みる

「みる」1話完結



今日も軟体動物のようにスーツを着た生物が鉄の乗り物に自ら足を踏ん張って乗り込む。

皆がこれが「生きる」ための常識的行為だと思いながら異常だと思っている。

ここにいる何割かがこの行為が一部である生活を受け入れ、何割かは「こんなはずじゃなかった」と思っている。これも常識。


もし頭の固い神様が存在して、人間をこの2つに分けるとしたら私は後者である。


そして本来はどうあるべきかというと、小さな映画監督のアシスタントとして周りの監督志望者に埋もれながらも微量な経歴を積み上げ

地道に映像界隈の人脈を作っていたはず…と日々思うばかりである。


この未来予想は飛躍したものではないと思う。ある程度のレベルの大学の映像科で学んでいたし自分なりの研究を重ねた4年間だった。

現に映像制作会社には採用され、事務作業が主な業務なものの映像編集にも触れている。



想像していた未来とは遥かに遠くではないと思いながらも、毎日の通勤電車もひねくれた視点で「これもいつか創作活動に役に立つだろう」と自分を納得させている。



毎月口座に一定の金額を入れてくれるこの場所は小さいながらも「紺野映像コーポレーション」という看板のもと会社を名乗っているらしい。

しかし会社というにはその場所に所属している人間があまりにも少なく、20人ほどの社員が在籍している。

そのなかで映像編集から経費精算まで全員がほぼ平等に負担してなんとか回している、という具合である。



腐っても映画監督志望だな、と自分を褒める点があるとすれば

業務依頼元の大きな映像会社から下請けしてきた映像編集作業を徹夜で仕上げたとき、

疲労のあまり唸っている同僚や自分のはがれかけのネイルをみて、

「やりきった。人の作品でも映像でまた何か1つ成し遂げた」と清々しい気分になることだ。



しかし、日々の多くは事務作業に費やされ、疲労により休日に簡単な動画を撮ることすらしなくなっている。

「しなくなっている」のか「できなくなっている」のか。


もはや自分が映像に「賭けていた」大学時代の残り火が思い出されるようで、でも、自分はあんなに追い求めていたところとは遠からずとも違う場所に立っているだけ。

その事実が自分に重くのしかかる。そして、考えることをやめる。そして毎朝電車に乗る。




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大学時代の後輩からメールが来たのに気づいたのは、いつも通り気まぐれな休日を過ごし「明日からまたあの日々が始まるな」と思っていたときだ。

いつもなら、メールアプリすら開くのが面倒だが、大学学籍時にすでに若手向けの映像コンテストでそれなりの順位をおさめた彼女の近状に好奇心がわき、

通知がきた瞬間には無意識に指がディスプレイに触れていた。



「お疲れ様です。先輩、お久しぶりです。」と卒業後であるのにも関わらず、彼女らしい丁寧な言い草から始まったそのメールは

来月に開催される映像展示会のお誘いだった。

どうやら、フリーランスの映像家グループで都内の小さなギャラリーを半日のみ貸し切り自分たちの作品を展示するらしい。



悔しいけれどその招待状はセンスがよかった。そのグループの誰が作成したものなのか、皆で意見を出し合ったものなのか、後輩の彼女が作成したものなのか不明だけれど、

「これと同じものを自分が先に生み出したかった」と思った。


そして、同時に彼女がどれだけ順調に自分の望んだ道を歩いているのか、知りたかった。

彼女の粗を探したかったわけでもなく、彼女の人生を褒め称えるのでもなく、彼女という映像家がどんなものを撮っているのが知りたかった。



彼女はただのエリートではない、彼女の作品には人間臭い情熱がある、なぜかそう思い始めたのはいつごろからだろう。




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小規模の展示会に出向く際の服装は心得てるつもりだ。

カジュアル過ぎず、だからと言ってドレッシー過ぎても浮く。

ヨーロッパではギャラリーに一般の人が足を運ぶことは珍しくないが、

日本ではどうしても「高級」なイメージが付きまとうため結婚式の2次会のような格好で現れる人が一程度発生する。



想像したよりもギャラリーは小さく展示会というよりは「趣味のヴィンテージ小物屋」と表現した方が適切なのではないかと思う。


いくら自費でも新人アーティストに展示会を気楽に貸すオーナーはいなので、それだけ彼女は人脈面でも優秀だと断言できる。

大学時代から社交的な彼女は「成功」の兆しがあると誰もが思っていたし、勿論実力は折り紙つきで、事実そのようになった。



そんなもやもやしたことを思いながら無意識にギャラリーの中で彼女の作品だけを選別して見ていた。眺めていたという方が正しいのかもしれない。



映像家グループの一員で受付も兼ねていた中年の男性に聞くと彼女はあと30分ほどで戻ってくるそうだ。

先月感じていた好奇心とは反対に、いざこの場所にくると劣等感が勝り、彼女にひとこと挨拶するためにスウェード部分がはがれかけた自分のヒールを眺めるだけの時間をどれくらい過ごしただろう。



ふと、見落としていた彼女の作品が目に入った。


どこから応募を募ったのだろう、初老のイギリス訛りの外国人の男性がブラウン管を通してこちらに真っ直ぐと英語で言葉を繰り返す。



「うまく人生を進めようとするな、それが失敗の兆候だ。うまく人生を進めようとするな、それが失敗の兆候だ。」



この言葉を10回ほど繰り返し、映像は冒頭に戻る。

なるべく瞬きをしないように指示されているのだろう、4回ほど繰り返したあとで瞼が少し動き、5回目で小さく瞬きをする。

そんな事まで分かるようになるまで繰り返し眺めていた。いや、見入っていた。


一見変わった映像は見慣れていた、誰もがそのような道を通るからだ。奇抜な作品を作成するのはむしろ私たちがいた大学のような場所では「常識」といえる。



ただ、その作品を彼女が作ったのが腑に落ちなかった。

大学時代に彼女が発表していた作品がどれも「シャープ」という言葉が当てはまるもので彼女の他人との接し方も作品の作成方法もその言葉が当てはまると言えた。


彼女の作風が変わったのか、ただそのようなチャレンジをしたのか。

ふと、彼女と同じ映像作成サークルにいたとき、彼女が大学2年生の夏休み誰もいない部室で映像編集をしているのをたまたま通りがかったのを思い出した。




あまりにも長すぎる夏休みの終盤、彼女は夕陽がうっとおしいほど眩しい部室で外の気温よりも熱そうなPCを前に前かがみになってある作品を編集していた。

いわゆる奇抜な作品で初老の外国人らしき男性がこちらを向いて何かを呟いていた。

その呟きは独り言のようで、しかし、誰かにうったえるようで3メートルほどある距離からは聞こえなかった。



ああ、あのときから彼女はこの作品に情熱を注いでいたのだ、と分かった。

夏の夕暮れの猫背の後ろ姿、それこそが彼女の姿だった。

期待された若手映像家はすんなりと今の立ち位置に収まったのではなく、

きっと挫折して悔しくて苦しんでどうにか器用に生きているふりをして最後にあの表彰台に立った。

彼女は当たり前のように選ばれたのではなく、選ばれるための歩みを経て最後の最後に選ばれたのだろう。



彼女という人間は私たちと同じように「こんなはずじゃなかった」日常に押しつぶされながらも、

努力なのか頑固なのか、フリーランスをいう道を選びなんとかやっているのだろう。



流れ続けるビデオを見つめながら「彼女にも自分のような思いがあった、そして今もある」という「常識」的なことを考えていた。




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展示会は結局彼女の帰りを待たずに後を去った。


きっと私が今の会社を辞め、安定から程遠い何の肩書きもない日々の生活に困りながら映像を作成し始めたころ、

彼女に伝えるだろう。彼女だけじゃない、私の名前すらしらない人にも伝えたい。



夢を追うことは色鮮やかな世界にあるものではないということ

どんなに努力をしても彼女のように選ばれるわけではないということ



それでも映像の中に人を引き込むのはその価値があるということ。

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みる @Tifanny

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