ボツ

はしかわ

第1話

1.

 角を曲がればいつもその先の角へ消える背中だった。導いてゆくつもりか、それにしては来た道を戻ってはさまよった挙句また同じ交差点へかえってと道のりはおぼつかず、ただつねに角を曲がってゆくのだから、今いる道を進んでいてもたどり着けないのだけはわかっているらしくて、むしろその意識だけで角を曲がり続けているのかもしれなかった。潮の気配はまだ遠い。

 影が消える、角はときどき地平線の向こうであったりして、つまりそれだけ長い一本道に出ることもあったので、そんなときはようやくこれという道が見つかったと思えるのに、しばらくして見つけた最初の角をまさかと思いながらのぞくとその奥の角を曲がってゆくのがみえて、それでまた追っていく。

 歩きながら菓子パンを食べる。

 長ぼそいのを、バナナみたいに先だけ包装を剥いて歩きながらたべている。引っ越してすぐ、毎日掃除機をかけて洗濯をして、そのたびそうやって無限に晴れやかな一日が続いていくような気がしていたときには、こういうことはやめて、ひとりのときでも人に見られてかまわないような振る舞いで、と思っていたのに、そとで空腹をおぼえれば結局はこんなものをたべて甘いべたべたで手をよごしたりしていて、そういうふうにして夕方には円一日常温でほったらかしにされた白ごはん一号弱と対面することになった。今日もぴったり六時半になったら階段を下りてきた、ユウはこのあたりをきいて、

「寒くて助かったね」

 とか言う。

 だしに使う鰹節の量がいまだに半信半疑なのは秤も量る気もないからだけど、そうやって覚束ない気持ちのまま灰汁とり杓子をかまえて鍋を睨んでいる間に、ユウは白菜を出してくる。リビングの奥の角を曲がって右手に流し台、左手に冷蔵庫だから、視界の右端を、出て行って戻ってくる影が、動くたび泡立つ絵具の匂いはとっくに慣れたものと思っていたのに、絵具の匂いだ、とまたわざわざ真面目に受け止めてしまう。いくら寒いからって葉物をお湯で洗うのはどうなんだろう。

次に葉と芯を分けてゆく。いつもならユウはそんなめんどうはせず適当にざくざく切っていくはずだった。

「なんかレシピでも見た?」

「豚とえのきが安かったから」いいながら芯を細切りにしていく。

「から、なに」意識だけユウに向けたまま水面を見張っている。

「豚とえのきで検索して」「あー」「和風あんかけだって、白菜の残りも使えるし、と思って」「うん」

 生返事しながら白い泡を掬って捨てれば、二、三軒先だと思うけど、シャッターを閉めるのがきこえて窓があけっぱなしなのに気づく。帰ってきてからコートを脱いだだけの格好で寒いとも思わなかったけれど、フローリングのひややかさは靴下を貫いて足に染みこんでいる。ユウは靴下がきらいなので裸足だった。

「さむくない?」「へいき。火あるし」「うそつけ」杓子で指す、むきだしの踵が冷たいフローリングから数センチ浮いていた。「冷たいけどさむくは、」「靴下はけよ」「あとで」「みず出てる」「あ、ごめん」

 三十分でだいたいの支度はすみ、十数分だらだらして、七時からごはんになる。食卓はふたりぶんの食事には横長すぎて広すぎる。そもそもこの家はユウの祖父母と叔父叔母に従妹とふた家族五人で住まれるつもりでいたんだから、机に限らずなにかと余りがちなのは当然といえば当然だった。

 それで、机の長さを最大限に活かすため、ご飯のときはいつも、同じく横長のソファに隣りあって、テレビをつけ、バラエティを流したり、やりかけのゲーム画面を映すだけ映して結局ごはんにかまけてやらなかったりしたが、今日はユウが小さい卓上スピーカーをスマホとつなげて音楽を流したのでテレビは真っ暗で、黒い表面の埃が気になるばかりだった。そういえばそういうこともそれなりにあった。

「海って結局なんのこと」とっとと食べおわったユウはスマホで、次に流す曲でも考えていたんだろうか、

「ん」こっちはまだ食べていたのでこういう返事しかできない。

「歩いてくんじゃないっけ海まで」

――白菜と米を噛んでのみこむ間に返答を考えて、「海なんか歩きで行けないよ」

「そりゃそう……。じゃなんで海の話なんかしたの」

「したっけ」「したよ」「そしたらたぶんあんまり意味ないよそれ」

「あっそう」

 なんかだいたいこんなようなことをしゃべっていたと思う。だけどユウの「あっそう」をききながらたべたのは茄子の煮びたしのはずで、そうするとつじつまが合わないからさっきの料理のところとこの会話とは別の日だったのかもしれない。というのは、この家には鍋がひとつしかないので味噌汁とそれ以外の煮物が同じ日に出ることはなかなかなく、そのひとつをつかってさっき味噌汁のためにだしを取っていて、となるとこの晩の食卓に煮びたしがあるのは妙だということになる。昨日の夜の残りが出ていただけかもしれないけど、でも残りごはんをほったらかしにするような晩にわざわざ作り置きなんてするだろうか?

 そういえばユウが音楽を流したって、それがなんだったかもわからないけど、まあ当たり前といえば当たり前だった。ユウとは音楽の趣味がおしいところで合わないので、ユウの趣味の音楽を一曲一曲の単位で聴き分けては好きだの嫌いだの思うよりもまず、耳慣れない音やメロディのごとりとした異物感に気を取られてばかりだった。

「海がすきなんだ」「そう」


2.

 かなり重たい決心とともに買ったはずの新しいミラーレスで撮った写真がどれもぱっとしなくてわざわざ見返す気にならないのは写真にふまじめになってしまったからなのか、佳乃さんとの距離があまりに気安くなりすぎてしまって、近すぎてピントが合ってない写真とか逆に遠すぎて風景の一部になってしまっているような写真とかが増えてきたからなのか、どっちなのかというとたぶんどっちもなんだろうけど、

「おしゃれし甲斐がないな」

とかいうようなことを言われたのはそういう理由で、ほとんど義務的にとりあえずあちこち歩いて撮るだけ撮ってみるけどそのうち飽きてしまって、しまいには本屋に寄って喫茶店に入って暮れるようないくつもの夕方のうちのどれか、円いテーブル、あっちに頭を支える両肘とこっちにただ組まれた十本の指との間に、あっち側に溶けた氷で薄まったジュースの入ったガラスコップから生えたストローのさきは犬歯に噛まれて平たくなって、こっちでは下唇をつたって逃げでたコーヒーが数滴マグカップの外側をたれて茶色い跡をのこしている。

「ていうか、」うまく声が出なかったのか咳はらい、「写真もらってない、そもそも」

「あー、ごめん」

 あやまんなくてもいいけど、と佳乃さんはグラスをもちあげる。たぶんほとんど味もしないのに中身をすこし飲んでストローをまた噛んだ。

「おっ、てのがなくて。データ出すのも億劫だし」

「うーん。とりあえず見してよ」

「……じゃあまあ」と、鞄からカメラを取りだして電源を入れて、撮った写真を見れるようにして手渡す、前にざっくり見返してみたけどどうも目を引くものがなくてげんなりした。そもそも枚数が少ない。

店内は静かだった。手渡されたカメラから目を離さない、俯いた茶色い頭ごし、向こうの壁にかけてあるモノクロ写真が目に入る。「うわっ変なカオとってる」見せてきたのは話のはずみで頬をわざとらしく膨らませた写真だ。「それいいでしょ」「やだ。消していい?」「一応取っといて」「あはは。一応ってなんのだよ」

 佳乃さんはこうして写真を見るのが好きだけど、それは撮られるのが好きなのか、自分の映っているのが好きなのか、この二つは大して変わらないか、もしくは相手の撮ったのが好きなのか、そもそも写真が好きなのか、は釈然としないけど、一番最後がどうやら有力そうだった。びしっと決めて撮るなんてしないから必ずしもよく撮れているとは限らなくて、さっきみたいなのがあると恥ずかしがるけど、自分が写真に映っているということそのものに対して思うことがなにもないというか、そもそも気にすることとしてみとめていないように思える。だから、いいんじゃない、と見せてくる写真には本人が大きく映っていたり小さく映っていたり映っていなくて路地裏の猫や水曜日のゴミ捨て場がいちめんだったりする。

「よく撮れてるよ」

 と、そのとき、みせてきたのは曇りはじめた夕方の、青い光のなかで横顔を近づいて撮った、ときのことがあやふやなんだけど、とにかくそういう写真だった。

「まあ、悪くは」

「気に入らない?」

「や、ほんとに悪くないとは思うけど。……なんか変な感じ。これ好きなの」

「あー、なんか、自分じゃないみたい?」

「自分じゃない……」

 まあ、言われてみれば。いつも見ている顔と目鼻立ちがとくべつ違うわけでもないままに全体の印象がちがっている。「知らないだれかみたい」というけど、どうも見覚えがあるような気がしていた。

「むかしの佳乃さんぽいのかな」

「言うほど昔のこと知らないでしょ」「二年前とかむかしでいいんじゃないの」「そうかな、でもなんかさあオトコにもみえるよね」

「そう?」

「うん。私が男だったらこうなんじゃない」

「これ一枚でそこまで言うかなあ」

「自分の写真だったらミズキもこれくらい言うよ」「そんなもんかね」「自分のカオについて、いちばんよく考えてるのって自分でしょ。鏡みて、なんかちがうとか今日はいいとか思ってても、人からみたら同じにみえたりして」

ここの話し方はやたら慣れた、というか、なんかしら頭で準備していた言葉のようで、そのぶんごろっと固まっていてちょっと話題とはズレてるような気がしたけど。

「ていうかふつうによく撮れてるよ。いっつもこういう風ならいいのに」

 こういう風ってどういうこと、ときくと、

「え?そのまんまだって」一秒くらいかけて言葉を選んで、「きれいに映ってる」「そっか」「うん。いっつもこういう顔に見えてたらいいのに」

「ふうん」佳乃さんもそういう風にひとからの見え方が気になったりするんだなとばかり、そのときは思っていたが、あとで困ったことに、どう困るのかわからないけれど、困ったことに気づいた。

「あれユウに似てたんじゃないかな」

「あれ?」「写真、さっき言ったやつ、佳乃さんの」「ああ。んな似てんの顔」「いや顔は似てない」「見してよ」

 というのでゲームのコントローラを置いて席を立つ。かばんはいつもリビングの右端の、壁を背にしておいてあるアップライトピアノの上に投げてある。ユウのかばんは調理場に、買ってきた食材の抜け殻として捨てられてある。

カメラをとって戻ってくるまでにユウは今描いているものの話をしはじめて、その過程、で思いだされたなんとかいう古典的な絵の説明にながれていく。カメラの画面はすでに用意できていて、ユウが話しおわるのを待つ。けっきょく、説明はうまくいかなくて、それで、となる。

「似てない」

「まあ」もどってきて、コントローラを手に取る。「顔だちは似てないんだけど」

「顔だちはっていうか、ミズキが言ってんのも正直わかんない。似てんだ、これと?」

「なんか、雰囲気的なあれね」

「青っぽいからじゃないの」

「あー。……絵ーかいてるときとかこんな感じ」

「描いてるとこ一緒だったことなんかあった?」

「うん」ある、引っ越す前のときのことだ――ではなくて。さっき流した『青っぽいから』ってなんの話だ? 思い当たるところを探そうとすると、言われてみればユウのいる光景はどれもこれも青っぽい色彩をおびている。だけどそれらをこれまでどんなふうに思いだしていたかなんて忘れてしまっているから、前からそうだったのか、そういわれたからそうなったのかはもう分からない。

 たとえばこの青さはおそらくよく晴れた昼の日陰のそれだろう。部屋の左奥のごちゃごちゃした棚のあたりに窓があってそこから平行四辺形の日なたが左へとのびてゆく、その角度がまだゆるい少し前の時間なら日なたにあっただろうカンバスへ、絵具がパレットから移されるときの湿った音がしばしばと聞こえる。ふつうは油絵なんて一枚描くのに数日じゃきかないらしいが、大学に入るまでは鉛筆ばかりもっていたユウの描き方はどうもなにかしらおかしいらしくて一枚二時間くらいでそれなりを書き上げてしまうのだ、という話をしていた、さっき帰っていった名前の知らない先輩は、そういえば結構あちこちで見かけるので顔だけ覚えている。

 絵具の匂いはもちろんしていて、そもそも常になんかしらの画材のにおいがする美術部の部屋でたべる昼飯はいっこうに美味しくないけど、生協のコンビニの食べ物なんてそもそも美味しくあれと思いながら買ったりしないんだからべつにいい、ならどうしていつも整列するおにぎりの前で数秒の逡巡があって、コンビニのなかを無意味にぐるぐるしてしまったりしても結局時間が余ったからこの部屋でユウの絵の描き終わるのを待つ、過程でおそらくあの写真に似た横顔をみていたのだろうと思う。

「まだ?」

 まだ、絵筆の動くかぎり、靴ひもがほどけたまま歩く、みたいだ。絵具の層が厚くなるいっぽう、掴めそうに思えた影が隠れていってしまう、その奥へ、ユウの眼はもしかしたら向いていたのかもしれなくて、そこでひかりはじめる街灯、あちこちの窓のせいで、そのうち歩みはゆるんでしまう。戻ってきてしまった、ことがとにかく、ここまででみっつの角を曲がってきたことを明確にする。靴ひもを結びなおす、ようにそのうち筆をおいたユウはもう帰れるといった。

とにかくそうして学校を出て、おそいおそい昼ご飯を食べに出た。個人経営の飲食店はそんな時間あいていないからどうせチェーン店だったんだろう、そのご飯のことは一切記憶にない。ユウは絵の話を、ぼくはその直前に見た映画の話を、それぞれ互い違いにした。貸してもらった親戚の家が広すぎるという話は、きっとまだ出なかった。


3.

 迷い込んでしまうのもあんがい難しくて、知らない土地だってどの道が幅広いかくらいすぐわかるし、その傍流としての細い道もたいして入り組んでいることは少ないし、もし細くて頼りなくとも川くらいあるなら、その流れが今歩いている道に対して平行なのか垂直なのかを意識するようにしてしまえば、いつのまにかほとんど方角をたがえることはなくなってしまった。水は北から南へ流れてゆく。佳乃さんは橋の上から生きものの影を探しているみたいだけど、両岸がコンクリートで舗装されている。言わないけど、たぶん良い結果は望めない。

「——そもそも、道なんて迷わないように作るんだし」

 佳乃さんの手は肘からさきが欄干のそとへ、だらりと伸ばされた、動作のなめらかさでそのまま水面へとアイスの棒が投げうたれる。そうやって空っぽになった手をおさめた、写真のことを思いだしていると、あの動作の親しみぶかさがよみがえる。

ただ佳乃さん本人はその写真にたいした関心を示さなかった。あれこれ言ってもただカメラをこっちへ戻してきて、自分に近いから好きなんじゃない、だるいかんじで、というようなことを言った。

 自分に似ているから親しめるというならぼくは元々そういう風だということになるが、自分の好きなように自分のふるまいを変えていくことだってあって、とか、この話は鶏と卵とどっちが先かみたいなものできりがないけど、もう少し厳密に考えて、生まれたときからそうだったわけじゃなくていくつもの原因があってそうなったんならその原因の内ひとつに、周りの人にそう言われたから意識しはじめた、というのがあってもおかしくなくて、とはいえ最初からそういう風でないのに人から指摘されたりはしないだろうし。

 持っていることを忘れていた鞄の端っこが机の上のものの配置を崩してしまうような感じで、佳乃さんと歩いていると、うっかり前をいく踵を踏んでしまったり肩をぶつけたりする。ただ逆はない。危うくじゃれる指も爪も、不意にも故意にもどこにも掛からない。自分の部屋や通いなれた店、駅や学校なんかのありふれた場所の佳乃さんは、あらゆる物の配置の情報があらかじめ頭に入っているものとしてするする動く。

「ミズキは、だって、身体感覚ないでしょ」

 振り向きざま、いつだったかそう言われた。運転のときにいう「車体感覚」の人間版で、ようは限られた空間のなかで自分の身体がどこからどこまでを占有しているのか把握する能力のことらしい。おもしろいと思ってユウに話した。

「ぼくには身体感覚がないんだって」

「うわの空ってこと?」

 そういうといきなりつまらない。なんだとおもって黙ったけど、ユウはそうじゃなかったみたいで、部屋でなにしてるんだかしらないけど、その合間合間にコーヒーを淹れに来てはあれこれ聞いてきた。

「手が届くって思ったとこに届かなかったりとかする?」「体調悪い時もすぐわかんなかったりするのかな」「さっきの話だけど、」「ミズキって運転できるっけ?」「すぐ感動するの、それでなんじゃないかな」

 すぐ感動する、というのは、ぼくはどうやら何でもない景色が急に気に留まってしまう癖があるみたいで、前にその話をしたときは誰しもそんなもんだろうというので一旦ふたりの意見は一致していたけど、ここで蒸し返されてやっぱりぼくはその頻度が妙に高いということになる。

 歩き、つつ、いつかのことを思いだしたり、誰かに話しかけるような気持ちで今日のことを整理したり、あるいは歩くことそのものに没頭していると周囲の風景が見えているようで見えていなくていっさいは流れてゆくけれど、ときどき自分は曲がらない角のさきに伸びている下り坂の奥行に吸い込まれてゆく。しらないマンションの壁の上にひかれた日陰の輪郭線が、ペンキで塗り固められたコンクリートのちいさな凸凹にそってちゃんと歪んでいる、なんて路地、作りこまれすぎている。

 ここで立ち止まらなければいけないと思われるのは、その線の歪みのディテールが保存されずに見のがされてゆくことはゆるされないからで、それはそうなのかもしれないけどそう考えるうちにもそう考えることでまた風景がながれてゆく。特色のある風景じゃない、ということは今ここで残されないことの理由にはならなくても、とにかく道があって街路樹、電柱、バス停があり、家があって店もあって見覚えがないだけで、いつも歩く路地とたいして変わらないのは確かだった。大きなマンションに整列した窓はまばらに光っている。かすかに見える机の影や暖色の照明のそれぞれに、新しい家具を部屋に導いたときの幻想がかさなるけれど、ただ不満が目につくほどじっと眺めていないだけのこととも思える。どの暮らしにもそれなりの不満とそれなりの満足があって、だからというわけでもなく、並んでいるいくつものドアのどれかが、あるいはどれもが、ユウが絵を描いたりとか同居人を待つまでもなく待つ場所へ繋がるものだという可能性は未だ排されていない。

 だから次はコンビニを右へ消えていった背中を、追いかけて比較的大きな通りに出たとき、もし足も萎えて今日はもう歩けないと考えるのなら、少し細い通りへ入って左側何軒めでもどんな門構えでもかまわず入ってしまえばそこに今日履いていない方の見慣れたスニーカーがあって、下駄箱のうえにおろす荷物はあってもなくても、靴紐をほどこうと座った玄関先でそのまま上体を冷たいフローリングに横たえて息をつき、つむじの先にある階段を下りてくるのを待っている。

 昼か夜かもわからないのなら朝がいいか、ひたひた鳴る素足はまだこの冷ややかさに慣れていないのか、降りきるころにはゆうべカンバスに向かって得た手ごたえをまた忘れてしまうのか、それをおそれて利き手とは反対の手でドアノブにふれるのか、たんに右手で着替えを持っていたからか、同居人は起きているのかいないのか、とにかくリビングには見あたらない。

 いちおう何を基準にかふたりぶんの湯を沸かす電気ケトルの細長いガラス窓からみえる水面は五百ミリの目盛に届いていない。息をするたび身体の中から熱が失われていくのを感じて、きのうも着ていたカーディガンはソファにすぐ見つかった。

 そのうえへ下ろしてきた着替えを投げたので空になった両手が一晩ぶん体温になれたスウェットの裾をつかむ。服と肌とが擦れるのも、ケトルの水がそわそわするのも、冷気のなかを身体が動いてカーテンが開くのも、扉一枚へだてれば質感のないざっくりした物音としてしか聞こえないのはまだ意識がはっきりしないからだろうか。

顔は天井に向けたままだ。眠るまで読んでいた文庫本を手探りするけれどシーツの皺がありありとするばかりで、上体を起こして絨毯の上に足を下ろせば足元に落ちているのがみつかり、拾って立って戸を開けておはようを交わしてソファに落ち着く。

 光る埃が舞うので窓から差し込む日光の形が分かるくらいには晴れている。ユウは着がえて靴下まで履いている。コーヒーに入れた牛乳を冷蔵庫にもどす背中を通りすぎて奥の戸を引いて、鏡の前で口をゆすぐのだけ済ませた。

「もういくの――一限か」「うん。ひとコマだけ」「それいいなぁ」

 もどってきて文庫本をひらいても左に右にと支度をする気配がせわしなくて、昨日どこまで読んだかを特定するにとどまる。コートまで着たユウはいったん右に消える。左手の充電ケーブルに一晩繋ぎっぱなしだったスマホを手に取ってしばらくさわっていてもそのまま戻ってこない。どうやらいってきますとか言いもせず出ていったので、いつのまにかひとりだった。

 ひとりぶん、残ったケトルのお湯を沸かしなおす。なにが面白いわけでもなくスマホであちこち開いて見てまわるうち、ケトルがかちっと鳴るのを待つ意識がどこかへ飛ぶ。今見ている画面をさっきも見たことに気づいていながらも何回も更新して変化を待つのがやがてばからしくなると、注ぎ口からの蒸気はとうに収まっている。

 インスタントコーヒーって溶けやすい気がするから要らないのかもしれないけどその時はなんとなく底に残るのが心配でスプーンを出してくる。入れて熱さを誤魔化そうと取りだすとやたら軽く、想像していた通り使い切った牛乳のパックを流し台ですすぎ、三角コーナーのごみを入れて口を折ってふさいで捨てた、ゴミ袋をしばらくしてから縛ってゴミ捨て場へ出しにゆけばあの人と会う。

「こんにちは」「あ、どうも」

 こうやってばったり出くわすゴミ捨て場やバス停なんかではじめて挨拶したのはたぶんこっちだったのに、いつの間にか立ち位置は逆になってしまったようで、あっちがさっさと元来た道を帰っていってしまう、のを、見送るのはだから、

「今の人知り合い?」

といって合流したユウの右隣りの席についた、あの日が最初じゃなかったということになる。

「なんで?」「なんか話してたじゃん。なんでってなんで」「混んでたから隣だっただけ」「なんて?」「混んでますねって」「ふうん」

 奥のほうの大きなテーブル席の四人が楽しそうで、手前の席からでもそれが聞こえていた。細長い店の右側にずらっと並んだ丸椅子に座った二人組は、カウンターテーブルをはさんで大きなガラス窓から細い道と向かいのホテルの壁をみるので、店を出て角を曲がっていったその人は、長い黒い髪を壁の黒色に同化させつつ右から左へ流れて消えた。その先にあるうどん屋さんはぼくがお昼にうどんを食べることを思いついたときにはいつもすでに閉まっている。その時どうだったか知らない。

「あ、近所の人じゃん」「え?」「おきまりですか?」「あ、コーヒー。ホット。ください」「はぁい」にっこりして左側の厨房へ消えてゆく店員さんのスニーカーがやたら白かったと思う。

「近所の人って?」

「なにその質問」ぼくは空笑いして返事を待ったけれど、ユウはただグラスを傾けてお冷の氷の溶けたのまで飲み干した。

「近所の人は近所の人だって。うちの近所に住んでる」

「はー。被るもんだね行動範囲」

「学生っぽいし」

「え。大人ぽかったけど」とユウがとぼけるので、

「ユウが初対面のひとみんな年上に見えてるだけじゃない」と返せば、

「ミズキも最初はそうだった」とくる。

 これはもうユウとの間で、こうきたらこう、という特定の会話のパターンのようなものになっている。

 こうして会話はどんどん薄れてゆく。お互い相手の言うことにさして興味もなくて、何度目かわからない質問を分かり切った常套句で答えては黙る。そういえばと今日起こった出来事を話してみても、迷い込む暇もなく慣れた話題へなだれ込む。コーヒーが届き、お冷は注ぎ足され、グラスの結露が垂れて伝票がふにゃふにゃになる。そろそろ帰ろうかとバスの時間を調べて、トイレに立ち、戻ってくると、コートを着てそこで待っている。

「さっきの人、」声はここで去っていくバスのエンジン音に途切れて、

「なんて?」

「さっきの人、もっかい見たよ」

「さっきのってあの近所の人?」「そう」

 バス停から少し歩くと差し掛かる、十字路を左へ曲がって、幅広い国道を、左手に白く光るスーパーの建物が流れてゆく。吐く息が白い。

「また戻ってきたってこと?」

うしろで信号が変わり、

「うん。ミズキがトイレ行ってる間」

 ユウの顔をヘッドライトが撫でる。

「へんなの」「うん」

 国道はまだまだまっすぐ続き、影は二つ並んで左へ曲がって上り坂をゆく。2本先で右に入り、国道と並行な暗くて細い道に入る。

 そのときも見逃して通りすぎたのか、もしくは、――だとしてもこうして忘れて、思いがけないものとして見つけた、錆びた自転車と何も植えられていない三つの植木鉢の並びに吸い寄せられて駐車場へ迷い込む。

――これもそのうち忘れれば、それは見ていないのと同じことになるのだろうか。雨の日だった。

「こら」

 耳元で鳴っていた雨音がやみ、より鋭く頭上十数センチのところから落ちてくるようなそれと入れ替わる。コートのフードをはずした手が思いのほか濡れて、空中に浮かせたまま振り返れば佳乃さんがいる。

「遅かったね」

「まさか傘差してないとは思わなかったからね」

「……降らないとおもってた」

 同じ傘に入るので歩幅に気をつかう。さすがにぼくのほうが歩幅は大きいから、できるだけ小刻みに歩くけれど、次の十字路を左へ曲がったとき、踏み出す足が傘からはみ出て佳乃さんは慌ててついてくるので、そういえば来るのは初めてだったと思う。曲がった先は空き地が少しあって視界がひらけ、すぐ先で右と左に分かれる丁字路になっている。

「つぎ右、ですぐだから」無意識にポケットに入れた手がそういえば濡れていた。後悔する。

「おもってたより近かった」とずいぶん楽しそうに言ったけれど、ユウもふくめて三人でいるところはうまく想像できない。

「そもそもなんでそんな話になったの」

 そう言った、ユウが一階に降りてきていたのは絵を描くのが一区切りついたからだったのだろう、洗面所で手を洗いながらふたりの話にまざっていた。

「近くまできてたから、暇かなって。言ったら、家だっていうんで」佳乃さんは少し所在なさそうに、ソファで肩をちぢこめている。「いやでした?」

「ううん。自分の家でもないし」

「じゃあもう誰の家なんだよ」

 うーん、と笑いながら冷凍庫からアイスを出してきて、

「佳乃さんの家でもいいよ」といってこっちとあっちに一本ずつわたした。

 どういうこと、と目を丸くした佳乃さんに、ユウがどう答えたのか、わからないということばたぶん曖昧に、

「べつに、どういうことでも」

とかいって笑ったんだろうと思う。

 しばらくしてユウはまた二階にひっこんだ。ゲームをつけて、対戦できるもので遊んだりしていたと思うけど、ときどき中断しておたがいスマホを触ったりとか、ぼくは皿を洗ったりとか、雨の合間をぬって佳乃さんが庭に出て、

「せっかく広いんだからいじればいいのに」

 と言ったり、どっちともいてもいなくても大して変わらないような、多少佳乃さんがきょろきょろしがちなだけであとはいつも通りの過ごし方でいただろうからきっと、ゲームの待機画面の音楽はうるさかった。

「きれいなこだったなあ」

 佳乃さんは帰る前くらいにそういった。

「こ、ってなに」

 その日の晩、そのことを聞いたユウが最初につっかかったのはそこだった。

「まあ、人って感じはしないかもね」

 ぼくはてきとうに返した。意味を経由しないで言葉の外見だけをいじったような感じだった。

「きれい、には特に何とも思わないんだ」

「まあ、――」とここで、ユウによく似た佳乃さんの写真の話が蒸し返されるような気がするけど、ほんとうに前後関係はそれでよかったっけ。佳乃さんと会うのにポートレイトを撮るという口実を必要としなくなっているわけだから、喫茶店であの写真の話をしたよりは後の話なのはおそらく間違いなく、ただその写真がユウに似ていることに気づくのは、そうやって佳乃さんがユウを「きれい」と言ったことを受けているとしたほうが自然で、でもそういう気づきがそんなに自然な順序で起こるものだろうか? 影はおそらく地図もみず歩いているのだから、最短距離を踏めずに行ったり来たりするのはあたりまえだ。追いかけているこちらとしても、似たような景色ばかりで同じところをぐるぐる回っているのか、それとも同じ景色の違う道を歩いているのか、同じ景色が続くのならそれははたして進んでいると言っていいのか、分かることはどんどん少なくなってゆくがとにかく歩いている、歩くと進むとが分離してしまい、ただ歩いているかぎりは歩いていることも意識から抜け落ち、ありありとしているのは断片ばかりだと、ここでさっきの自転車と植木鉢にもどってきた。

 移動手段であるはずの自転車と、かいがいしく面倒をみられるはずの植木鉢が、こんなところで忘れられて……とかいってみても、その配置というのか、輪郭というのか、そこに見えてそこにあるということがあからさまにはっきりしていることを保存するすべにならない。ここにユウや佳乃さんを引っ張ってみせてもどうしようもない、たぶん。

 そのものからその感じを受け取るのはおそらくそのひとだけだからこうして今、それを残しておくので、でも、そんなものをいったいこれまでいくつ見逃して忘れてきたのだろう? こうして語ることはそもそも、本当にこの光景を保存しえるのだろうか? はかりしれない責務を突然手渡されたみたいに、逃げたいわけでもないのに、つぎつぎ進んでゆく。


   4.

 まだ寝ていたので椅子をカンバスから離して小説に目を通す。鍵括弧でくくられた会話文と会話文の間を、飛び越そうとしてやっぱりやめる。しばらくして起きる。

「そとのにおいがする」

 ユウはいきなりそう言って、こっちはさっきまで出かけていたので当然だ、と思うとコートも脱いでいなかったことに気づく。

「暖房付ける?」「ミズキがさむくないならいい」「じゃあいいや」

 それから、ずっと同じ段落にかかずらっている。けっきょくのみ込めた気もしないままつぎに行く。どんな実感も伴わない。

「だいぶ落ち着いた?」「うん」

 いつのまにかスマホに逃げている。知らない単語をみつけて調べようとしたのか、作者の来歴でも見ようとしたのか、こうなってはもう分からない。

「病人のにおいする」「え?」「外のにおいっていうから。ユウは病人のにおい」「なにそれ」「でも、ない?」「ある」

 ユウが笑うとこわれそうだとぼくは思って、しずかになった部屋で窓から射しこむ光ばかりがやかましい。椅子が音をたてないように立ち上がってカーテンを閉めにゆく。

「眠くないよ」「寝とくもんだよ」

 下の道の白線がやたらにはっきりして見える。右から車が通りすぎる、それとすれ違ってきた人は左から、音もたてずに流れてゆく。晴れの日だった、影のなかでカンバスの側面は青白かった。

「なにかほしい?」「みず」

 階段は部屋をでてすぐ左にある。一枚ずつ踏んでいく、壁から生える板と板との空間は垂直な板が埋めたりもせず中空に浮いている。佳乃さんはそれが怖いという。二階に上る用事もないけれど、ユウに対する遠慮なのか、基本的にリビングにとどまっている。

「庭、もっと触ればいいのに」

 テレビの奥、窓の外の荒れ放題をみて、よくそう言った。

「この間も言ってた」

「いつも思うから――ね、前住んでた人はどうしてたの?」

 いつでも食卓の右側にすわっていた。庭に出る戸がちかいからだ。椅子はピアノから引っ張ってきて、いつの間にかそこが定位置になった。ぼくはソファの右端に座ることにしていて、目を合わせて話すことは減っていった。ユウがコーヒーを飲むカップは、底が茶色いまま、食卓の左側にほっておいてある。

 それを流しへ運んでいく。

「何もしてなかったみたい」

 いつか降りてきたユウがそう答える。

「ずっとやってたおばあちゃんが体力なくなっちゃって」

「それからほったらかし?」

「ほったらかし」

 いつから佳乃さんとユウの間の会話から敬語が外されたのか、まあそう遅くはなかったと思う。ふたりは左右にいるから視界に両方が映ることはあまりなかったけど、何かの拍子に並んでいるのを見ても、似ているとは思わなかった。

 プラスチックのコップなら落としても割れない。流しから汲んだ水は、いつもならそうカルキ臭いことはないはずだったけど。

「なんでだろうね」「風邪だからかな」「ごめんね」「なんで謝んの。ありがとう」「いいえ」

 風邪だからって、感覚が鋭くなったりはしないんじゃないのか――と思ったけど、あまり話しかけるのも、と思ったのでやめておいた。椅子にもどるまえに、カーテンを閉めた。

 さっきも閉めたのに?

「べつに、見てなくていいよ」

 ユウはそう言ったけれど、用事があるわけでもなくて、本ならどこでも読めるからと、きっとそんなことを言って居座った。

 そのうち寝息になった。薄暗いなかで、立ち上がる動作は空気を動かすのもはばかられるというくらい、ひとつひとつ意識された。音もなく持ちあげられた、椅子が落ち着いた先で向きあった机の上、ひらかれたままのスケッチブックの、上のほうでは画面を左右に分断する一本の垂線にみえるそれは下へ垂れるにつれ、そのまま落ちてゆく直線とわずかに右へ逸れるもう一本とに分かれるが、その逸れ方はもう一方がなければ気づけないくらいのささやかなもので、つまりある程度以下の歪みではそれによって分断される左右の空間の比に大きな差異が出ないほどにその画面は大きかったということにもなる。

 ぼくはその線を一部とする大きな大きな円を想像して、つぎにそれがすっぽり入る紙を想像しようとしたが、いつのまにか円はこの街の、衛星写真のようなイメージに上から描かれてしまった。こまかく入り組んだ路地がその線を何度も何度も跨ぎながら追いかけてゆく、その軌道を、背中は辿っているのかもしれない。


  5.

 はやく一階にもどろう。いつ帰ってきたユウがリビングに荷物を下ろして、同居人の不在をいぶかりながら自分の部屋のドアを開けたっておかしくないのだ。

そんなこといったってスケッチブックはこんなに分厚く、そのくせ一枚一枚はコピー用紙のように薄く、つまりめちゃくちゃページ数が多くて、そこに描きこまれた鉛筆画は想像を絶して細密だった。たいていの絵は右上から描きはじめられ、放射状に余白を埋めてゆき、全体の三分の二ほどをその雑多な、というべきではないのか、ともかく決して概観的ではない細部の積み重ねにより埋め尽くしてしまったのち頓挫していた。いくつかの絵はよわい線でざっくりと全体の構成を決めてから描きはじめられたようだったが、けっきょくやることもやりはじめる場所も同じで、そしてどこかしらで頓挫していた。

 たとえば猿がいる。親指の爪くらいの大きさだが、細いシャープペンシルの線によって、やや漫画的にデフォルメされた姿であるとはいえ、厭らしい笑みがつくった頬の皺まで描かれている。その右手が握る、木の枝はまっすぐ下から伸びていて、猿の周りには一枚もない木の葉がそちらでは何枚か、今にも落ちそうに枯れて丸まってぶら下がっている。そこから更に下にも、左にも、そこから上へ戻ってきて猿のとなりにも枝はのび、葉はあちこちでぶらさがり、猿から指三本分くらい左へ行ったところでは何枚かが今まさに枯れ落ちて空中にある。画面の右側四分の一の上側半分くらいをそういう執拗さで枝が占めていて、生きものはけっきょく猿一匹しかいなかった、といえるころには、枝の広がりに反して細く頼りない幹のうろが描かれ、その下の枝ほどではないにしてもそれなりにごちゃごちゃと広がった木の根は、そう、そういうごちゃごちゃ具合がわかるということはつまり土に埋まらず中空に浮かんでいる! 根の真下には猿よりも小さく、併せて十二軒の家とビルが立ち並び、それらのうち七軒が木の落とす黒い影に入っている。木の影はそのまま、左斜めに倒れこむようにして輪郭のみがとられている、つまり、そこで描きやめられたのだ。

 何枚かの絵はそうした細部の連想による増殖によって、ページの右上から左下までを埋めつくしていた。右上から左下までといって、しかし埋め尽くされてしまっているのだから出発点は正直なところわからないのだけど、とにかくぼくは右上から左下へとそれらを読んでいった。全体を俯瞰することは不可能だった。あるいはそれは、ユウの画家としての未熟さを示しているのかもしれなかった。だって、見ることができない、読むことしかできないものを絵といっていいのか?

 じっさい、ぼくが盗み見るそのスケッチブックは、机の下に山積みの大判本やハードカバーにまぎれて埃をかぶっていたのだ。はじめて手に取って埃を落としてしまったとき、これはもう後で言い訳が利かないとおもって恐ろしくなり、他の本の角度まで気にしながら部屋を去ったが、けっきょくそのことで咎められることはなかった。きっととっくのとうにもう顧みられることのない単なる記録だったのだろう。しかしぼくはユウの今描いている絵よりもそのスケッチブックの中の絵につよく惹かれ、とくに完成した何枚かを手に取るたびページを繰って探した。それらと最後まで描かれなかった他の絵の出来に差はないように思えた。少なくとも細部をひたすら「読んで」いくぼくの見方では、それこそカフカの長編と短編との違いでしかなかった。ぼくがそれらの絵を「完成している」と思ったのは、単にそれ以上描きこめるスペースが同一平面上に存在しないというただそれだけの理由だった。

 完成した絵を見ていると時々周囲にそぐわぬ真新しい線で描かれた箇所をみつけることがあった。真新しい、というのは、滲んだり掠れたりせずはっきり見えるということだ。右側より左側の線のほうが基本的に真新しかった。絵を描く手の側面が画面にふれてシャープペンシルの黒色を滲ませていったのだろう、と想像したところで、はじめてぼくはユウが右利きであることを知ったが、とにかくそういうわけで、ユウの細密画のなかには、後になって書き足されたらしい箇所が見当たらないわけではなかったのだ。

 しかし、それはたとえばスクランブル交差点のようなところを行き交うみなほとんど同じ格好の集団——フード付きのレインコートのようなものを、前を開けたり閉めたりして着ている――のうちの右端のひとりだったり、ユウの絵にしては珍しい大きさで描かれた馬の尻尾の毛のとくに激しくうねった数本だったりと、つまり無数の反復に付け足されたいくつかの何かしらでしかなかった。

 おまけに消しゴムで消して描き直したあとは全く見当たらなかった。あるいはものすごく丁寧にやってしまったので気づかないだけかもしれないが仮にそうだとしてもあんまり繰り返していたら何回か失敗して跡が残ることもあっただろうし、描き直しが少ないことはとにかく確からしかった。つまりユウは、その絵を完成させようとは全然思っていなかったのだ、思っていたかもしれないがとにかくそういう処置は絵にまったく見受けられなかったのだ。

 それは結局のところただの練習帳だったのだろうか? 描くものを思いつく手間とひとつひとつのものに割くスペースを削減するためにああいう連想と凝縮によって細部を詰め込んでいっただけだったのだろうか? それにしては量が多すぎるけれど、ユウの扱いはそのくらい粗雑で、でもユウはそもそも自分の絵を大事にしない性分らしかったが、しかし本人の扱いや評価がどうであったかに関係なくその絵はおもしろかった。ユウにだけ授業がある水曜日の午前中、一時期のぼくはわざわざ起きて見に行くくらい夢中だった。

 後になって思えば、盗み見なんかしないで、最初からユウに見せてもらえるように頼めばよかった。たしかにある日突然、「机の下の本のなかにスケッチブックが紛れているが、それがどうしても気になるから見せてくれないか」なんて言ったらその存在を知っていることから訝られてしんどいことになったかもしれないけど、しかしそんなもんいくらでも誤魔化せただろうし、ユウは前々からぼくに絵を見られることには特に抵抗を示さなかったんだから、ふつうに見せてもらうことは決して難しくはなかっただろう。それだけのことをわざわざ怠って盗み見なんて後ろ暗い手段に及ぶ必要は全然なかったのだ。

 ではなぜ?


 5.

「おそい、」

ニシノがそういったのがいつだったかはっきりしない。たぶん一月の休みの日にあった飲み会の帰りだったと思うけど、にしては周りの他の人たちの記憶がないから定まらない。とにかくニシノは、店を出て、降りだした雪をみて、おそい、といって、

「雪って、」

ともうずいぶん時間が経って帰るバスに乗ってから言いだした。

「雪って、雨より体積が大きくて落ちてくるのに空気の抵抗があるから遅いんですね」

 おそらくニシノは、こう口に出すよりずっと前に雪が遅い理由もわかって関心にもけりがついていた。というのは、このときの話し方がまるで朗読みたいな、すでにできている文章を読んでいるようななめらかさで、普段の断片的にしか話せなくて結局最後の方には相槌を打つだけになってしまうニシノとは全然ちがったからだ。それでぼくは、いつか、その日のうちだったかもしれないがニシノに言った、

「話せないんじゃなくて、話さないだけなんじゃないの」

 という知ったふうな口がまるっきり的外れだったことを知り、謝らなければと思ったが、そんなことを鮮明におぼえて心にひっかけている自分を知られるのがいやで結局言わずじまいになってしまっている。

 ニシノにとって言葉を口にするのというのはきっとすごく負荷のかかることで、わざわざ口にされるべき言葉のハードルが誰より高い。だからあれくらい完成された文しか口にはされるに値せず、普段の会話ではそれが追っつかないんだろう。

 こんなことも、その日のうちに気づけたわけではなくて、だからそれを意識できたこと、ニシノのことばをちゃんと待って会話できたことはけっきょく一度もなかった。

 黒く塗られ影にまぎれてごちゃごちゃしたダクトや照明器具もおそらくはなんらかの理屈に沿って見れば整然と配置されている。規模のわりにずいぶん天井の高い劇場だとぼくは思っていた。渡されたパンフレットのなかに、ニシノのフルネームをはじめて漢字で読む。右隣りのひとは小忙しくスマホであちこち見て回り、左隣の佳乃さんはパンフレットに挟まれたあれこれのフライヤーを丁寧に点検し、そうこうしている間に何となく埋まった客席の照明が落ちる。

闇に眼を慣らすあいだはニシノの出番を待ち遠しく思う時間だった。でも幕が上がってそのお話がはじまると、いつのまにかそれを追いかけ、自分の体がこうして座ったままでいることを忘れていた。

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ボツ はしかわ @Hashikawa119

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