6. podwójnie 二重
誰かの声が言った。
「目覚めるか、目覚めないか?」
僕はまぶたを開く。いちばんに目にとまるのは赤茶色の壁紙。少し離れたところにもう一つのベッド。僕と弟が暮らしていた部屋だ。
つまり、ここは夢の中だ──。
僕は身を起こす。この部屋には窓がない。電気の傘はくすんだオレンジ色。傘の中央、ガラスドームの中で芯が焼かれている。
僕はベッドから立ち上がり、寝室を出る。
居間は紫色の壁紙。
大きな窓のそばに、縄でできたハンモックがぶら下がっている。弟はここで本を読んだり、うたた寝をしたりするのが好きだった。
窓の外は白いバルコニー。僕は窓枠を乗り越える。
僕は外からアパートを眺める。赤と紺色に塗られた外壁。うっすらと汚れている。白い外付けの階段。僕はここに座ってぼんやりするのが好きだった。たまに、爪でペンキを削り取っては、そのかけらが地面に落ちてゆくのを眺めた。
僕はバルコニーを振り返る。隅の方に、先ほどまではなかったゴミと一緒に誰かの死体が捨てられている。それは黒いシャツを着てベージュのスラックスをはいて、足は裸足で、そばには白いスニーカーが転がっている。うつ伏せに横たわっているので顔は分からない……でも、土気色のその顔を見るまでもなく、僕は知っている。
これは弟の死体だ。
彼は右手に何かを握っている。
僕の左耳だ。
誰かがナルツィスの声で言う。
「君が僕を理解したことなんてないじゃないか」
再び、僕は目を覚ます。そこはいつも通りの鉛色の部屋。隣の部屋からダリューシュが身支度をする気配を感じ、ヤジャの笑い声が聴こえたような気がした。
僕は潰れた枕に顔を埋めて呻いた。
ここに弟はいない。
僕は一度で夢から覚めることのできない日がある。目覚めると、ここではない場所にいる──それは過去に住んでいた場所や訪れたことのある場所、行ったことはないのに見覚えのある場所だったりとまちまちだ。
どの場所も何度も繰り返し出てくるが、弟と暮らしていたアパートは特に頻繁に現れる。
内容は変わりばえがしない。僕は夢の中で目覚め、バルコニーに出る……僕は確かめずにはいられない……弟が死んでいることを……弟の死体がそこにあることを。
いつも通り身なりを整え、ヤジャの気配を気にしつつ自分の部屋を出る。朝食は外で済ませることにして、ダリューシュより先に家を出る……彼はもうしばらくヤジャといたいだろうから。
出発の前に、僕は鞄にあの封筒をしまう。
いそいそとアパートの扉を閉めようとした時、ダリューシュが自分の部屋から僕に呼びかけた。
「今日は帰らないかもしれない」
「分かった」
きっとヤジャと祭りを楽しむのだろう。
*********
僕は図書館の残骸の中で変わりばえのしない作業を行う。祭りのせいか、同僚たちは少し浮き足立っているようだった。
今日、チョウたちはやけに僕の周りに集まってくるように思われた。僕の鼻先や腕に彼らの繊細な翅がかすめ、耳や肩に彼らの脆い脚を感じる。僕は彼らをそっと捕まえて、いつも通り籠にしまう。チョウたちはごく静かに、パタパタ、パタパタと僕に語りかける。
僕は籠に
近くにいたダリューシュが声をかけてきた。
「どうかしたのか?」
僕が首を振ると、彼は作業に戻る。僕もそれに倣い、近くを漂っていたチョウをそっと捕まえる。
僕とナルツィスはチョウたちの言葉を聴くことができた。僕らに語りかけるのはチョウだけでなく、もっと色々な声が聴こえた──きれいな色の小石の柔らかな声、ぎざぎざしたガラスの破片の鋭い声、錆びた釘の嗄れ声、虫の抜け殻の乾いた声、水たまりに落ちる雫の明るい声。
彼らは僕らにたくさんの秘密を教えてくれた。世界の色が百も増えてしまうくらい素晴らしいものも、知らなければよかったと思うくらい恐ろしいものもあった。僕とナルツィスは誰にもそれを話さなかった。それは二人だけの真実だった。
やがて、僕は戦争で怪我をして、一時的に右耳が聞こえなくなった。怪我は治ったものの、そのあと右耳は
僕らは混乱した。僕らは、どちらが本当のことを言っているのか分からなくなった。なにが本当に起きたことなのか分からなくなった。
ある日、ナルツィスは僕の左耳を
その話をすると、誰もがそんなことは起こらなかったと言う。彼らは言う──弟が死んだショックで、僕は悪い夢を見ていたのだと。ナルツィスが死んだ時、僕は左耳を怪我などしていなかっただけでなく、ナルツィスのそばにすらいなかったと。
だが、僕は憶えている……。
目を閉じると、今でも思い浮かぶ……僕の左耳を握ったまま、ゴミのように横たわる、僕のきょうだい。
鐘が就業時間を知らせた。
ほとんどの同僚は祭りに繰り出していくようだ。家族や恋人や友人と待ち合わせているのか、みんな足取りも軽くプレハブ小屋から出て行く。
僕はいつも通りのろのろと着替えていた。この後はどうしようか、と思いながら──僕は鞄の中の封筒のことを考える。
そうしていると、小屋の中には僕しかいなくなった。着替えが済んでからも、僕はしばらく小屋の中でぼんやりとしていた。街は人だらけだろう。通りにはさまざまな声が響き渡り、反響し、僕の左耳は具合が悪くなる。
天井から吊るされた電球からお馴染みの声が聞こえる気がした──「ここから出してくれ!」
僕はため息をつき、電気のスイッチを落としてから、意を決してプレハブ小屋を出る。
外にはプルトフスキがいた。彼はいつも通り、強い香りのタバコを吸っていた。僕は数秒間、彼をじっくりと眺める。僕と弟が働き始めた頃より、彼の髪の毛も皮膚も薄くなっているような気がした。傾きかけた太陽の下で、彼はいつにも増してくたびれて見えた。
プルトフスキは振り向いて、さりげない調子で僕にタバコを勧めた。僕は断った。
彼は長くタバコを吸いこみ、一際濃い煙を吐いた。
「お前も祭りに行くのか?」
彼は僕が祭りには行かないと思っている、僕がひとりでアパートに戻り、壁の上を這い回る模様に絡みつかれて、そのまま締め殺されてしまう、少なくともそうなれば良いと僕が考えている、彼はそんな風に思っている。
プルトフスキはそんなことになって欲しくなくて、きっと僕を家に招くか、静かな酒場にでも行って──今日、静かな店なんて見つからないだろうけど──彼の死んだ息子や、ナルツィスの話をしたいと思っている。
僕は答える。
「ええ、年に一度のことですから」
「そうか」
プルトフスキはそれ以上何も言ってこなかったが、落胆している。僕たちは一緒に祭りを楽しむほど親しくない。彼は家に帰り、街の賑わいに耳を塞ぎながら、息子のいないがらんどうを眺め、自分もその中に溺れてしまいたいと思うのだ。
僕は胸に鈍い痛みを覚えつつも、彼に微笑みかけ、封筒の入った鞄を抱えて街へ歩き出す。
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