君に、還る。

音無 蓮 Ren Otonashi

『意志疎通しようよ、せんぱい』


 学校の屋上の鉄格子を握って、夕焼けをじっと見つめていると、背後で襖戸が開く音がした。振り返らずとも誰が来るのか、僕にはわかる。僕と同じ、人の輪に入れないならず者だ。両耳に派手なピアスを何本も付けているとか、染めた茶色に色素の薄い灰色のエクステを付けた髪型だとか、気崩した制服、膝丈上のスカートだとか、つっけんどんで高圧的な目線だとか。そういったいかにも不良然とした身なりをしていると、教師の敵に回るのはおろか、他の生徒からも遠巻きにされ、輪から外れるのだ。

 いたって当然の摂理だ。見た目よりも中身が大事っていう空言はある程度、身なりが整っている人間向けの差別構文に過ぎないのだ。

「ねえ、せんぱい」

 彼女は相も変わらず、いつも通りに、制服のポケットから煙草とライターを取り出して火を点けた。

 ぷか、と紫煙が躍る。鼻を刺すつんとした香りのせいで眦に涙が溜まってしまった。

 決して、卒業を憂いた涙では、ない。

「……なんだよ、後輩」

 そして、鉄格子を握りながら茫然と立ち尽くす僕の横でおもむろに腰を下ろし、膝を抱えた後輩の彼女は、先程僕が述べたような、遠巻きにされる条件をすべて含んでいた。ウチの学校じゃ、彼女以外に不良と呼べる人間はいない。

 僕だって、一般人の、モブキャラの範疇に収まっている。ただ、面白みの欠片もないから不良ぶって屋上に繰り出しただけ。それがいつの間にか日常になっていただけに過ぎない。

「あたしはずっとあんたの横にいてもいいのか?」

「君がいたいなら、いいんじゃないか?」

「……あたしは、」彼女の小さな拳が、風化したアスファルトの地面を叩いた。「あたしは、あんたの……せんぱいの意見が聞きたいんだよ」

 彼女は、僕の答えを欲しているようだった。このとき、僕は正答を導き出せず、口籠っただけだった。

 高校三年の三月の終わり。屋上に、さめざめと泣く少女と僕の姿があった。卒業証書の筒を強く握った。



 上京し、大学に入学して、一年が経った頃。僕はついに一人暮らしをしている貸家から抜け出せなくなった。理由なんて簡単で、人の輪に入ることができなかったからだ。なんら驚くべきニュースではない。何故なら、高校時代も結局、誰一人友達ができずに卒業を迎えてしまったのだから。

 あの後輩は友達ではない。彼女とはあくまで共依存の関係に過ぎなかった。人との距離感を図るための実験材料。それは僕にとってもだし、彼女にとってもそうだった。あまり長い時間、誰かとコミュニケーションをとらずにいると、脳が腐っていく感触がある。人として生まれてしまった以上、人をやっていかなければ、存在意義を失って、自分で自分を殺めてしまう。いや、殺められるならいつだって殺められただろう。しかし、僕らは死への恐怖は抗えなかった。だから、おとなしく最低限人として生きるためのことを実行していたというわけだ。

 それが、放課後に二人きりで屋上に集まるようになったきっかけだ。

 あの後輩は僕がいなくなったあとどうしているのだろう。人に溶け込む努力をしたのか、はたまた屋上で一人寂しく膝を抱えて丸くなっているのだろうか。

 それとも。

「人生に嫌気がさして、死んでいたとしたら」

 なら、どうなんだ。僕に知る権利はない。

 僕は一度、彼女を捨てたのだから。

 卒業を機に、人間としての生き方を改善しようと試みた。そのためには後輩との共依存を解かなければならなかった。何故なら甘えきってしまうから。

 しかし、結果なんて誰にでも見て取れるものだった。

 ――言葉が、上手くでてこない。話題も続かない。当然、気の利いたシャレや気配りもできないし、そもそも目と目を合わせるだけで吐き気が込み上げてくるくらいだった。そんなことだから新歓期間もろくにサークル見学をしていないし、大学の講義だって窓際の隅っこから頑として離れないようにしていた。

 逃げたのだ。

 そうしたら、楽になった。楽になった代償として、人の目が日に日に鋭くなっていくのに怯えることとなったが。いや、あくまで僕が自身に課した強迫観念が強く精神に作用しただけなんだろうけど。

 最後には、人の目からも逃げるように、たった一人の安心ボックスに閉じこもったのだ。密室ならば、誰からも阻害されることはない。

 親から送られてくる仕送りに甘受しつつ、内職のアルバイトで細々と生計を立てていた。

 部屋は散らかっており、ゴミ箱には自慰の抜け殻はティッシュに包まれて積まれている。ほのかな栗の花の香りが忌々しかった。

 床に敷いた布団に転がろうとして、枕元に積んだゴミ袋の山に思わず唸ってしまった。辟易。生きていればゴミは溜まらざるを得ない。

「……はぁ」

 僕は意を決し、ゴミ袋の結び目を握った。パンパンに詰まった袋を持ち出し、玄関を開ける。分厚いカーテンで窓を覆っているせいで日時の感覚は撹拌していた。だから、外に出た瞬間、あたりが夜更けであることを実感し、心が酷く重苦しくなった。

 長らく、夕焼けをお目にかかっていない。日を浴びなければ、人体は腐っていくだろう。脳はもう半分以上腐敗しているような気がした。

 ふと。

 隣の部屋の扉が、ガチャリと開く。

「……――あ、」

 隣人の姿に思わず、驚嘆の声が漏れてしまった。

 両耳に派手なピアスが何本も付いている。染めた茶色に色素の薄い灰色のエクステを付けた髪型が懐かしい。制服は卒業してしまったけれど、ぶかぶかなパーカーを着崩し、ホットパンツまで隠したファッションは色気を放っている。

 つっけんどんで高圧的な目線が振り向く。

 鋭い目つきはすぐに真ん丸に見開いた。

「――せんぱいっ!」



 ゴミ捨てを終え、自室に戻ろうとした僕を彼女は許さなかった。

「せっかくだから宅飲みしない? いっぱい話したいことがあるんだよ」

 後輩からの急な誘いに、断る理由も思いつかなかったので、宅飲みを決行することにした。もちろん、その前にシャワーをして数か月ぶりに身支度を整えなければならなかったが。

 久々の娑婆は――などと言いまわしてみるとまるで自分が悪さして獄中に閉じ込められていたかのような気分になる――静寂に包まれていて人の目も少なかった。自室のPCは午前一時を指していた。髪をある程度乾かして、隣室のインターホンを鳴らすとすぐに後輩が出てきた。

「行きましょ、せんぱい。……初めてのデートに」

「思わせぶりな態度を取るなよ。勘違いするだろうが」

「……勘違いしちゃえば、いいんじゃん」

 コンビニでニッカウヰスキーの瓶と氷の袋、あとは適当なオツマミを選んで籠に詰める。一応体裁を気にして、奢ってやることにしたものの、いざレジで出番になると、心臓が握り潰されるような思いがした。ただ、必死に吐き気をこらえ、震える手を操舵する。無言のまま財布の中から小銭を取り出した。

 足早にコンビニを後にしようとすると、後輩は空いている左手をきゅっと握ってきたのだった。

 我ながら単純だとは思うが、ただそれだけのアクションですぐに、緊張感は解けてしまった。

 後輩の左手にはいつの間にか小さめのビニール袋が掛けられていた。中で赤っぽい箱がカランと鳴った。



「せんぱいは本当にどうしようもないな、こんなゴミ屋敷で今まで何やってたんだよ」

 既にお互いにウイスキーのロックを二杯飲み終えたころだった。どうしてか、僕の部屋に押しかけてきた後輩から呆れ混じりの溜息が吐き出された。

 布団の周りに散らかったゴミを片付けたところに二人で胡坐かいて座っている。

「もしかして……引きこもってたの?」

「笑いたいなら笑えよ」否定の言葉をわざわざ重ねるのも見苦しかった。「僕が僕なりに頑張った結果がこれだ。君との共依存から旅立って、人間生活を豊かにしようとしたら、いつの間にか人間が怖くなっていた」

「……、」

「そもそも話すことを放棄していたせいで、上手いこと、気の利いたことはもちろん、話題の一つも浮かばず言葉に迷うばかりで会話が進まなかったんだ。おかしいな、君とだったら話せたはずなのに」

 君じゃないと、駄目だった。

 そして再び、僕らは交わりあって、また依存する羽目になるのかもしれない。蟻地獄からずっと抜け出せずに藻掻くことしかできないのだろうか。

「せんぱいは、」ぶっきらぼうでつっけんどんな彼女は、ふふっと、彼女らしくない柔和な笑みを浮かべた。「自信がないんだよ、あたしと違って」

 その論は、正鵠を射ていたからか、それとも後輩の広げた推測だったからか、すんなりの喉の奥に落ちていくのを感じた。

「あたしはさ、こんな不良然とした身なりをしているけど、自分の意志でやってるんだよ。貫いて、不良を演じているんだよ。そうしたいだけなんだ」

 だから、独りでもよかった。

「最初から、共依存なんかじゃなかったんだな」

「そうだよ。依存なんかじゃない」

 唇を噛んだ。

 あの屋上の夕景の日常すらも、独りよがりにすぎなかったのではないか。

 懊悩を隠すために首を下げようとしたら、

「違うよ、せんぱい」

 首根っこを掴まれたと思ったら、無理矢理上を向けさせられ、彼女の唇が僕のそれに触れたのだった。

 僅か数コンマの煌めきに目を奪われる。

「あたしは、せんぱいのことが好きだったんだよ。好きと依存は違うだろ。だから、一緒にいて欲しかった。けど、せんぱいは一度拒絶したんだ。サイテーだよ」

「気付かなかった」

「せんぱいったらなかなか人と触れ合わないから、人の心を失いかけているんだよ。だから、気付けない」

 反論の余地はなかった。

「だから、今日からせんぱいを矯正したいと思うんだ。間違った方向へ沈んでいくあんたを正しい道へUターンさせんの、名案でしょ?」

 彼女の手には、先程提げていた袋から取り出した赤い紙箱が握られていた。オカモト、0.01。御託は必要ない。

「手始めに、意志疎通しようよ、せんぱい。自信たっぷりなあたしの自信、分けてあげるからさ」

 再び、唇が重なる。

 煙草の匂いが脳を焦がした。

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