獣
千羽稲穂
ごみ溜めから産声
体が浮いている。獣が自身の中で蠢き、牙を剥く。大海原に孤独な獣が落とされて、水の中でもがいている。空気がない。息が吸えない。苦しい。どこまでいっても陸は見えず、かと言って死ぬこともできず、生きることへの渇望が増すばかりであった。足を動かし、獣は前へ進もうとするが、上手く泳げはしない。所詮獣であるからに、犬でなく従順に水の中を漂うことはできず、反抗することしかできないため誰にも助けられず、獣は水底へ墜ちてしまう。そして深い深い青にまみれながら水面を見上げる。あぶくのように広がる光源を手にひたす。朝の柔らかな赤が私を見つめていた。水底から見上げる早朝の日差しは私を日常へと戻させる。
ごみ袋から今まさに生まれたと言わんばかりに、私はそこで目覚めてしまった。昨日のことが嘘のようであり、咳を一つし、傷んだ体を動かす。関節が曲がらない。冷えきった節々は毒を刺されたかのように痺れており、千鳥足にさせる。ようやく立てたかと思えばごみのベッドへまっ逆さまだ。
「最近こんなことばっかじゃねぇか」
と、獣が綺麗な黒のたてがみを揺らし、ささやいた。
いやはや、この獣は間違っている。こんなことばかりでない。こんなことしかないのである。
獣は歪な笑みを見せ歯茎を剥き出しにして、ぜぇ、ぜぇ、と喘息のような呼吸をしていた。
どうした。俺はまだ死ぬつもりはないぞ。その牙で胸を裂き、心臓を噛みちぎらぬ獣に何の意味があろう。私を殺しにこい。朝の柔らかな日差しで私を殺せると思うか。獣よ、私を殺せるなら、殺せ。
くつくつと気味のわるい笑い声をしてしまう。産声をあげるかのように私は笑い続けている。どうしたものか、通り過ぎる人々はみな唾を飛ばすかのごとく私を見てくるのだ。
「見るな、見んじゃねぇ」
がなりたてる獣がそこにいた。
獣がぐるぐる回っている。やがて獣は複数に分かれる。へどろ状のそいつらは周囲の闇を吸い込む。黒々しい霧を吐き散らす。その中で金色の瞳が瞬く。そして、標的を見つけて、取り囲む。光が明滅する暗がりに獣に囲まれたガキは恐怖で体を縮こまらせた。ゲームセンターに並べられた液晶画面に映るキャラクターがやけに明るく振る舞っている。コインを次々と要求していた。羽虫が喚くようである。しつこく繰り返す映像に気が滅入り、液晶を殴ってしまった。
「お金ねぇんだよ、貸してくれよ」
「おだてりゃすぐだ」と獣が唸る。
「頼むよ」
「ほら、もっと言えよ」獣が私の背中を押す。
「こいつ、やべぇよ」
ガキ達は私から距離をとるそぶりを見せた。刹那、喉から冷たい雪がちりちりとせり上がる。雪が溶けると、今度は雪は表情を変え、熱をはらみ、肌を削るような痛みを訴え始めた。目に力が入る。
複数に分かれた獣の形が崩れ、上へへどろが噴き出る。泥が散乱し、私の顔に飛び散った。火花が散ったように爆発音と共にへどろが撒き散らされる。胃から全てを放り出した。
獣で世界が塗りつぶされる。
獣のへどろを拭うと、手に二千円が握られていた。紙の乾いた感触を確かめて、口角を上げる。
「ほら、いけたじゃないか」
はっは、と獣が下卑た笑いをガキ共に落とした。
コンビニで安い缶ビールを買って、浴びるように飲んだ。アルコールで酔いが回り酩酊。世界がくるりと回った。最近はすぐに酔いがまわる。
パチンコで大当たりを狙う。私の周囲で獣が体を膨らませ大きくなったり、黒々しい霧を周囲に浸し小さくなったりしていた。私の体に手をかけて叫ぶ。
「酔ってないとやってらんねぇ」
よう、きょうの調子はどうだ。手を動かしパチンコ玉が霰のように堕ちていくの見つめていると、隣に誰かが座り絡んできた。
「お前だれだっけぇ」
「おいおい、いつも一緒にいるじゃん」
「そうだっけ、か?」
「ま、どうでもいーじゃん。のみにいこうぜ」
「待てよ、今当たってんだから」
「は? それが、か?」
獣の声が聞こえる。唸り声だ。バイクを吹かしたような声が、パチンコ台から飛び出ている。何かがおかしい。目を細めてパチンコを追った。玉が落ちてない。さっきまでたくさん出ていた玉がない。獣が全て食べている。口に頬張り、いくらを口の中で潰すようにぱちぱちと跳ねていた。なんということだ。手持ちの残金がない。
声をかけてきたやつが私の肩に手を回す。口から甘ったるい匂いを漂わせており、目の焦点があっていない。どこを見ているのか分からない。が、獣は楽しそうにそいつと踊っていた。
「そんな日もあるさ、ぱーっといこうぱーっと」
はっは、と俺はその全部にあざ笑う。
とうとう俺はおかしくなってしまった
「ちょっと待て、金ねぇわ」
「おっけー。どっかでガキ見つけてゆすろう」
その前に一服吸わせろと、パチンコ前でそいつは煙草をふかせる。最後の一本になったしけた煙草を私も吸う。と、そいつはポケットからラムネの包み紙を取り出した。なぜか獣がどっぷんっと道路の中へと水みたいに入っていく。先ほどまで煩かったが、どういった領分だろうか。朝から獣が共にいたためか、音の凪がより一層染みてしまい自然と落ち着いてしまう。
「それ、なんだよ」
にっと歯を見せてそいつは、
「ルーシー」
と、やつは愛しのガールフレンドを紹介する。
「お前もほしい?」
やけに静かであった。大海原に落とされず浮遊感もない。獣も見えない。ただおびただしい疲労感や倦怠感が体に押し寄せている。そのたびに私は空を見つめて、そういやなんでここにいんだっけ、と客観的に自身を見てしまっていた。
どこかで腹の大きな女が笑っていた。その情景が私をとどめているような気がした。獣が私の足元をさ迷っている。黒い影が足を掴む。気を抜けば、獣と一緒に地面に埋まる。足が水上になった地面に沈んでいく。
「今はいいや」
まだ私は帰れるところにいるだろうか。
大海原に堕ちる。獣はもがく。この世界に居場所はないのであろう。息を吸い、呼吸をしようとしてもなぜか入ってくるのは水しかなく息が吸えない。溺れるしかないのだろう。そうしたらアルコールを水に含ませ、ここが天国だと錯覚させてしまおう。
獣は笑う。笑って笑って、狂うまで、笑った。終いには海にアルコールを染み込ませて、水を吸えるように、水の中を生きれるように、笑えるように、視界を澄み切ったターコイズで埋め尽くした。
獣は大仰に笑っていた。水が口に入ることも厭わない。アルコールを、アルコールをとせがみ、腹をさする。あなたのせいでこんなお腹になったのよ。海へ流しましょう。全部ないものにするの。幸せな酩酊へ誘われ、獣は嗚咽し、切願する。
「これがなければ生きられない」
獣が肩をとんとんと叩いた。目の前でガキをゆするガキがいた。私が手にした紙幣を獣は賞賛する。小躍りしてターンする。私はさっき今はいいと告げ、帰ったはずだった。それがなぜかまだやつの隣にいる。
煙草の紫煙が全て獣になっている。私の体に渦巻く。先ほどは拒否した物事に、自然と体が動いてやつに飛びかかった。
「ルーシーをよこせ」
獣が私の体に付着し、肌を埋め尽くす。雪が積もるように頭、体、足、と色を足す。まるで今まで彩があったかのようだ。
そんなものは錯覚に過ぎない。全てないものだ。リアルなんてこの世界にあってはならないのだから。
節々までモノクロに染め上げ、色を放棄する。私は端々まで獣に成り果てた。
ガキの首をしめてやる。やつの息の根を止めてやらねば。私は出会ったその瞬間にこいつを殺すと決めていたのだから。
昨日もこんなことがあった気がする。そうかあったのかもしれない。まるで昨日に戻っているようであったからこの感覚は確かだろう。
では今はどこだろう。どこまで戻ったのだろう。
白黒のラムネが溢れている。ルーシーだ。明滅する世界は滑稽だ。違う。滑稽はどちらだ。どこまで滑稽だ。私は滑稽か。
ルーシーを口にしていた。足りずに、すり潰し、ストローでついばむ。アイスもあった。これもまとめて口に放り込む。獣がひしめきあっている。音の形が浮き彫りになる。五感がするどくなり、疲労感が吹き飛ぶ。倦怠感なんて嘘のように体が空を飛んでいる。翼が生えたみたいだった。地面なんてない。
「彼女の言う通りだ。これがなきゃ生きていけない」
朝焼けが私の体を温める。ごみまみれ、よだれまみれの服をかきむしる。二日酔なのか疲労感や眠気がまぶたにのっている。ごみ袋をベッドに眠っていたらしい。笑いが止まらなかった。闇を薄める朝焼けの赤に目を細める。手には生々しい殺しの感触が残痕している。
やつは笑いながら逝った。生死なんてもう既にぶっ飛んでいた。瞳孔が開き痛みを感じずに動かなくなった。獣が私を笑っていた。私も笑っていた。
全部壊したくなった。私も、やつも、目に映る全て。私を殺せるなら殺せ。どうした。私はまだ殺されてないではないか。早くこの心臓を抜き出し握りつぶせ。
ごみ集積所の近くを通った小学生がなんの気なしに私を見つめている。真円に近い丸い瞳で見ているものだから、私と獣は唸るように吠えた。
「見るな、見んじゃねぇ」
ひとしきり言い終えると何も感じなくなった。
「最近こんなことばっかじゃねぇか」
ベッドに戻り、目を伏せてあぶくとなった水面を隠す、朝日で睫毛を乾かした。
「こんな世界、ぶっつぶしてぇよ」
足は深い深い青色をした水面に浸かっていた。
獣 千羽稲穂 @inaho_rice
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