Uターン

枕木きのこ

Uターン

「過去に戻ることができないのは、身体を持っているからなんですよ」


 眉尻を下げ、柔和な表情を作り上げて男が言う。

 ばからしい話だと思うことができなかったのは、物書きという生き様に縋り付いているせいだろう。


 思えば後悔ばかりの人生である。

 定職にも就かずアルバイトを転々とし、アマチュア作家らしく新人賞に応募するだけで充足してしまう。

 恋人はいたが、めっきり性生活と呼べる要素もない。それどころか、遠距離恋愛から近距離に、果てには同棲も始めているというのに、物理的距離が近づけば近づくほど、お互いの気持ちがどんどんと離れていくのを感じる。それもきっと私のだらしなさゆえにだろう。


 あらゆる物事は一方通行だ。

 行くか、来るかしかない。

 彼女がどう思うかは、結局、関係のない話なのだ。


 男は続ける。

「戻りたい過去はありますか? やり直したいこと、もう一度話したい相手。なんでも結構ですよ。——ただし、時間は不可逆です」そう言って一人くすくすと笑う。「それは戻るときもしかり。一度通り過ぎた過去については再度留まることはできません。どこまで戻るのか、どこでやめるべきかは、あなたの判断次第になります。それでも良ければ――」


 そこまでだった。

 タキシード姿の男はいかにも胡散臭く、これを信用できるくらいなら人生もっとうまくいっているか、もっと阿呆みたいに転落しているかのどちらかだ。

 しかし信じるほかにあるまい。

 私と彼以外の誰一人として動くことのない世界に閉じ込められてしまったのだから。


「では」

 と一言落とすと、大仰に手を広げた男の姿が、やがて光に覆われ、見えなくなった——。



 ■


 学生時代、私は今よりもよっぽど生命力にあふれていて、端的に言って、恋愛体質だった。かかわった女のすべてを好いてしまうほど愚か者で、また、それを許容してくれるとわかっていながら身体の関係を迫った。

 その中で唯一私のことを心底心配してくれた女がいた。


 名前は――なんと言ったか。


 その当時はえらくまめに連絡を取り合っていたし、時折は私の住むアパートにやってきて飯を作るくらいの図々しさを持った女で、逢瀬を重ねるたび、ずぶずぶと万年床に沈んでいく感覚を持たせる女だ。


 ――しかし、彼女ではない。



 ■


 高校の頃は、まだうぶだった。性的な用語もろくに知らず、却ってばかにされるような男だった。それなりに周囲から好意を持たれることもあったが、持たれるだけで終わる。お互いに何となく、がないことがわかってしまうのだ。

 そのころの男といえば一にも二にもセックスである。私はそうではなかった。


 担任の教師が新卒上がりの若い女だった。彼女は私のことをよく気にかけてくれた。私も彼女のことを好いていた。

 しかし、私の視点と、彼女の視点は相違しているのだと知り、卒業間際に人知れず玉砕した。


 ここも戻りたい過去ではない。



 ■


 中学時代……、それは私にとって暗黒時代だ。

 何をしてもののしられ、何を言っても殴られた。

 たまたま、なのだろう。そういう相手にするのにちょうどよかった。深い意味などなかったのだと今ならわかる。ただ、私の性癖はこのあたりから歪んでいったのだろうと思う。一番多感な時期に、それを分かち合える友人が一人もいなかった。


 戻ったところで、変わることもない。



 ■


 そうして小学生に戻って、私は初恋を思い出す。


 そうだ。今なお、彼女の面影を追っている。

 すらりと長い手足をして、破顔すると彼女の周りにも花が咲く。常に周囲に目を配っていて、――ああ、そうか。胡散臭い男などではなく、あれが本当の天使だったのかもしれない――。


「久しぶりだね」

「何言ってるの? 昨日も会ったじゃん」


 そんな軽口を交わせる――今やどこにいて、だれと暮らしているのかもわからない彼女。

 でもここに居ればそんなことも、全く関係ないのだ。


 そう。ここに居れば——。




■■


「きっと大丈夫だよ」


「ええ。私もそう思ってる。だってこんなに幸せそうな顔をしているんだもの」


 聞き慣れない機械音が、真っ白い部屋で規則正しく鳴り続ける。

 彼女は、彼の復帰を、心から待ちわびている。

 心から願っている。


 きっと彼は、帰ってくる——と。

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