5. wzgórze róż   薔薇の丘


 おそらく帰るにはまだ早い。壁越しに他人のセックスを聞きながら自慰をするはめになるのは避けたい。

 時刻は九時半過ぎ。僕はふと、朝に拾った紙切れを思い出す。


《十時にアダメク通り、薔薇の丘 M・C》


 この十時というのが午前なのか午後なのか、そもそも今日のことなのかも分からない。だが、アダメク通りならここから歩いても二十分かからない……。

 僕は電話ボックスを後にした。石畳に僕の足音が響く。壁に当たった音が跳ね返り、それに弾かれたドブネズミが通りを走り去る影が見えた。


 アダメク通りは飲み屋街だ。祭りのために提灯やけばけばしい旗で飾り付けがされ、いつにも増して騒がしい。不格好な光の粒子がそこら中に散らばって目眩がする。

 《薔薇の丘》は酒場だった。店の外に薔薇と女の横顔の釣り看板があり、入り口は赤いランプで照らされていたからガラの悪い店のように見えた。しかし内装は洒落ていて、カウンターに置かれた蓄音機から落ち着いた音楽が流れていた。そして驚くことに、誰もタバコを吸っていなかった。

 外の喧騒とは無関係の静けさの中で、僕はしばらく立ち尽くしていた。

 スズラン型の暗い照明の下に浮かび上がる店内には黒く艶のある丸テーブルが七、八個、そのうちの五つが埋まっている。

 年老いた男の二人組。スーツを着こんだ三人組。若い男女。学生らしき若者のグループ。

 そして一人の女。彼女は目を伏せて本を読んでいた。そばにはすみれ色のリキュールが、ほとんど手付かずのまま置かれていた。

 彼女の胸元に、チョウがとまっていた。黒地に赤い紋のある、大きすぎず小さすぎないチョウ。はじめはブローチかと思ったが、それがかすかに羽ばたいたので、僕は図書館にいるあのチョウ、、、、、だと気づいた。

 女は僕がじっとチョウを見つめているのに気づいて、何かを確かめようとするようにじろじろと僕を見た。それからチョウを手の上に乗せ、フッと息を吹きかけた。

 チョウはひらひらと浮かび、僕の肩にとまった。それが撒く細かな鱗粉が輝くのが見えた。

 女は僕に頷き、自分の向かいの席を示して言った。


「座って」


 僕は従った。

 チョウは再びふわりと浮かび、女の元に戻った。彼女はチョウをすくい取り、本の上に載せて閉じた。

 女はたぶん僕よりも若い。学生だろうか。長い黒髪、照明が暗いので目の色はよく分からない。

 彼女は言った。


「思ったより早かったわ」


 どうやら彼女は僕がメモを落とした男だと思っているらしい……つまり、彼女はあの男と会ったことがないようだ。

 僕は言った。


「あなたは?」

「ゴーシャと呼んで。友だち、、、みたいに、、、、ね」

「じゃあ僕のことはステファンと呼んで」


 偽名を使ったのは、もしかしたら彼女があの男の名前を知っているかもしれないと思ったためでもあり、僕の身元を知られたくないと思ったためでもあった。もっとも、僕の姓のステファンスキからとったものなので、偽名にしてはお粗末だったけれど。

 僕はウェイターにジンを注文し、彼女はそれが届くまで何も喋らなかった。


「誰にも尾けられなかった?」

「もちろん」


 誰が僕の後を尾けるというのだろう。僕は酒を飲みながら、床にぼんやりと浮かぶ自分の影に目をやる。

 店に一人の男が入ってきた。背が高く、淡い色の髪をポマードで撫でつけている。彼は誰かを探すように店内を見回している。あの紙片を落としたやつかもしれない。僕は彼の方を見ないようにした。

 ゴーシャは人差し指でトントンと机を叩いた。爪を噛む癖があるのが、小指以外の爪がひどく短い。


「時間がないわ。明日にもやつらに気づかれてしまう」


 彼女の声が耳の中で反響する。僕は左耳を軽く弾き、ジンを呷る。

 やつらとは誰のことだろう。

 淡い髪色の男がウェイターに話しかけられ、少し会話をしていたが、やがて苛立ったように店を出て行った。

 彼女がまた指でテーブルを叩いた。僕の言葉を待っているらしい……何か答えなければならない。


「それはまずい──急がないと」

「ええ」


 ゴーシャは頷き、言った。


「よく聞いて。ドールナ通り三番地に古本屋があるの。明日、陽が沈んだらすぐにそこに行って──そうしたら、オーナーのマジェフスキ氏にこれを渡すのよ」


 彼女は封蝋の押された封筒を僕に差し出した。


あれ、、を受け取ったら、すぐにあそこ、、、に隠して。明日は祭りが始まるから、上手くまぎれこめるはず」


 どこかで換気扇の回る音がする。音楽でかき消されるくらい遠い音のはずなのに、あたかも僕の耳の中でファンが回転しているかのようだ。街の汚れた空気がどんどん僕の中に入りこんでくる……。

 僕は耳鳴りから逃れようと首を振り、言った。


「どうして君が行かないのさ?」


 彼女はぎゅっと眉をひそめた。


「本気で言っているの?」

「まさか……」


 僕は我に帰る。夜はどうも調子が狂う。

 彼女に偽物だと気づかれたら厄介だ。すでに不審げな目で僕を見ている。そもそもここに来るべきではなかったのだろう。なにか奇妙な取引が行われている。

 僕はジンを一口呷り、もっもとらしく尋ねた。


「危険は?」

「言うまでもないわ。だから目立たないようにね──もし見つかっても、オウム、、、と話しては駄目。逃げて」


 どこに?どこに逃げる場所があるというのか?

 耳鳴りが一際ひどくなった……もう帰った方がいい。明日も仕事なのだから。それにこれ以上へまをするのは避けたい。

 僕は酒を飲み干し、テーブルに代金を置いた。

 そして封筒を手に取る。ゴーシャは僕を止めなかった。


「そろそろ行くよ……」

「ええ。絶対になくさないで。必ず古本屋へ行くのよ」


 彼女はとても強い視線で僕を見た。僕はそれをかわして立ち上がり、彼女に背を向ける。

 僕にはもう、通りの喧騒もよく聞こえなかった。こわれた耳から何かが忍びこみ、脳のしわの中を進んでいく……。

 店の前で、あの淡い髪色の男がタバコを吸っていた。彼が店の中に入っていくのを、僕は意識の隅で認めた。

 僕は帰路に着く。中心部を離れると人気ひとけも少なくなり、耳鳴りもややおさまった。代わりに街灯のに群がる虫の羽音がやけに大きく響く。僕は自分の足音を頼りに進む。それだけが確かに現実だと感じられた。



 アパートに戻る。とても静かだった。淡い輪郭を持つ暗闇が僕を待っていた。それを追い払う気力もない。ダリューシュとヤジャは寝ているのだろう。僕は二人を起こさないようにそっと自分の部屋に入る。

 ベッドに腰かけ、僕は暗い部屋の中で手にした封筒を見下ろし、その表面をなぞる。目を閉じてその色を思い返す……滑らかな象牙色の紙。封蝋は黒……街灯の下ではそう見えたが、もしかしたら別の色かもしれない。中にはせいぜい紙が一枚入っているくらいの厚みしかない。

 開くことはできない──封蝋が押してあるから、僕が開けたことがばれてしまう。いや、開いてしまって、指示された場所には行かないという手もある。なんだかいわくありげな話だし、これ以上首を突っこまない方がいいのだろう。


 封筒を机の上に放り投げ、僕は服を脱ぎ、トランクスだけになってベッドに横たわる。シーツは空気よりもひんやりとしている。布に寄った襞を一つ一つ伸ばそうとするが、その間にもしわはどんどん増えていく。シーツの隙間には底無しの闇が潜んでいる。僕を捕まえるわけでもなく、僕がそちらへふらふらと足を運ぶのをただ待っている。

 眠気がひっそりとやって来て、僕はそいつを見たくないので目を閉じる。どこかの風景が目の裏に現れ、こわれた耳から水の流れる音が聞こえた。

 自分がなにを見ているのかは分からなかった。僕はそこに行ったことがあるはずだとおぼろげに思った。

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