白衣の天使の交通案内

人生

 この先、××




 辺り一面が、闇に包まれている。


 ……というより、〝それ〟が現れるまで、俺はそこが闇の中だと認識していなかった。


 そして、「俺」が「俺」であるという自覚すらなかったのだ。


 闇の中、〝それ〟は人のかたちをつくる。

 白い、人型のシルエット――女だ。


 女は言う。



「私は迷える子羊を導く天使です」



 ……胡散臭い。


 ここはどこだろう。俺はどうしたのか。怪しい宗教団体か何かに拉致でもされたのか。


「怪しまないでください。私はあなたを助けたいんです」


「…………」


 ますます怪しくなってきた。

 俺はそいつから離れようとするのだが、自分の身体が思うように動かない。


 いや――そもそも、俺の身体はどうなっている?

 もしかして、縛られているのか?


「安心してください。じきに動くようになります。今はまだ、クスリが効いているのかと」


「クスリ……!?」


 俺はどこかに監禁され拘束され、クスリで眠らされていた……?

 人体実験――?


「そういえば、自己紹介がまだでしたね。私はケイト・ミトガワ。あなたを助けにきました」


「…………」


 名乗られたからにはこちらも名乗るべきかと思ったが、すぐには自分の名前が出てこない。

 記憶が判然としない。そもそもなぜこんなところにいるのかも分からないのだ。

 しかし一方で、身体は自由を取り戻しつつあった。


 ここがどこかは不明だが、とにかくこの女から離れなければならない。


 俺は逃げ出そうと女に背を向け走り出すのだが、何しろ辺り一面完全な闇なので、平衡感覚を失って膝をつく。

 気が付けば、床とも知れぬ闇の中に白い足元がある。

 顔を上げると、白い女がさっきと変わらぬ距離感で俺の前に立っていた。


 ……女が移動したのか、俺が同じ場所に戻ってきたのか。

 それとも俺は、幻でも見ているのか。


「あなたは、この先に進みたいのですか?」


「…………」


 どうだろう。女という異物から逃げようとは思ったが、実を言えばこの、どことも知れぬ闇の中にいるのは心地がいい。

 静かで、ふと目を閉じれば――閉じようと閉じまいと、白い女以外全てが真黒く染まっているのだが――まるで無重力の中、さながら宇宙を泳ぐ魚になったような気分だ。


 全てがどうでもよくなって、俺はこの闇の中に溶けて行く――


「ちょっと待ってください」


 ……何なんだ、煩わしい。


「お節介だとは思うのですが、生憎とこちらもこれが仕事なんです。どうか立ち止まって、もう少し考えてみてください。あなたは本当に、その先にいきたいのですか?」


「……俺は、猪突猛進、これと決めたら迷わず真っ直ぐ突き進む男だった」


「そうですか。自分のことを思い出せて何よりです。ではたずねますが、あなたはもう、そちらにいってしまうと決めたのですか?」


「…………」


「たとえばその先が崖で、落ちたら死んでしまうとして……それでも、突き進むことを選ぶのですか?」


「……愚問だな。そんな馬鹿はいないだろう」


「ですね」


「だけど、必要なら俺はそうする」


「そう。それはあなたの美点なんでしょう。ですが、今それは必要なのですか?」


「……では、他にどうしろと? 俺はどこにいけばいい?」


「どこにもいかない、という選択肢もあります。ちょっと立ち止まってみましょう。それから思い出してみてください。目を閉じて、ゆっくりと――そうしたら、きっとあなたの行方を指し示す光が見えます。それが、


「……やっぱり胡散臭いな、あんた」


「自分でもそう思いますが、生憎と、私はそういうものなんです――」


 目を閉じているのに、遠くにかすか、光が見える。

 そこへ向かっていこう。そう決めたなら、俺は止まらない。


「では、おかえりなさい。あなたの物語は、まだ始まってもいないはずです」




                   ■




 ふと、目を覚ます。


「あ、ミトカワさん起きた?」


「カシワギさん……」


 どうやら、職場で眠っていたらしい。

 本来なら患者さんの使うベッドで堂々と。


「404号室の患者さん、意識が戻ったそうよ。すごいわねえ、ミトカワさん。さすが白衣の天使。三途の川からUターンさせるなんて」


「カシワギさんも白衣じゃないですか……」


 ふわあ、とあくびを一つ。


「医術じゃあ身体は治せても、意識までは取り戻せない。そんな患者さんたちを救える、〝意療いりょう〟現場の最先端にして最前線、最後の砦、〝白衣の天使〟の異名は伊達じゃないわね!」


「それは異名なんですか……?」


 ともあれ、先ほどの男性は意識を取り戻したらしいのでひと安心。


「疲れたでしょ、何か奢るわよ」


「……いえ、眠っていたので疲れはありませんが――」


「ほんとね、せっかく治療したのに助からないとか、こっちの目覚めが悪いったらないのよ。うちの病院にもあなたみたいな人が来てくれてほんと助かってるわ」


「はあ……、それは、まあ、良かったです」


 ――はまだ、必要とされているらしいですよ、お姉さん方。


 神様リインカーネイションに見放された、翼を亡くした天使でも。




                   ■




 空の病室を出ると、どこかで誰かの泣き喚く声が聞こえた。

 ただそれは病院特有の悲痛なものではなく、もっと優しい、そんな泣き声だ。


「やめろやめろ! 叩くな痛いって! 死ぬ! 俺また死んじゃう!」


「ひとがどれだけ心配したと思ってるのよね死ね! 今すぐ死ね!」


 人が泣いていると分かって笑顔になるのは、たぶん不謹慎なのだろうけど。


「おっと――」


 前を歩いていたカシワギさんが立ち止まる。


 どこかで車輪の回る音がする。勢いよく激しく、複数の足音。

 また、急患だ。誰かが運びこまれてきた。


「まったく昨日から散々ね。亡者が生者を襲うなんて世も末よ」


「末どころか、一巻終わってもう新章なんですよ」


「?」


 天使がいらなくなった、新しい世界。


「カシワギさん、私たちも行きましょう」


「そうねー、さすがに今日こそは定時に帰りたいわ」


「私はもう定時という観念とはお別れしました」


「ブラックに染まらないで……」


 お休みてんごくから踵を返し、職場じごくへ向かってUターン。


 私にはたぶん笑顔の本質は分からないけれど、私のすることが誰かの笑顔に繋がるなら――それが今の、私の存在する意味なのだろう。


 搬送されてきた急患の一人が目に入る。


 その人の顔には、――


「うへえ……」


 あんな感じの患者さんがいっぱいいるのでしょうか。

 ……なんだか、帰りたくなってきました。


 私、ああいうグロいのは未だに苦手です。



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