誰のためでもない

桜々中雪生

誰のためでもない

 アンカーの私にたすきが渡される。順位は、もう三人ほど抜けば入賞できるくらい。我ながら、いいペースで走っている。コンディションもいい。でも、私と前のランナーの距離は一向に縮まらない。私もそれなりにスピードを出して走っているのに、悠々と前を走る数人のランナー。体力は適切に配分しながら走らないといけないけれど、うわーっと、一気に全員追い抜いてやりたくなる。こんな中途半端な順位で、悔しい思いをしたくない。そうは思っても、進む足取りは規則正しい。筋肉が心地よく軋んでいる。今のペースを崩すなと、自分の身体からの合図。それではこの順位のまま終わってしまう。かといって早めれば後半にばててしまって今よりも順位が下がるのが関の山だ。アンカーの嫌なところだと思う。チームの期待を一番背負わないといけない。私は、独りで走っていたいのに。わーっとうるさい声援の中をたんたんとリズムをつけて走りながら、何だか無性に情けない気持ちになった。


 私の人生こんなものなのか。毎日毎日、倒れるような練習をして、吐くまでトレーニングをして、それで一日が終わる。それでも、こんな県の大会ですらあと少しで入賞を逃すような記録しか出ない。この日のために、父さんと一緒に特別メニューをこなした。部活のコーチよりも厳しい指導だった。いつ終わるのかとも知れないインターバルをひたすらやらされた。父さんとのトレーニングのたびに、涙と汗で顔をぐちゃぐちゃにして、トイレで胃の中が空っぽになるまで吐いた。実業団で長距離選手をしていた親の過剰な期待にもうんざりだ。私はただ、走ることが好きだっただけなのに。自由に、好きなようにルートを決めて、好きな速さで、好きな時間に、自分の思うまま、走りたかっただけなのに。何で、決められたルートを走って順位をつけられなきゃなんないんだ。何でこんなことになってしまったんだろう。私の意思は? どこへ行ってしまったんだろう。もう見当たらない。こんなに頑張ってきた理由も、どこにも見えない。肩にかかったたすきがひどく重い。鉛みたいだ。何でこんなものかけてるんだっけ? これは、一体何のために走っているんだっけ? 皆の声が遠くなる。何を叫んでいるのか、よく聞こえない。別に、聞こえなくたって困らないけど。がやがや、やかましい音にしか思えない。変なの。皆、すごく必死な顔。


 あーあ。もういいや。


 私は、規則正しく前に進めていた足を止めた。さっきまでの声とは違う。道路端が私を指差してざわめき始める。他の選手たちは、自分のチームのことだけを考えて、私には目もくれない。どんどん抜かれていく。私たちの順位が下がる。どんどん、どんどん。係の人が何事かと互いに目配せしながら不審そうにやって来る。面倒ごとをふやしやがって。そう言いたげな顔。どうしましたかー。体調、悪いですかー。棒読みで私に声を掛けてくる。そうだ。こんなもんなんだ。私はたすきを脱ぎ捨てて、くるりと踵を返した。

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