0cm

すしみ

第1話

「私はあなたを理解しないけれど、否定もしない。同じようにあなたも私を理解しなくていい」


 12月のとても寒い日、待ち合わせたカフェで彼女は言った。私は一瞬なにを言われたのか、ほんとうにわからなかったので「え? なんて?」とやや間の抜けた声で聞き返したけれど彼女はなにも答えず運ばれてきたばかりのカプチーノに口をつけた。私がわからなかったのは彼女の発した言葉自体ではなく、その言葉の持つ意味のことだった。彼女もそれに気付いていたからなのかとにかく私が聞き返しても、もうそれ以上なにも言わなかった。


「ねぇ、コーヒーが冷めてしまう」


 彼女は私をちらりと見て言う。ほとんど反射的に私はカップへ手を伸ばして口をつけたけれど、砂糖もミルクも淹れなかったから苦かった。コーヒーなんてたいして好きじゃなかったけれど大人っぽくてかっこいい彼女に少しでもかっこつけたくて背伸びしたくて頼んだ。でもやっぱりコーヒーは苦いし、彼女は私とこうして会っていてもにこりともしない。「ねぇ、私あなたにいいとこ見せたくていつもなら頼まないコーヒーを頼んだんだよ。バカみたいでしょう?」と言うところを頭のなかで想像してみた。それから彼女が私に、私だけに笑いかける姿を想像してみた。それだけで私はもうたとえ明日空から槍が降ってそれが私の胸を突き刺したとしても生きていけるような、そんな気持ちになるのだ。そのことをゆっくり時間をかけて言葉を探して伝えたかった。なのに私はなにも言うことができなくて「雪、ふってきたね」などとどうでもいいことを口にした。


「……積もる前に帰ったほうがいいかも。電車、動いてるかな」


私は続けて言い、ポケットにいれていたスマホを取り出して電車の運行情報を調べ始めた。アプリを立ち上げ、駅名を入力するところに最寄り駅の名前を入力しようとしているところで、彼女がテーブルの脇に置いてあった白い紙ナプキンを私の目の前に差し出した。スマホから視線を彼女に移すと、困ったような申し訳なさそうな顔をしていた。


「ティッシュがあれば良かったんだけど、今日に限って忘れてしまって。ハンカチもさっき道で落として汚れてしまったから」


彼女から紙ナプキンを受け取ったはいいが、彼女がどうして急に紙ナプキンを渡してきたのかわからず私は戸惑った。片手にスマホ、反対の手に紙ナプキンを持ったままで私は彼女をじっと見つめた。そうしていると段々と呼吸がしづらくなっていることに気が付いた。それから頬が濡れて、鼻からぐずぐずとした音が出ていることにも気が付いた。もらった紙ナプキンを顔に押し付けるとそこへ水分が吸収されていくのがわかった。紙ナプキンが私がいま抱いているこの気持ちも全て吸いとってしまったらどうしよう。とこんなときまで私はアホみたいなことを考えていた。私がこんなにもアホなことは彼女にはとっくにバレていて、それで彼女は私のことが嫌いになったのかもしれなかった。そう考えたらもうこれ以上吸いとられたくないのにもっともっと紙ナプキンが必要になってしまって、私は焦るのと同時にもっともっと悲しくなっていってしまった。そして、「どうして」と気付いたら口にしていた。


「どうしてそんなこと言うの」


彼女の顔が見れなかった。喉の奥のほうが痛いような気がしたけれど、人は涙や鼻水を流すときにはみんなこんな感じになるのか、それともこれは自分だけに起こる現象なのか、わからなかった。とにかく痛かった。それから、そういえばとうとう彼女は私の前で泣いている姿を一度も見せてくれなかったなあ、とそんなことを思った。泣くところも怒るところも、もちろん笑うところだって見たかった。もっともっと、ずっとずっと見ていたかった。


「どうしてあなたはそんな、かなしいことを言うの」


振り絞った声はかすかすだった。自分で思っていたよりもずっと上手く声が出せなくて驚いた。それからゆっくり顔を上げて彼女を見た。彼女はじっと私の目を見ていた。私はテーブルの上に置かれていた彼女の右手をとった。


「どうしてかな」


「自分でも、わからない。あなたはかなしいことだと言うけれど、私にはこれがかなしいことなのかどうかもわからない」


「……だったら、だったら、これから一緒にわかるようになろうよ」


私たちなら大丈夫だよ、と付け加えて私は言った。彼女は少し黙ってから、口を開いた。


「あなたの人生の、貴重な時間を、もう私に割くべきではない」


「そんなの知らないよ」


「生きていれば、」


「……生きていれば?」


私がそう聞き返すと彼女はゆっくりと目を閉じた。そして数秒が経ってからさっきとまた同じようにゆっくりと目を開けた。その間私は彼女のまつげが上下に動くのを黙って見ていた。


「生きていれば、髪も、爪も、伸びるでしょう? どんなに落ち込んでいる日だって、お腹がすくでしょう?」


「……伸びるね。お腹、すくね」


「そんなふうにね、あなたはいつかまた別の誰かと出会って、恋をするのよ」


それから彼女は小さな声で、「私ではない、誰かと」と付け加えた。あなたではない誰か。これから先ほんとうに出会うのかどうかもわからない誰か。そんなの信じられない。だってあなたはいまこうして私の目の前に居るんだから。彼女の左手がどんどん冷たくなっているのがわかった。私がこの冷たい手を暖められる日はもう訪れない。




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0cm すしみ @muni_muni

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