7. klątwa   呪い


 祭りは昼過ぎから始まっており、街灯に結びつけた紐に吊されたたくさんのランタンには緋色の炎が踊り、娼婦のように人びとを狂わせる。

 夜の灯りは僕を混乱させる……。


 僕に行く場所はない──行くべき場所はない。鞄がいつもより妙に重く感じた。あの封筒のせいだ。時間が経つにつれて、封筒は水を吸うスポンジのように重さを吸いこんでいるようだった。

 僕は昨夜、ゴーシャと名乗った女に言われたことを思い返す。ドールナ通り三番地、古本屋、店主のマジェフスキ。

 こわれた耳が僕を嗤う──僕はうすうす分かっていた。

 僕は逃れられない。


 ドールナ通りには街灯が点いておらず、ヴェールのような闇が淀のように積もっており、その中に潜む怪物は、口を開けて僕のことを待ち構えていた。ほんの一本向こうの道では着飾った人々が踊ったり騒いだりしているというのに、妙な静けさに支配されている……。

 僕は三番地まで歩いていく。石畳に靴が当たる音が、いつもより鈍く響く。

 祭だというのに、その店は開いていた。道が暗すぎるので看板は読めなかったが、窓から明かりが漏れており、営業していることは間違いなかった。

 僕は観念し、扉を押し開いた。


 赤みがかったランプに照らされた店内には傾いだ棚がいくつも並び、奇妙なバランスで位置されたたくさんの本たちが僕を待ち構えていた。本の隙間から影たちが僕の様子を伺い、どうやって罠にかけようかと相談している。

 僕のこわれた耳が、本の中で羽ばたくチョウたちの気配を感じ取った。

 店主は萎びた老人だった。彼がマジェフスキ氏だろう。灰色の髪は薄く、乾いた冬の日の松の木のように罅割ひびわれた肌をしている。

 店主は夜の挨拶もせず、ただじっと僕を見ている。この男は何者か、祭で浮かれて迷い込んだ酔っぱらいか、それとも夜が寄越したスパイですべての本を真っ黒にしようと目論んでいるのか、そうではなくて何の価値もない影か、そんなことを考えている。

 僕は彼に一歩近づき、封筒を差し出す。


 マジェフスキ氏は無言でそれを受け取り、ペーパーナイフを取り、封蝋を剥がして中の便箋を抜き取った。文面がちらりと僕の目に入り、内容は分からなかったが、そう長い文章ではなかった。

 読み上げた彼はため息をつきながら立ち上がり、こちらを一瞥もせずに店の奥へと消えた。

 店主はすぐに、薄汚れた包みを持って戻ってきた。彼はガサガサと音を立ててそれを開く。

 中から出てきたのは、一際古めかしい革装の本。擦り切れて、表紙の大部分は白くなっている。

 店主は低い声で言った。


「触ってごらん」


 僕はその本を受け取った。これはどれくらい古いものなんだろう。どれほどの秘密が隠されているのだろう。表紙には唐突があるが、長い歳月を経てその模様が分からなくなっている。

 僕はそっと表紙を開いた。かさかさに乾いた脆いページを傷めないように。見開きは灰色の淡い濃淡の、鳥のような模様のマーブル紙で、中の文字は一応活版印刷ではあるようだ。

 ページの中から白いチョウがふわふわと現れた。雪が降る前の曇り空のようで、目だけが闇のように暗い。僕はしばらく呼吸を忘れてそれに魅入った。こんなもの、存在するにはあまりにも美しい。

 チョウは誘うように僕のまわりを一周し、それから本の中に戻っていった。

 とても美しいチョウだった……今まで見た中でいちばんかもしれない。

 店主は言った。


「これがどんな本か、分かるかね」


 僕は首を横に振る。


「いいえ」

「この本には魔法がかかっている」

「魔法……」


 店主は本を見下ろして囁く。


「むしろ呪いだ」


 僕はページを優しく撫でた。ごく細い繊維がわずかな凹凸を作り、その一つ一つに魔法が詰めこまれているのを感じた。

 これはどれほど素晴らしい本なのだろう。単語の意味は拾うことができたが、繋げて文章にしようとするとばらばらと崩れていってしまう。

 マジェフスキ氏は尋ねた。


「あんたがたは、こいつをどうするつもりだね?」

「さあ……」


 ゴーシャがこれをどうするつもりかなんてまったく知らなかった。途方に暮れている僕に、店主は疑念を抱いたらしい。皺の中に埋もれた湿った目がきらりと光る。


「あんたは何者だ?」


 僕の左耳が奇妙な音を立てる。サイレンのような、何かを警告するような。


「さあ……」


 僕は軽く耳を叩く。

 それを見た店主は憐むような声を出した。


「ああ、あんたは戦争に行ったのか」

「よく分りましたね」

「兵士ってのはだいたい同じような顔つきをしているもんだ。それにしても、運のないことだね……それほどの若さでこわされちまうなんて」


 僕の耳がこわれたのは戦争のせいではない。ナルツィスが僕の耳をこわしたのだ。

 店主は僕の手の中の本を見下ろし、続けた。


「その上、また厄介ごとに首を突っこんでいるってわけだ」

「そうせずにはいられない性分みたいです」

「これを手にしたあかつきには、もっと悲惨な目に遭うぞ。あんたらにその覚悟はあるのか?」


 僕は答えられなかった。僕は曖昧に肩を竦めることしかできない。僕は店主の向こうにあるランプを眺め、その芯がじりじりと焼かれているのを頭の片隅で認め、君を救うことはできない、だって君の身代わりになりたくはないから、と言い訳する。

 マジェフスキ氏はゆっくりと、しかし有無を言わさぬ様子で僕の手から本を取り返した。


「これは別の場所に移すべきではない」


 僕は本を取り返したくなる。持ち帰って、誰にも話さず、ただチョウを自分だけのものにしたい、そんな衝動に駆られた。

 でも、僕はまったく意味のない問いかけをする。


「あなたは安全なんですか」

「その時が来れば、本もろとも灰になる」


 店主はその本を再び紙で包み、店の奥にしまいこむ。



 僕は手ぶらで暗い通りに出る。どこかほっとしつつ、あの白いチョウをまた見ることはできないだろうか、と考える。

 その時──ギャッ、という耳障りな鳴き声が響いた。

 僕はそっとあたりを見回す。向かいの雨樋に何かがとまっている──カラスか?いや、真っ黒なオウムだ。目の周りだけ青白く、まるで重篤患者のようだ。小さな眼とひん曲がった嘴。あたりは薄暗かったのに、その鳥はあまりにも黒く、僅かな光を吸収して異様に風景から浮き出していた。

 僕はゴーシャが言っていたことを思い出す。


オウム、、、と話しては駄目」


 鳥は僕に気づいていない。それはもう一度ギャッと鳴き、どこかへ飛び去った。

 そいつが戻ってくる前にここを去らなければ──そいつは必ず、、戻って、、、来る、、

 戻ってきたら、なにか良くないことが起こる。


 僕は足早に通りを進む。祭りの喧噪は聞こえるのに、いくら歩いても明るい場所に出られない。影が僕に覆いをかけて、何も見えなくしているのだろうか。知っている道を歩いているはずなのに、どこか違和感があり、僕は自分が迷子になっているのだ、と考える。


 ふと振り返ると、どこかから闇よりもさらにどす黒い煙が立ち昇っているのが見えた。赤い火の粉がざまあみろと飛び回っている。

 あの古本屋だ、と僕は思う。きっと誰にも気づかれずに灰になってしまう、店主も本たちも……。

 僕はあのチョウのことを思い出す……儚く脆く、美しい存在。

 僕は引き返す。僕は早足になり、やがて走り出す──石畳が僕を急き立てるように鳴っている。

 毀れた左耳から、乾いた紙が爆ぜる音が聴こえた。



 やはり、古本屋は燃えていた……本たちが、チョウたちが燃えている。自由になろうと上へと羽ばたいても、意地の悪い炎の舌は彼らを絡めとって真っ黒に染め、粉々に砕いていく。

 ああ、でも──僕に選択の余地はなかった。

 例の本が──あの白いチョウまで燃えてしまう。僕は黒い影に足をすくわれないように、そっと火の中に忍びこんだ。


 壁は崩れ、棚もその中の本もすっかり火に絡めとられている。僕は自分の肌から汗が吹き出し、目が乾くのを感じた。肺は刺すように痛み、息ができない。熱い、これは熱いということだ、だが思い出してはいけない、僕は電球の中で焼かれているわけじゃない、一刻も早くあのチョウを救い出さなければならないのだ。


 マジェフスキは息絶えていた。おそらくは炎ではなく煙によって──だが、カサカサに乾いた彼は、何層にも重なった赤や橙色の炎によって、みるみるうちに黒ずんでいく。

 彼が抱えていたであろう本も、焼けて灰になっていた。まるで初めから幻であったかのように、一頁一頁と失われていく。

 しかし、あのチョウはひらひらと漂っている。

 僕は安堵のあまり涙が出そうだったが、眼球はあまりにも乾いている。

 僕はチョウに向かって囁いた。


「こちらにおいで」


 きっと僕の声は炎に焼き落とされてしまった。しかし、チョウには僕の言葉が分かった。それは僕の方に向かってゆったりと舞い、僕の左耳にとまって、穴の中に滑りこんだ。

 僕は左耳に手をやった。チョウはこわれた耳の中でパタパタと羽ばたき、良い具合に落ち着いたようだった。


 僕はマジェフスキ氏を振り返る。彼は真っ黒焦げに焼かれ、ただの影になってしまっていた。

 彼は曲がった指で僕を指差して言った。


「お前は呪われているぅ!」


 僕は呪われてしまった。

 どこからか、ギャッ、という鳴き声が聞こえたような気がした。

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