チャイナ・ブルーをあなたに

天野維人

この世に一つの宝物


「マスター。俺……地元に帰ろうと思うんだ」



 祐介がそう呟くと、グラスの中の氷が滑り、耳心地の良い音がバーの店内に響き渡った。


 マスターは祐介の呟きに返事をせず、無言の視線で続きを促した。



「田舎から出て、東京でビッグな男になってやる――ありきたりだけど、そう思ってこっちの大学を受けて、卒業して、大企業に就職して……このまま思い描いたようにデカくなっていけるって思ってた」


「……なにかあったのですか?」



 マスターが問うと、祐介は僅かに俯いてから、絞り出すように呟いた。



「疲れちゃってさ、色々と。営業とか、客の対応とか、周囲との出世争いとか、上司からの圧力とか……ずっと耐えながら続けて来たけど、いつだったか思っちゃったんだよね。俺はなんでこんなことしてんのかなって」


「……」


「なりたかった自分って、こんなんじゃないよなって思った。ビッグな男っていうか、いい男? 今の自分ってそういうのじゃないよなって。これなら地元で就職して、親とか友達とかとすぐに会える場所の方が、今よりマシだったんじゃないかってさ」



 祐介はグラスを傾け、琥珀色の酒を喉の奥へ流し込む。


 グラスが空になる気配を悟ったマスターは、次のカクテルを作り始める。



「……地元、どちらでしたっけ?」


「九州。そこそこ栄えてる街だけど、東京に比べたらなんもないのと同じだよ」


「……でも、お好きなんですよね」


「え?」



 マスターの言葉に、祐介は少し驚いた様子で顔を上げた。


 祐介の核心を突いていた様だ。



「好きじゃなかったら、帰ろうなんて思いませんから」


「……そうだね。うん。なんもないけど、いい街だから」



 祐介は小さく笑みを見せる。


 故郷やそこに住む家族、友人を思い出したのだろう。


 グラスに注いだカクテルをスプーンでかき混ぜながら、マスターは祐介に尋ねる。



「……いつ頃戻られるのですか?」


「来月の初め頃かな。実は向こうでの仕事はもう見つけててさ。ほら、Uターン転職ってやつ。あれの求人が結構出てて、探すのはあまり苦労しなかったよ」


「……ということは、ここに来るのは、あと数回ほどということですかね」


「そうなるね」


「寂しくなりますね……」


「うん。俺も、この店好きだから、寂しいよ」



 祐介は落ち着いた空気に満たされる店内を眺め、眉と肩を落とす。


 しかし、そこには寂しさ以外の感情が紛れていることを、マスターが見抜いた。



「なにか、心配事ですか?」


「マスターにはお見通しかぁ」



 祐介はグラスに残った酒を流し込み、グラスをゆっくりとカウンターに置く。



「田舎から都会に逃げた俺が、都会でも逃げて、田舎に戻ったところで、やっていけるのかなって。また投げ出したら、今度こそ行く場所がない。もう後がないんだ」



 俯き、力なく笑う祐介。

 

 酒が回り、秘めていた本音が出たのだろう。


 だが、マスターはそれを待っていた。



「どうぞ」



 そう言って、マスターは祐介に新しいグラスを差し出した。



「え、頼んでないけど……」


「奢りです。私からの餞別とでも思ってください」


「はは、ありがと……にしても、随分爽やかな感じのカクテルだね」



 祐介の前に出されたグラスを満たすのは、鮮やかなグラデーションの青だった。


 グラスのふちにはライチの実が添えられ、赤と青のコントラストが爽やかさを引き立たせている。



「チャイナブルーと言います」


「あ、聞いたことあるな。でも、どうしてこれを?」


「まずは一口どうぞ」



 促されるまま祐介はグラスに口をつけ、鮮やかな青色の酒を口に含む。


 すると、祐介は小さくほくそ笑んだ。



「うん、美味しい。見た目通り爽やかだ」


「ありがとうございます。カクテルにはそれに伴う『言葉』がございます。それを貴方にお伝えしたく」


「へぇ……やっぱバーテンってかっこいいなぁ。で、このカクテルの意味は?」 


「『自分自身を宝物だと思える自信家』です」



 マスターがそう告げると、祐介は呆気にとられたような表情を浮かべた。



「なんか、すごい意味だな。今の俺とは正反対だ」


「いえ、むしろその逆です」


「逆?」


「この言葉は『自分はよく頑張った。自分はこの世に一つの宝物だ。自信を持って前に進んでいいんだ』という励ましの意味を持った言葉なのです」


「励まし……」


「私から貴方へこれを贈るのは、貴方が頑張ってきたことを知っているからです。貴方は逃げるのではなく、前へ進むために故郷へ帰るのです」



 マスターの言葉に、祐介は目を見開く。


 祐介は自分の心が震えているのを感じていた。



「だから、自信を持って下さい。貴方は大丈夫です」


「……!」



 ふと視界がぼやけ始めた祐介は、あわてて目元を拭い、それからカクテルをぐいっと飲む。


 そして、目元を赤くしたまま、祐介は笑みを浮かべて言った。



「マスター……俺、またこの店に来るよ。マスターみたいにいい男になってさ!」



 意気込む祐介、先程までの不安そうな感情はどこにも見当たらない。


 すると、マスターも微笑んで言った。



「ここでお待ちしております。ずっとね」



 グラスの中で氷が滑る、心地よい音が響き渡った。




END

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