もう一度だけ君に会いたい
望戸
もう一度だけ君に会いたい
(なにか、大切なことを忘れている気がする)
小さな渡し舟に身を預けて、風流な船旅と洒落込んでいた。対岸の見えぬほど幅広の川を、こちら岸からあちら岸まで運んでもらうだけのシンプルな道程だ。時代がかった木造の小舟に、他の乗客はいない。舳先側に立つ船頭だけが唯一の道連れである。
「どうかしやしたか、お客さん」
考え込む私に、時代がかった口調で船頭が声をかけてくる。顔が隠れるほど大きな編笠で、その表情は見えづらい。
「なんだか、何かを忘れているような気がするんだ」
正直に私は答える。
「そうですかい。まあ、忘れたほうが幸せってえ事も、世間にゃあたくさんありやすからね」
「でも、どうしても今思い出さなきゃいけない気がするんだ。船があちら側につく前に……」
船頭がこちらを振り返る。
「こんな仕事をしていると、お客さんみてえな人にもちょくちょく出くわしやすがね。運良く忘れ物を思い出した人は大抵、ああ思い出さなきゃよかった、なんて頭を抱えてなさる。項垂れながら船を降りていく後ろ姿が、なんとも哀れでねえ」
「そうか。結構いるものかい、こういう人は」
「ここがどこだか、お客さんだってご存知でしょうや。なんたって、三途の川の渡し舟ですぜ。みいんな此岸に未練たらたら、それもまた道理でさ」
大したことではないかのように一人うんうんと頷いて、再び櫂を操り始める船頭。だが、船頭の台詞は、私にとっては一大事だった。
「ちょっと待て。三途の川? 私は死んだのか?」
「あらら、それも忘れてなすったか」
船頭は呆れたようにため息をつく。
「船に乗る前、ちゃんと説明しやしたでしょうが。自動車に撥ねられて、昏睡ののちご永眠だったって」
「聞いてないぞ。気付いたらここにいて、この船に乗ってたんだ」
「いいや、あっしはお話ししやした。そりゃあもう臨場感溢れる説明ですぜ。再現しやしょうか。ブーン! キキーッ! ドガーン! ガツン! ……チーン」
船頭は派手な擬音語とジェスチャーで、どうやら事故の状況を演じているようだ。右手の人差し指扮する私(多分)が左手の握りこぶし扮する車(多分)にすごい勢いで撥ねられ、頭を打って倒れる。あっけにとられて見ていると、最後の「チーン」でこちらへ手を合わせるものだからたまらない。
「よせよせ。そんな不愉快な寸劇見せられたら、覚えてないはずないだろう。俺はまだ死にたくないんだ。今すぐ船を戻してくれ」
「そいつぁ出来ねえ相談だ。この乗船名簿にも、はっきりお客さんの名前が書いてある」
ほれ、と差し出された和綴じの冊子を私はひったくった。角張った墨書で書いてあるのは、確かに私の名前である。ご丁寧に生年月日と本籍地まで載っているので、同姓同名の別人という言い逃れは出来そうになかった。
「間違いねえでしょう」
ほら見ろ、と言わんばかりの船頭に、呆然としながら名簿を返す。信じたくはないが、どうやらこの三途の川を渡り切ると、私は本当に死んでしまうらしかった。
「なあ、頼むよ。娘はまだ小さいし、妻は病気がちなんだ」
我ながら情けない涙声だ。だが、船頭はちっともこちらなど気にせずに、淡々と船を進ませるばかりだ。
「泣き落とししようったって、そうは問屋が卸しやせんぜ。あっしもこの渡し舟に乗って随分長い。幸せの絶頂だった人も、不幸のどん底にいた人も、平等にあの世へ送ってやるのが船頭の仕事でさあ」
「説明もなしにか? 残酷すぎるだろう」
「だから説明はしたって、さっきも言いやしたでしょう。聞き分けのねえ人だ、全く」
心なしか櫂の操り方が力任せになっている気がする。船のスピードを上げるつもりかもしれなかった。向こう岸に着いてしまえばもうお手上げだ。なんとか、渡り切る前にUターンをさせないと。
「さっきも言ったが、本当に説明された記憶がないんだ。これじゃあ、納得しようにもできないよ」
「そんな事をあっしに言われたってねえ」
飄々と躱す船頭に、私は言葉を続ける。
「船頭さんが説明をしてくれたというのは、あなたの話しぶりからして、きっと本当のことなんだろう。それは信じる。問題は私の方だ」
さっき船頭はなんと言った? 忘れもしない。『自動車に撥ねられて、昏睡ののちご永眠』だ。
「私はまだこうやって三途の川を渡っている途中だ。死んでからそんなに時間は経っていないんだろう。私の場合、死んだばかりということは、イコールで昏睡から目覚めたばかりということだ」
「死んだばかりが、目覚めたばかり……」
「そう。そして、そんな意識の朦朧とした人間が、急に聞かされた話の内容を理解出来ると思うかい?」
恐らく私は、説明を聞いていないのではなく、聞かされたけれど理解することができなかったのだ――相手に伝わらない説明など、していないのと同然だ。
「あなたは私の死に方をよく知っていた。当然、私の理解能力が一時的に失われていることも想定できたはずだ」
一気に畳み掛ける。
「説明すべきものを説明しないのは、プロの仕事としてどうなんだろうね。相手に理解してもらえるまで言葉を尽くし時間をかけるのが、本当のプロの仕事なんじゃないか。平等が聞いて呆れるよ。信頼できない船頭に、大事な人生の門出を任せるわけには行かない。よって、今回の渡航はキャンセルだ」
自信に満ちた笑顔で私は要求する。交渉ははったりと度胸が命だ(命が無くなりそうな時に使う言葉でもないが)。
「さあ、船をUターンさせてくれ」
船頭はぽかんと口を開けて、私の顔をまじまじと見つめている。何言ってんだこいつ、とでも言いたげなその表情が、次第にゆがみ始める。細かく肩を震わせて、暫くは耐えていたのだが、ついにぶはっと大きな息の塊を吐き出して、船頭は呆れたような笑顔を浮かべた。
「三途の川で口喧嘩を吹っ掛けようたあ、随分と肝の太えお人だ」
「よく言われるよ」
嘘。本当は緊張で膝が震えている。なんたって自分の生死が掛かっているのだ。座っていてよかった。
「昨今はあっしらも、やれコンプライアンスだなんだって煩くて仕方ねえ。船に乗る前にこれからの事を説明して、きちんと納得させるのも船頭の仕事でね。確かに説明は済ませたが、あんたが理解したかを確認しなかったのは確かにあっしの落ち度だ。このままあっちに行かせるのは、あっしにとってもちぃっとばかり都合が悪い」
言いながら、船頭はさっきの乗船名簿を取り出した。私の名前の乗ったページを開いて、
「……これは親切心から言いやすがね。あんたは事故のあと、十年近く昏睡状態で、ようやくこの船に乗る順番が回ってきたんでさ。それでも本当に、あちらへ戻りやすか」
「戻る。死ぬ前に、もう一度妻と子どもに会いたい」
「一度戻ったら、もう当分はこっちには来れませんぜ。よござんすね」
「勿論だ」
「それなら、もうあっしも止めやせん」
言うが早いか、船頭はそのページを破り捨てた。
途端に辺りの風景が変わった。非常口と書かれたドアの前に小さなカウンターがあり、案内嬢とおぼしき女性がにこにこと笑みを浮かべている。
「ここから戻れるのか」
「ええ、どうぞお進みください」
恐る恐るドアノブを捻り、扉を押し開ける。
ドアの先は何故か空中で、出しかけた足を私は慌てて引っ込めた。しっかりノブを握ったままこわごわ覗き込むと、そこはどうやら病室のようだった。顔に白布を掛けられて、真ん中のベッドに寝かされているのが私だろう。心臓が止まったばかりという感じだ。私の手をとってすすり泣いているのが妻だ。とすると、妻の隣で慰めるように寄り添っているのが娘か。私が覚えているのは、小さかった頃の姿だけなのだ。よく大きくなってくれたなあ。
よく見ると、娘の反対側、妻の肩をさすっている一人の男がいる。この人物には見覚えがない。
見知らぬ男が妻に言う。
「こんな時に言う事じゃないかもしれないけど。ようやく旦那さんが亡くなってくれて、正直、俺はホッとしてるよ。これ以上君が憔悴していくのは見ていられない」
いきなり何を言い出すんだ、この男は?
娘も言う。
「私、新しいお父さん、好きだよ。今のお父さんのことは、正直あんまり覚えてないし……そろそろお母さんも、幸せになっていいと思う。今のお父さんだって、きっとその方がいいって言ってるよ」
言ってない。お父さんはそんなこと、一言も言ってない。
妻が顔を上げる。涙に濡れた瞳を娘に向け、そして男に向け、何かを言おうとして口を開く。
これ以上見ていられなくて、私はバタンと扉を閉めた。受付嬢が怪訝そうな顔で私を見る。
「どうかなさいましたか? 早くお戻りください」
「あんなの見せられて、戻れるもんか。――申し訳無いんだけど、生き返る訳にはいかなくなったんだ。どうも私がこのまま死んだほうが、家族みんな幸せになれるみたいなんだ」
十年、と船頭は言った。あの妻の表情が、全ての苦労を物語っていた。
もう、妻を楽にしてやりたい。そのためには、回復の見込みのない植物人間など、生きているのは邪魔なのだ。
しかし受付嬢は笑顔を崩さない。
「乗船名簿にお名前がありません。どうぞ速やかにお進みください」
「だから、それは無理なんだって」
「無理ではありません。さあ」
がたっと音がして、ひとりでにドアが開いた。どこからともなく吹いてきた風が、私の身体をドアの外へと押し戻す。私はなんとか抵抗しようと足を踏ん張るが、強風の前にはなす術もない。ついにはふわりと身体が浮き上がり、あっという間にドアの外へ放り出される。受付嬢が顔の横で揃えた手を振っている。空中に飛び出した私は、ベッドに横たわる肉体へ音もなく同化する。
心電図モニタが、弱い電子音を発した。
薄れゆく視界の中で、私は思わず妻の顔を見た。
ああ、妻と娘のことなんて、思い出さなければよかった。
もう一度だけ君に会いたい 望戸 @seamoon15
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