Trois

 中庭に面したキッチンの窓に、朝の白い陽が差していた。起きたときに飲む薬は、三種類のフィトテラピー。一回分ずつ包まれてキャビネットに入っている。この薬包紙という小さな紙に、花の種を包んでおくのが好き。フィトテラピーの店は、市内に一軒しかない。細い路地のいちばん奥で、木々や薬草に囲まれて建っている。Chinois 租界と呼ばれる、その地域で暮らす人々にとって、欠かせない薬屋なのだそうだ。Orientale の私に合うのでは、とサミュエルが探し当ててくれた。彼と一緒にいると年下に見られることがあるのは、Orientale が若く見られがちだということに加えて、私の顔つきが幼いせいでもあるようだ。

 シンクには昨晩の食事の皿が、そのまま置いてあった。サミュエルは料理をするのは好きだけれど、ほとんど片付けをしない。三包の薬を飲んで食器を洗っていると、彼がキッチンに入ってきた。

「おかえり、モア」

 彼の腕に、そっと包まれる。

「サム、ただいま」

 ケルクの鳴き声と、キャビネットを開ける音。きっと上の棚からケルクのごはん、薬と反対側の扉からコーヒー豆を取り出している。缶詰が開く音がして、ケルクが静かになった。代わりにグラインダーがやかましく豆を砕いている。洗いものが終わったので陶器に水を注いだ。ケルクの水を固い床に置くと、たゆんだ水音が響く。

 透明の小さな瓶。クロエが作ったコンフィチュールが空になったもの。昨日摘んだクローバーが飾ってある。サーバーに落ちたコーヒーを、彼がそれぞれのマグカップに注いだ。

「乾杯」

 見つめ合う口元が自然に綻ぶ。斜めに差し込む透明な光が、彼の前髪に見え隠れする瞳を射す。その色が好きだから、そっと前髪を掻き上げたい。それでもこうしているだけで満たされていく腕は、大人しくマグカップを私の口に運ぶ。


 中庭は今日も晴れていて、新しい花を咲かせていた。事務所に郵便や食材を取りに行く。クロエに挨拶をすると、外の空気を吸っていく? と提案された。

「部屋へは彼女に付き添ってもらってね」

 朝食の準備をするというサミュエルに、野菜や飲みものを持って行ってもらった。中庭でだけ、私はひとりになれる。花の匂いを嗅いだり細い葉を噛んだりしていたケルクも、どこかへ歩いて行った。

「これ見つけたの」

 あげる、クロエに四つ葉のクローバーを手渡す。鼻を赤くした彼女が私を抱きしめた。

「ビズは、しないほうがいいんじゃない?」

「そんなの何年も前の話よ」

 サミュエルは、私の三番目の夫だった。彼の亡くなった兄、そして私の夫だった人。彼の亡くなった恋人。彼の記憶から二人は消えてしまった。二十八錠の睡眠導入剤を飲み、業務用冷蔵庫の中で眠っていた私を見つけた彼は、救急隊員に夫だと告げたそうだ。私たちが夫婦だと、彼が本当に思い込んでいることにクロエが気づいたのは、私がリハビリを始めた頃だった。

 彼の兄のことは思い出せないけれど、私の中にはいつも悲しみがあった。晴れた日の中庭の空にも、雨の日の水滴の中にも、いつだって悲しみは潜んでいた。一度悲しみがつけた痕は、例え記憶が消えても元には戻らない。クロエにも同じ形の痕がある。彼女の悲しみは、同じ形を持つ私の悲しみに、ひっそりと寄り添っている。

 サミュエルが本当に兄と恋人を忘れてしまったのか、わからない。もしかしたら、忘れた振りをしているだけなのかもしれない。彼が自署した婚姻届。それらを役所に提出し、市長の前で宣誓をした。彼は福祉関係の書類にサインをしたつもりでいたようだった。何度も事実を説明していたクロエも、彼に合わせるようになっていった。彼は、私と十二年前に結婚したと云う。まだ学生だった二十歳のときに。


 看護師が鳴らしたドアベルの音で目を覚ます。看護師は一言も話さない。表情すら変えずに、私に抗精神病薬を注射する。サミュエルと一緒に部屋を出て行く看護師は、彼とだったら話すのだろうか。二人の姿を消すように目を閉じる。このまま眠ってしまいそうだった。気持ちの重さで体が沈み込みそうだったけれど、頓服が効いてくるのを待つしかない。あと何度、こんな気持ちを繰り返すのだろう。この世界に何度も産まれ落ちるような苦しみ。そうだとしたら何度も苦しんで私を産んだのは誰だろう。

 きっと夏になる頃、私はまた少しずつ失い始める。突然、階段の降り方を忘れたことも、ドレスの脱ぎ方を忘れたこともあった。そもそも人は「どうやって歩くのか」「どうやって着るのか」などと考えながら、歩いたり着たりしない。こういった「手続き記憶」に障害が起きさえしなければ、リハビリになんか行かなかった。私は、サミュエルとの五年間を失いたくない。

 三ヶ月ごとに切り取られる記憶を繋ぎあわせて、いつからこんなにサミュエルのことが好きなのか考える。あのとき。断崖の廃墟で、彼は窓辺に立っていた。対岸にいた私は、とても彼のところへ行きたかった。あれは、一体どこだったのだろう。


 白いドレスの裾をソファにうずめた。ポーンをe4に進める。彼が前髪を掻き上げる。黒いナイトをつまむ指先。ビショップでそれを狙う。赤いグラスと黒のクイーンが宙を泳ぐ。窓際のランプだけが照らす部屋。暖かい光が木のチェスボードに届く。e5のポーンを取ったとき、金髪に透ける水色の瞳が細くなった。

「Échec et mat」


 新しい朝。カーテン越しの弱い光が、隣で眠るサミュエルを照らしていた。今日は出勤だから、もう少しゆっくりしてもらおう。彼がヘルパーの仕事をしている間、私はクロエのところに手伝いに行く。私たちのように家族で暮らしている人は少ない。このアパルトマンに住む数人のヘルパーは、交替で各部屋を訪問している。

 シャワーを浴びて着替えたサミュエルと、一緒にコーヒーを飲んで部屋を出た。階段で住人と擦れ違う。あとで行くね、と彼が声をかける。住人の多くは車椅子を使っていて、ひとりで部屋を出ることはあまりない。

 昼食はクロエとサミュエルと三人で。毎日運ぶ分、その日の朝に注文が入った分と一緒に、自分たちの食事も用意する。私は容器に詰めたり、洗いものや掃除を手伝う。片付けを終えてリビングのソファでペーパーバックを開いた。

 開け広げたドアの向こう、キッチンに大きな冷蔵庫がある。つけたままのラジオから掠れたピアノが届いていた。ちょうど五年前の五月、冷蔵庫に入ったときのことを覚えている。温度が調節できなくなって野菜が凍りついてしまうので、予備として使っていた冷蔵庫。配食を頼む人が減って、電源を落としていた。プラグを刺してアース線を繋ぐ私の手。ハルシオンをひとつひとつ取り出す手。死にたいわけではなかったけれど、生きていられるわけがなかった。理由は……? 初めてのリハビリが終わってから、クロエにあの日の記憶を話した。私はこの部屋でサミュエルの兄と暮らしていたこと、その人が夫であったこととサミュエルの恋人の死を知った。あの冷蔵庫の重い扉を開けたとき、私は「二人がいない世界」に別れを告げた。もう二度と目を覚まさないはずだった。

 二人。夫と、サミュエルの恋人のことなのか。深く思考しようとするたびに、頭痛が激しくなり息ができなくなった。あの壊れた冷蔵庫が、私の三十七年間を冷凍保存している。今もアパルトマンのどこかで、中庭の淡い光を受けて佇んでいるはず。


 曇り空から雨が落ちてくる。中庭にいた人たちが建物の中に帰っていく。濃い緑色の影に白い花々が浮かんでいる。サミュエルが戻ってくるのが見える。高い背が雨を見上げる。車椅子の人を補助しながら、また建物の中に消えた。

 私はコーヒーの用意を始める。私にも、とクロエが笑顔を見せる。暗くなったキッチンにランプを灯して、キャビネットの扉を開いた。


— 私と結婚して


— もうしてるじゃない


 彼の驚いたようなおどけた笑顔。


— 結婚した日のことを思い出せないから儀式をしたいの


 クロエが用意してくれた書類。目を落とす彼。


— ああ、自立支援の更新だね


 ペンを動かす彼の左手。まだそこには指輪が光っていない。


 フィルターをドリッパーにセットする左手の薬指。細い銀色の輝き。グラインダーが止まると、彼が戻る音が聞こえた。

「おかえりなさい、サム」

「モア、ただいま」

 水色の瞳を細める、私の大好きな笑顔。今夜はドクターである彼の父も帰ってくる。コーヒーを飲んだら、サミュエルと二人で螺旋階段を上る。クロエと話す彼の声を聞きながら、カップにコーヒーを注ぐ。いつの間にかケルクも帰ってきていた。雨を知らせてくれたのだろうか。



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