トワジエム

𝚊𝚒𝚗𝚊

Un

 3ème という駅で電車を降りた。乗ったのは地上の駅だったけれど、ふたつ目の駅を過ぎた辺りで地下に入った。乗り換えないといけなかったのかも知れない。地下は通らないはずだった。反対方面の電車に乗るために何分も彷徨う。どの案内板にも無数の行き先が記されている。乗車した駅はどの方面になるのだろう。

 私は地上を目指すことにした。Sortie という文字が光るのを辿って階段を上る。湿った風が地下から吹き上げる。私の長い髪はなびいて、柔らかいドレスの裾ははためいた。


「Ça va?」

 人懐こい水色の瞳が笑いかける。夕闇に浮かぶ彼の金髪は、白髪といっていいくらいに明るくて、長毛の猫のようにふわふわだった。私の栗色の毛先は、夜の闇に吸い込まれている。階段を上って地上に出ると、街は暮れ始めていた。陽射しは建物に遮られ、夕暮れの風が通り抜けていく。男の人に声をかけられたのは、五分ほど歩いたときだった。空に光るいくつかの星が、彼の金髪に手を伸ばしている。

「Bonsoir」

 挨拶を返すと彼は一瞬目を閉じた。

「行こう」

 水色の瞳が交差点の向こうを指す。

 

 アパルトマンの前で彼は足を止めた。通りの両側には五、六階の建物が連なっている。彼は薄手のコートから端末を取り出して、一枚の画像を表示させた。私が写っている。場所は、このアパルトマンの前だ。写真の中の私は、笑いもせずにカメラに視線を向けていた。重たく青いドアが開き、つたが伸びる外壁が現れる。中庭を過ぎ、何回もくるくると折れ曲がる階段を上った。さっきから頭が痛い。或る部屋の前で彼は立ち止まった。端末をスワイプする。次の写真の私。足元の古びたラグが、このドアのものと同じだった。編み込まれた赤いリボンが、零れた花びらのように散っている。

「左手で」

 ノブに手を近づけると鍵穴の奥でカチャリと音がした。

 リビングのソファに腰を下ろす。ローテーブルに水の入ったグラスと錠剤が置かれた。グラスを手にして鼻を近づける。何の匂いもしない。丸い、直径七ミリほどの白い錠剤。今日、私は何をしていたのか。電車に乗る前のことも、増して電車に乗っていたのかすら思い出せない。

「書いてみて」

 デュボワ。D、U、B、O、I、S。

 モア。M、O、A。

 彼が云う通りにペンを走らせた。向かいのソファに座る彼は、不貞腐れているようにも緊張しているようにも見える。テーブルに置かれたカードには、直筆のサインと、私だと思われる女の顔写真。名字は DUBOIS、名前は Moa と記されていた。生まれた年は一九八三年。今は何年だろう。ふいに、三十歳の誕生日に二度目の結婚をしたことを思い出して頭痛が激しくなる。身分証明書から顔を上げると、彼と目が合った。水色の瞳が細まる。

「これは痛み止め。モア・デュボワ、あなたに処方された薬の袋に入っている。飲んだら和らぐはず」

 カードと一緒に置かれた薬の袋を手に取る。

「私はモア? あなたは?」

 サミュエル・デュボワ。介護士。彼の身分証明書と、病院のIDを見つめた。

「あなたも、デュボワ?」

「よくある名字だよ」

 そうだ。デュボワはたくさんいる。でもモアなどという名前はおかしい。私は moi ? 今月、来月の mois にも聞こえる。考えようとすると痛みは強くなり、脳内に膜が張られていくような気持ち悪さが増した。白い錠剤を口に含み、透明の液体を飲んだ。

「横になろう」

 彼に支えられて寝室まで歩く。鮮やかな色のキルトとクッションに埋もれたベッドに軽い既視感を覚えながら、ここには何かが足りないと思った。


 目が覚めたとき、まだカーテンの向こうは暗かった。枕元の時計は午前四時を過ぎて、今も動き続けている。頭痛は消え、私は生きていた。リビングでサミュエルが眠っている。飲みものを探して冷蔵庫を開くとサンドイッチが入っていた。バゲットにチキンとトマトと茹で卵が挟んである。Mange moi! というメモが付いていた。白ワインをグラスに注ぐ。眠っているサミュエルの隣を通ってドアのノブに手を伸ばす。カチャリという音もしなければ、開くこともなかった。読みながら眠ってしまったのであろう分厚い本を、ナイトランプにかざす。知らない単語ばかりだ。メタボロミクス。リピドミクス。ステロール。リグナン。シトクロム。そう。二台のソファをくっ付けて、その上に横になっているサミュエルは、トゥイードルダムとトゥイードルディーのようだ。サスペンダーパンツの短めの裾から、素足が覗いている。乾いてはねた金髪に触れてみる。やはりふわふわだった。


 次に目が覚めたとき、外は明るくなっていた。キッチンで音がする。違うシャツを着たサミュエルがコーヒー豆を挽いていた。今日は、昨日の次の日だろうか。シャワーを浴びて私も着替えた。黒いドレスを選ぶ。

「痛みは?」

「随分いいみたい」

 こめかみと額の辺りが軽く痛むけれど、薬を飲むほどではなかった。コーヒーが減ったカップをテーブルに置く。

「少し外に出よう」

 サミュエルがIDをかざしてドアを開けた。そっとドアノブに触れてから、彼について階段を下りる。

「Bonjour」

 一階の事務所から出てきた女の人は灰色の猫を抱えていた。猫の顎の下をくすぐる。

「ケルクよ。一緒に撮る?」

「ありがとう」

 私は猫をドレスのシフォンで包んだ。

「さあ並んで」

「俺はいいんだ」

「サミュエル、あなたも入って」

 笑顔のときとは別人のような、冷たい目の光で「俺はいい」と繰り返す。女の人に促されたサミュエルは渋々私の隣に立った。彼の端末に新しい画像が保存された。二人と一匹は生真面目な顔つきで一枚の画像に収まっていた。

 女の人にケルクを手渡す。中庭に下ろされた猫はゆっくりとアパルトマンの階段を上って行った。サミュエルもケルクについて行く。

「写真は嫌いなの?」

 彼の後ろ姿に問いかける。

「介護士と写っても仕方ないだろ」

 背中を向けたまま答えるサミュエルの声は、何だかおどけているように聞こえた。

「あなたのほかにも、ここに来る介護士はいるの? ここの部屋は私が借りてるの?」

「――歩きながら話すと、疲れるよ」

 何度も休憩しながら階段を上った。彼が開けたドアの隙間から、猫が室内へ滑り込む。音もなく、まるで液体のように。



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