アジサシが君を連れてきてくれた
草薙 健(タケル)
ある初恋の物語
「女の子がこんなところで何してるの?」
八月の中旬、丁度お盆も終わりかけの頃。
夏の日差しが容赦なく照りつける中、私が海辺を見渡せるベンチに腰掛けていると、見知らぬ男の子が声をかけてきた。
野球帽を被り、肌は日焼けしている。背は同じくらいだから、きっと私と同じ小学生だろう。だけど、この島では見ない顔だ。恐らく島の外からやって来た子だ。
はっきり言って格好いい。島に住んでる芋連中にこんなシュッとした奴はいない。
「鳥を眺めているの」
「鳥?」
「そう、あそこ」
私は遠くに見える岬の方を指さした。その上空には、数十羽の黒い鳥が旋回している。
「あれはカツオドリだね」
私が男の子を見ると、彼はいつの間にか双眼鏡を手に持っていた。
「知ってるの?」
「僕、鳥が好きだから」
「そうなんだ」
あの鳥がカツオドリと言うことを、私はこのとき初めて知った。
「君も鳥が好きなの?」
「うん。見るのが好き」
「へぇ」
私は、彼の持っている双眼鏡に興味をそそられた。
ちょっと覗かせて欲しいな――そう言いかけた刹那、大人の叫びが聞こえた。
「ごめん、親に呼ばれちゃった。船の時間だ」
「行っちゃうの?」
「うん。東京に帰らなくちゃ」
そう言うと、彼は両親の元へ歩き出した。
「私の名前はトキ! あなたの名前はー?」
「僕は佐藤――」
それが、私と佐藤君の出会いだった。
■■■
翌年、私は小学校四年生になっていた。
その夏休みのお盆、佐藤君は突然私の家に現れた。
「トキちゃん、遊びに来たよ!」
私はびっくりした。
野球帽、シュッとした顔立ち、首から提げた双眼鏡。
玄関に立っている彼の印象は、一年前とちっとも変わっていなかった。
お母さんが「こんな汚いお家によく来てくれたわねぇ」などと言いつつ佐藤君を家に上げてしまったので、まずは彼とじっくり話すことになった。
佐藤君は私と同い年だった。普段は東京に住んでいて、お盆には父親の実家があるこの島に帰省するのが毎年の恒例行事とのこと。
この家は簡単に見つかったらしい。私の名前を覚えていたので、近所の住人に聞いたらすぐにここだと分かったそうだ。
お昼ご飯も食べ終わって落ち着いたところで、私は去年できなかったことを佐藤君に聞いてみた。
「ねぇ、その双眼鏡で鳥が見たい」
「いいよ、行こう!」
それから毎日、私たちは島のあちこちへ鳥を見に行った。この島は海鳥の生息地として知られているため、自然が保護されている。見に行く場所には困らなかった。
佐藤君の鳥好きは本物だった。
「上が薄黒くて下が白いあの鳥はオナガミズナギドリだよ」とか、「コアホウドリは背中と翼の上が黒くてくちばしがピンク色だ」とか。
まるで歩く鳥類図鑑かと思うくらい、すらすらと説明が出てくる。
そして何より、佐藤君は周りがよく見えていて些細なことによく気がついた。
「そこの岩場、危ないから足下に気を付けて」
そう言って、佐藤君は手を差し伸べてくれる。私は「ありがとう」と言いながら、素直にその手を握る。彼の手は温かかった。
楽しい時間はあっという間に過ぎて、佐藤君が船で東京に帰る日がやって来た。私は港まで見送りに行く。
「トキちゃん、これを持っててくれないかな?」
船に乗る間際、佐藤君は私に赤い紙テープの端っこを私の右手に握りこませた。もう一方の端っこは佐藤君が持っている。
「それじゃ、さようなら」
佐藤君が船に乗り込んだ。ゆっくりと船が岸壁から離れ、テープがどんどん伸びていく。
「来年も、必ず来てねー!」
一生懸命手を振りながら、私は号泣した。やがてテープが海に落ち、船は水平線の彼方へと消えていく。
私は、しばらくその場を動くことが出来なかった。
■■■
それから毎年、佐藤君は私の家にやって来た。
「よう、元気だったか! トキちゃん!」
「おひさー!」
「さっそく行こうぜ、海!」
「うん!」
私の住んでいる島は、狭いようで広い。少なくとも二人の子供が駆け回るには広すぎた。
おかげで自由研究のテーマには困らなかった。
行くところ行くところで新しい発見があり、ちょっとした冒険気分に浸る。
私は佐藤君と過ごす三回目の夏にマイ双眼鏡を手に入れ、私自身も熱心に鳥のことを勉強するようになっていた。
それでも佐藤君の勉強量には到底及ばなかった。彼の説明を聞きながら双眼鏡で鳥を観察することが好きになり――いつしか私は佐藤君のことが好きになっていた。
■■■
中学校二年生になった。
初めて出会った頃は同じくらいだった身長が、今では頭一つ分くらい佐藤君の方が高くなっている。
ある日のこと、いつものように二人でバードウォッチングを楽しんでいると、佐藤君が驚いた表情をしながら私に話しかけてきた。
「トキちゃん。あれを見てみなよ」
私は彼が指さす方に双眼鏡を向ける。
見慣れない鳥が一羽、岩場に泊まって羽を休めている。
双眼鏡を通しているので、実際の大きさがどれくらいかはよく分からない。白い体は引き締まっていて、頭の上半分だけが黒い。オレンジ色のくちばしが夏の日差しに映えていた。
「カモメ……かな?」
「いや、多分あれはアジサシだよ」
「アジサシ?」
「この島で長いこと鳥を見てきたけど、アジサシは初めてだな」
知識豊富な佐藤君が、アジサシについて教えてくれた。
体長は三十センチメートルくらい。カモメの仲間であり、嘴は先が鋭くとがっている。翼や尻尾はツバメのように細長いのが特徴である。
「だけど、なーんか雰囲気が違うんだよな」
「雰囲気?」
「アジサシの仲間だとは思うんだ。だけど、あれは図鑑には載ってない気がする」
■■■
明日で佐藤君が帰ってしまう。
また、お別れをしなければいけない。
「来年も……来てくれるよね?」
「もちろんだよ。僕、トキちゃん……と……一緒に鳥を見に行くの、好きだから」
「うん。私も好きだよ」
二人の間に流れる沈黙。佐藤君の顔が夕日に照らされて真っ赤に染まっている。
「……トキちゃん。ごめん、やっぱ言い直す」
「なに?」
「僕、トキちゃんのことが好きだ」
それは、私がずっと待っていた言葉だった。
「……私も好き」
私は、初めて彼のことを下の名前で呼んだ。
「トキ」
彼が、優しく包み込むように私のことを抱きしめる。
そして、私たちは口づけを交わした。
■■■
次の年。中学校三年生の夏、佐藤君は島に現れなかった。
家庭の方針でスマホを持っていなかった私は、佐藤君と気軽にコンタクトできる手段を持っていなかった。
彼の住所とメールアドレスは知っていたので、時折父親のパソコンを借りてEメールを出したりはしていた。しかし、佐藤君が島にやってこなかったあの夏を境に、Eメールが届かなくなってしまった。
変に思った私は、彼に手紙を出した。
しかし、手紙が佐藤君に届くことはなかった。『宛て先の住所に受取人が居住していない』という理由で返送されてきてしまったのだ。
何が起こったのだろう。心配で心配で仕方がなかった。東京にいる親族に頼って探してもらったが、佐藤君のことは見つからなかった。
そして、無情にも時間は流れる。翌年、私は高校に通うため島を出ることになった。
私の初恋は、思わぬ形で終焉を迎えた。
■■■
十年後、私は鳥類研究の分野でちょっとした有名人になっていた。大学院生をしているとき、アジサシの新種を発見したのだ。
中学二年の時に見た、あのときのアジサシ。
勉強を進めていく内に、あれがどの分類にも属さないのではないかと気がついたのだ。調査を進めていくにつれ、私は新種である確信を深めていった。十分な裏付けを行い、英語の論文を書いた。
その結果、私の生まれ育った島の固有種であることが認定され、私は発見したアジサシに名前を付けることになった。
いろいろ迷ったが、最終的にはこう名付けることにした。
佐藤悠君――ついに再会することのなかった、初恋の人の名前。
発見したのは彼と言ってもいい。
佐藤君は鳥が好きだ。ひょっとしたら、この発見のニュースを見て私のことに気がついてくれるのではないか。
新種のアジサシに自分の名前、発見者に私の名前。メッセージは十分伝わるはずだ。
そんな淡い期待を持っていたが、彼から連絡が来ることはなかった。
■■■
それから数年がたった。
私は東京都内の大学に就職し、東京と離島を行ったり来たりしながら、鳥類の研究を続けている。
何人か付き合った男性はいるが、最近振られて未だに独身だ。
ピンポーン。
インターホンが鳴っている。
「……誰?」
私は、うずたかく積まれた論文や資料で散らかり放題の部屋で目を覚ました。
ピンポーン。
またインターホンが鳴る。
スマホを見ると時刻は朝の九時。しかし、今日は土曜日。大学は休みだ。
昨晩は論文の投稿締め切り日で徹夜だった。家に帰って布団に入ったのは……朝の七時だっただろうか。もう少し寝たいと思って、布団を被り直そうとしたとき――
ピンポーン。
三回目のインターホンが鳴った。
「あぁ、もう!」
私が布団から飛び起きると、その弾みで論文の山がドサドサッと崩れ落ちた。
「あっちゃー……」
論文が部屋中に散らばってしまい、足の踏み場がなくなってしまった。このまま踏んづけて玄関まで行ってもよかったが、万が一転んだりしたらことだ。
まぁ、居留守を使っていれば来客者はそのうち帰るだろう。
私は部屋を片付けるべく、論文や資料を拾い始めた。
ピンポーン。
しつこいな。何故か諦めが悪い。
「はーい! 今行きます!」
そう答えたとき、私は拾い上げた論文に目がいった。
これは……私が初めて書いたあの論文。改めて見返すと酷い出来だ。笑ってしまう。
その論文のイントロダクションは、次のような文言で始まっていた。
―― The Yuu
(了)
アジサシが君を連れてきてくれた 草薙 健(タケル) @takerukusanagi
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