ある日、

 ある日、彼女のみーちゃんが風船になった。

 それは僕の家で一緒に映画を見ていたときのこと。ふいに訪れた瞬間だった。


「ちょっとトイレに行くわ」


 そう言って席を立ったみーちゃんがなかなか僕の元へ戻らなかったので不安になった。みーちゃんは好奇心旺盛で、悪く言うと落ち着きが足りないところがあって、目を離すとすぐに見えない所へ行ってしまう癖があったから。


 僕は、閉まったままのトイレのドアの前でみーちゃんの様子を伺った。

 ドアのそばには人に気配がない。

「みーちゃん」

 声を掛けると、

「まもくん、助けて」

 みーちゃんの声がした。

 ドアノブを捻るが鍵が掛かったままになっている。

「みーちゃん、鍵を開けて。ドアが開かないと入れないよ」

「ちょ、ちょっと待ってね」

 何やらガサゴソと音がして、カチャッと鍵が開いた。

「ドア、開けるね」


――キーーー。

 立て付け悪いドアの音が響き、僕はゆっくりと中を覗き込んだが、みーちゃんは座っていなかった。

「あれ、みーちゃん、どこ?」

 僕は呆気にとられてその場で一回まわって「みーちゃん」って言った。

「……ここ」

「ひっ!!」

 声は頭の上からしたんだ。驚いて見上げると、みーちゃんが天井に張り付いていた。僕はさっきまで見ていた映画「ヘレディタリー」の母ちゃんを思い出して少しだけオシッコをちびってしまった。

「み、みーちゃん、そんなところで何してるの」

「まもくん、助けて」

「怖いからさ、降りておいでヨ」

「降りられないの、助けて……」


 僕はその後、仕方ないのでパンツを取り替えてから、みーちゃんの腰に紐を括り付け彼女を引き寄せた。

 みーちゃんの体は風船のように膨らんでいて、触れると弾力があり、突つくと跳ね返ってくる。柔らかかった頬もオッパイもぷうっと一層膨らんでお餅みたいだ。

「みーちゃん、どうしちゃったの?」

「わかんないよー、なんか突然こうなっちゃった」

 全くわけが分からなかったが、がみーちゃんであることに変わりはないので、僕は彼女を変わらず愛すると決めた。


 僕たちの苦悩はこのときから始まって、今に至る。


 みーちゃんはいつも宙に浮いていて、気分の高揚で上昇するので、エッチを試みると大変だ。僕は、みーちゃんと天井に押し潰されてサンドイッチの中身になるところだった。だからしばらくはみーちゃんにいやらしく触ることはやめたんだ。そうしたらみーちゃんはシクシクと泣いた。

「だって、仕方ないだろ」

「うう、わかってる、わかってるけど……うっ、」

 みーちゃんが震えるたびに、その振動が静電気を発生させ僕の髪の毛は超サイヤ人だ。服を着せようとみーちゃんの腰紐を引っ張ると、バチバチっと放電。僕はこれで何度か逝きかけた。

 その日は熱くて、窓を開けていたんだ。静電気のあまりの痛さに僕が腰紐から手を離してしまった隙に、開け放った窓からみーちゃんが飛んでいってしまった。

「まもくーーん!!」

「みーちゃーーーん! 裸だよーー!」

 僕はズボンだけ履いて、窓から屋根を伝ってみーちゃんを追いかけた。

 みーちゃんは、幸か不幸かすぐ傍の電柱に腰紐を引っ掛けて身動きを取れなくなっていた。早くしないと、みーちゃんが感電してしまう。そう思って僕はみーちゃんを電線に引っ掛けないよう慎重に、腰紐に手を伸ばし手繰り寄せた。

「裸、寒い……」

「僕にくっつきなよ、ね」

 僕たちはこの世界でいちばん滑稽なカップルだ。それでもみーちゃんが好きだよ。僕はみーちゃんをこれからも守っていく……。



 みーちゃんの敵は何も電信柱だけではなかった。そこらに蔓延るクソガキどもは厄介な存在なんだ。

 ある少年は、みーちゃんをただの風船だと思って母親に

「あれほしい、ほしい、とって、ちょうだい!」

 と執拗にせがみ、その母親も欲しがりの眼差しで僕を見たが、僕は決して屈しない。

「これは僕のものです」

 そう言って僕はひらりと避ける。

 また別の日には、みーちゃんを爪楊枝で割ろうと追いかけてきた。そんなときも僕は猛烈にダッシュ。

 また別の日には、僕の見えない背後からみーちゃんに落書きをされたこともある。

「ごめんね、みーちゃん、僕は君を……守れないかもしれない」

「まもくん、まもくんは守ってくれてるよ」

 次第に僕らは外出というものが怖くなった。みーちゃんを僕の部屋に綴じ込めて、窓は閉め切って、みーちゃんが飛んでいってしまわないように毎日を過ごした。

 みーちゃんの肌はとてもデリケートで、爪をたてただけで割れてしまいそうだった。その肌が、日に日に変わっていることに、僕は薄々気付き始めていたんだ。

「みーちゃん、しぼみかけている?」

「そうかもしんない。私、この体のまんま死んじゃうのかな……」

「そんなこと、言わないで」

 泣き始める彼女を前に、僕は一大決心をした。

「みーちゃん、僕が空気を吹き込むから、元気出して」

 みーちゃんの凹んだおへそに口をあて、空気を入れる。

「いやん、くすぐったい」

 ってみーちゃんは嫌がった。

――スウ、スウ、スウーーー。

 みーちゃんが膨らむ音だ。みーちゃんの肌がパンと張っている。

「よかった、みーちゃん。ずっと一緒だよ」

「うん、何があってもまもくんが大好き」

 僕らは滑稽な口づけを交わした。柔らかいみーちゃんの唇は息が洩れると、ぶぶって振動するのでスリリング。

「まもく……ん……あっ!」


――ッパーーーーーーーン!!!!!!


――プシューーーーーーーーブブ。



 劣化したみーちゃんの肌は弾けて、みーちゃんは部屋中を時空を切るように瞬間移動した。僕は思考停止中。


「ブブ」

 と短く最期に鳴いて、みーちゃんは静かになった。

 みーちゃんの顔が見えない。涙でかすんで見えない。





「みーちゃん、飛んでいかないでよ」 






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飛んでいかないで、みーちゃん。 小鳥 薊 @k_azami

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