過ごしてきたからか、端麗さに対する畏怖よりも、私にとっては安心感の方が大きかった。

「そんなに見つめたってなにも出ないぞ」

「……ここ、寝ぐせついてるよ」

「どこだ」

 そう言いつつも腰をかがめてこちらに頭を向けてくるものだから、思わず苦笑いを零してさらさらとした髪に手を伸ばす。指通りの良い髪に羨望を抱いていたのはとうに昔の話だ。それよりも髪から覗くとがった耳が視界に入って、何とも言えない気持ちになる。彼は森の精霊――もっと都会の方だとエルフとか呼ばれているらしい――だ。人とは違う種族だし、ときどきびっくりするようなことを言うけれど、一緒に食事をとり、赤子から成長する様子を近くで見てきた身からすると、見た目以外に何が違うのかよくわからなかった。

「ほら、直ったよ」

「ん、ありがとう」

 いつの間にか追い抜かされた背が気に食わなかったけど、彼はまだまだ背が伸びるつもりらしい。なんだか置いて行かれているような気分だった。

 彼は今日は何処に行く、と問う。毎日変わらない問いかけは、私の好きな日常の一つだ。

 数年前、今だって自分が大人だとは思ってはいないけれど、もっと子供だった頃からお付き合いというものをしている。しかしいかんせんこの村は小さすぎて遊びに行けるような所なんてない。しかし家や村に二人で留まるにしても、何処かしこに知り合いがいるものだから、ほぼ毎日と言っていいほどの頻度で、近くの山やら川やら岡やらを探索している。

 始まりはうんと小さい頃で、薬草やらなんやらを山に取りに行くことになった時に、一人では危ないからと彼と彼の父親がついてきてくれたことが始まりだった。三人で行っていた場所も、そこそこの年齢になれば必要があれば二人で向かうようになり、そして恋人になってからは意味も無く訪れるようになった。

 私よりも年下の癖に、何故だか彼は昔から過保護だった。それが弱っちい人間相手だからなのか、女の子相手だったからなのかは分からない。でもいくら自分よりちょっと年下で、ちょっと背が小さいからと言って、優しくて頼りになって、おまけに綺麗な男の子に恋に落ちずにいられるほど鈍感ではいられなかった。

「今日は、やめておこう」

「どうした、体調でも悪いのか」

 黙って首を横に振る。怪訝な表情の彼に胸が痛む。しかしそれを振り切ってでも、終わらせなければならないという思いは、日が経つにつれて強くなっていった。震える唇を叱咤するように出した大きな声は、震えてはいなかっただろうか。

「もうこういうのはやめよう。二人で会ったり、手をつないだり、そういうこと」

「なんで」

 端的故に鋭さを含んだ音だった。なんの防衛手段も持たない私にとってこの状況は、ナイフを喉元に当てられて脅されているも同然だった。

 嘘に敏感な彼に事実を言わないというのは、最初から存在しない選択肢だったとしても、有無を言わさぬその声は、例え見知った人間であろうと恐ろしかった。いっそのこと冗談だよ、とでも言ってしまえたらよかったのに。

「わたしがね、耐えられないの」

「なにが」

「なにもかもが」

 私よりもずっと長生きして、私が死んだ後になって、貴方の背が伸びることも、いつの日か私の手料理よりもおいしいものを知ってしまうかもしれないことも、貴方が誰かに恋をしたりされたりすることも。この気持ちだけは絶対に、きっと彼には分からない。

「私の一生をかけて貴方の事を好きでいたって、いつかこの日が思い出に代わってしまって、私には想像もできないほどの未来には、なにもかも忘れてしまうかもしれないことが」

 気が狂いそうなのだ、とは声に出さなかった。今が幸せであればあるほど別離の日の苦しさが恐ろしくなるとは。死に別れが恐ろしいのは当然だけれど、これは家族や友人に対するものとは別種であった。

 だからどうか、こんな身勝手なことを考えるような女なんて、見捨ててくれますようにと願わずにはいられれない。しかし期待とは裏腹に、失望とは違う吐息を小さく零した。

「なんだ、そんなことか」

 泥のような想いに、彼はなんてことのないようにそう返しものだから、思わず耳を疑う。言葉だけなら冷たく見えるが、実際に彼の口から聞こえたものからは、鋭さはすっかり消え失せ、甘さすら含んでいた。

 愛されている自覚はあった。だから渋られるくらいならまだしも、この状況は予測していない。その表情にすら安堵の色が浮かんでいてますます混乱する。もしかして、最初から私の事など好きではなかったのだろうか。それならどんなに気楽だろう、少しの胸の痛みには目を瞑れるほどの晴れやかな気持ちになれるはずだ。

「ならお前が死ぬよりも先に、俺の事を殺せばいい」

 世間話のような気楽さで、微笑みまで寄こしてきたものだから、もうどうしていいか分からなかった。きっと間抜けな顔を晒しているだろう私が何も言わないからと、次々と爆弾を投げ込まれる。

「それ以外なら森の大樹に封印してやろうか、一年に一度くらい目を覚ませば俺の寿命と同じくらいになるか?……いやだめだ、そうしたらお前の料理がぜんぜん食べられないで過ごさなきゃいけなくなる。これはなしだ」

「ちょ、ちょっとまって」

「なんだ」

「きみはその、気にしないの?自分の一生よりずっと短い時間しか過ごさない相手のために人生を棒に振るだなんて」

「別に気にしないし、そもそも棒に振っているとは考えたことない」

 ここではじめて、拗ねた様な声を出すものだから、やっぱり彼の事はわからない。もっと怒る場面が別にあっただろうに。もしかして、今日が初めて彼の深いところに踏み込んでいるのかもしれない。先ほどまで彼を人間扱いしていた自分を殴りたい。というより精神的に、今までの考えを殴られているような気持ちだ。

「人生で一番大事な人が一人だけなのも、その人のために死んでもいいと思うのも、人間と同じだろう。どうしてそこまで慌ててるんだ」

「いやぜったい、規模が違う気がする!」

「ふん、俺の気持ちを見誤ったお前にばちが当たったんだ。俺はお前がいつかいなくなるから恋人になったんじゃない」

 あーだこうだという私の言葉には既に興味がないようで、面倒くさそうにじゃあどうしたらいいんだ、なんて詰め寄られる。そんなの私が教えて欲しいくらいだった。こんな展開になるなんて聞いていない。こんなに、真剣に好かれているなんて、聞いてない。

「一緒に死ぬのも駄目ならどうすればお前の願いが叶えられる。人の一生は短いんだろう。早く決めろよ」

「と、年下のくせに、なんでそんなに落ち着いてるの」

「年下って言うな。精々数年だろう。誤差だ。背だってまだ伸びる」

 私が別れる覚悟を決める前に、一生を共にする覚悟を決められてるだなんて聞いてない。そのうえ相手を殺すだなんて、一生記憶に残ってやるだなんて気概のない私が出来るわけない。彼の事が憎らしいわけじゃなくて、私無でも生きていけることが寂しかっただけなんだから。

 このちっぽけな人の頭では、私の悩みを解決して、彼も満足するような答えはちっとも思いつかない。彼だったら色々なことが思いつくんだろうけれど、きっとその提案に私は納得しないだろう。

「ちなみに、その答えを出す期限はいつまで?」

「今日中だ。でもパンケーキ作ってくれるならもっと考えてていいぞ」

「えぇ、君のために作ったお菓子、甘すぎてたくさん作っちゃっても誰も食べてくれないからなぁ」

「安心しろ、俺が全部食べる」

 考えることが馬鹿らしくなったとまでは言わない。それでも思い悩むのは無駄なことなんだろう。彼と私は他人で、それ以前にもっと根本的なところでズレている。十数年共にして、ようやくそれを理解した。それにきっと逃げたところで地獄の底まで追いかけられるような気がする。いや、ほんとうに、気がするだけだけども。

「ねぇ、もし生まれ変わっても見つけてくれる?」

 それは酷く不確かで、いっそ戯れのような言葉だった。安っぽくて、でもそんなことがあったらと夢見てしまうような。

 彼は得意顔で笑う。どうやら私は、人間のようなその顔が案外好ましくて、手離すのは惜しくなってしまうほどには、愛おしいと感じるらしかった。

「ふふん、そうしたら今度は俺の方が年上だな」

「……背もきっと伸びてるね」

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