Deux


 窓の外に並ぶプランター。両開きの窓を内側に開いて、サミュエルが花をんでいる。

「やっぱり、白は紫ほど香らないね」

 テーブルの上のグラスに、八重のスミレを落としながら私に笑いかけた。水色の瞳が、悪戯をした猫のように細くなる。グラスの中のスミレが、注がれた炭酸水の泡に浮かんだ。前に置かれたグラスを手にする。微かな甘い匂い。

「猫の世話は、ここの住人みんなでしてるんだ。ほかにもダンテとエヌっていうのが彷徨いてる」

 足元でケルクという猫がごはんを食べていた。かりかりという音がキッチンに響く。

「さっき会ったのは、管理人のクロエ」

「クロエ……デュボワ?」

 鈍い痛みが頭部に広がっていく。記憶を辿ろうとすれば痛みが増し、容易く思索を諦めさせた。

「――そうだよ。ほかにも、思い出したことはある?」

「私……二回結婚した」

 大丈夫? サミュエルが私の肩に手を置く。頭痛の薬を出してもらった。

「夫のことは思い出せない。ここには来ないの?」

「最初の夫は Japonais だってことくらいしか。今の夫は――驚かないで。俺なんだ」

 白いスミレが浮かぶグラス。手のひらが乾いていく。彼の腕を取って、ベッドに移動した。ケルクが音もなくキルトカバーに飛び乗る。

「ここで、何年も一緒に暮らしてる。クロエは俺の実母だから、あなたの義理の母で――」

「待って。頭が」

 痛い。

「私は、また忘れるの……?」

「また教える」

 サミュエルの笑みを目蓋の裏に残して、目を閉じた。

「脳の大脳皮質を活性化させて、記憶領域を増やすという研究が進んでる。認知症の治療にも取り入れられたりね。モアは左側頭葉に損傷があって、そこは長期記憶を司ってるらしい。記憶にはほかにも一時的に保持される短期記憶、それと手続き記憶ってやつがあるんだけど」

 長くなるからまた明日にでも説明するね、と彼の声が続く。

「リハビリは三ヶ月に一度。病院で脳神経に施術をして検査を受ける。それから臨床心理士が三十分程度のテストをする。昨日はリハビリの日だったんだ」

「昨日……病院に? 気がついたときは、ひとりでメトロに乗ってた。帰り方も、帰る場所もわからないのに」

 一緒に居ただろ。サミュエルの声に目を開く。

「一度だってモアをひとりにさせたりしないよ」

 枕元で丸まるケルクが、ごろごろと音を立てていた。

「家族の承諾が必要なリハビリだなんていうから、俺も体験した。はじめに麻酔して、一番奥の歯を左右一本ずつ削るんだ。そして金属のカバーを被せる」

 探ってみると舌の先に金属が触れた。上の奥歯。

「歯を削るのは最初だけ。そのあとは口内に麻酔が効いた状態で、両方の奥歯の神経に軽い電流を流す。行ったこともない国の景色を思い出したよ。L'Angleterre の森を映す湖や、La Finlande の空を覆うオーロラとか。思い出したって言い方は適切じゃないかもしれないけど、実体験の記憶としか思えなかった。一瞬、自分が誰だか分からなくなった。そして、その日からなぜかチェスで負けなくなった」

 チェス、と云ったたときに笑顔になる。

「眠っていた状態の脳の領域がオンになると、その反動で今まで使われていた領域がオフになってしまうそうだ。モアの場合、そのオフの状態は数日で戻る。ただ、今までに五年以上前の記憶が戻ったことはないんだ」

 結婚したのは五年以上前のことだという。彼に聞いた話を思い出したに過ぎないのだろう。サミュエルが私の夫――。

「昨日は、ただの介護士のふりをしていたの?」

「昨日話したら、ひどく混乱させてしまうと思った。帰ってきたときは不安だっただろ。まだ思考もはっきりしていなかったと思う」

 そう。昨日は、夢の中のようだった。これはリハビリ後の一時的な自失だというの? なぜ五年前までのことは思い出せないの? 好きだという気持ちは、思い出せるの?


 顔を舐めるケルクに起こされた。お腹が空いているのかもしれない。ごはんをあげたいけれど、まだ体を起こせない。しばらくするとケルクは部屋を出て行った。

 ――メトロは、五年前から動いていない。意識が醒めていくにつれて、記憶が流れ込んでくる。多くの人が、亡くなった。新型ウイルス。COVID-19。パンデミック。私が感染したこと。回復したこと。彼が教えてくれた、さまざまなこと。ここで暮らす、後遺症を抱えた人々。ほとんどの部屋に酸素濃縮装置があり、外出時は酸素ボンベを携帯している。私は、息苦しさや肺活量の低下はあるものの、酸素吸入をしなくても活動することができる。それなのに、パンデミック以前、五年前までの記憶がない。

 音がない部屋。ここでは音楽を聴いていなかっただろうか。ギターの弦が擦れる音。風のような歌声。聞きなれない言語の歌詞。止まりそうな指の旋律。メロディーの欠片が頭に浮かんでは消える。泡のよう。

 寝室のドアノブに触れようとして、左手のICチップのことを思い出した。ケルクが出ていったままに、少し開いていたドアを押す。リビングにサミュエルとケルクがいた。元々ケルクは彼の猫で、私たち夫婦と一緒に暮らしていた。夫婦――。私は四十二歳だ。彼は何歳も年下に見える。

『三十歳の誕生日に二度目の結婚をした』

 十二年前、彼は何歳だったのだろう。

「食欲は?」

 首を横に振る。

「鶏肉を煮ておいたよ。俺が食べたくて」

 目を細めるサミュエルに安堵するものの、これが愛情なのかは分からない。

「中庭を散歩したい」

「歩けそう?」

 まずは水を、とキッチンに向かう彼。どこかに仕舞ってあったIDカードを首にかけてきた。受け取った水を飲み干しながら、カードを観察する。まずサミュエルのIDでロックを解除しなければ、私の左手のキーだけでは玄関は開かない。ICチップには数ユーロがチャージされているけれど、私ひとりで買いものをした記憶はなかった。

 螺旋階段を少しずつ下りていく。立ち止まる私に合わせて、サミュエルも少しずつ階段を下りる。アパルトマンの建物に取り囲まれた中庭。生い茂るつた。石畳の隙間に咲く小さなデイジーたち。数種類のハーブ。つるの大きな花。

「クレマチス」

 仄明るく灯る花びらに触れる。

「モアは白い花がすきだね」

 足元のクローバーの花を摘んで、サミュエルに渡す。壁際のベンチに座って見上げると、切り取られた青空が見えた。

 この庭の花は圧倒的に白が多い。サミュエルが教えてくれたクレマチス。蔦と一緒に壁を覆う蔓バラ。足元のデイジーとクローバー。クロエが好きなのだろうか。それとも、私が好んで育てているとでもいうのだろうか。クローバーが、まるで摘まれるのを待っているかのように咲き誇っている。空を大きな鳥が横切る。それとも、誰かが植えたわけではないのだろうか。

「キッチンに飾りに行こう」

 クローバーの花束を持ったサミュエルが、私を促した。事務所から出てきたクロエの姿が見える。サミュエルと同じ、色素の薄い金髪。水色の瞳。持っていたクローバーから束を分けて、彼女に渡した。



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