4. zadzwoń 電話
定刻になると僕たちは着替えて家に帰るか、どこかへ気晴らしに向かう。
僕とダリューシュはたいてい一緒に夕食を食べに行く。でも彼は今日ヤジャに会うので、僕は一人で街に戻って適当なカフェに入る。
カフェはほどほどに混んでいたが、運良く隅の席が空いていた。僕は隅の席が好きだ。たとえ椅子に張られた布が裂け、中綿が抜けていたとしても。
やる気ないウェイトレスが注文を取りに来た。年齢は三十代半ばだろうか。金色の髪はぱさぱさで、アイラインは滲み、口紅の色はけばけばしくて下品だ。目尻と口の横には深い溝が刻まれ、彼女がそう見せたいほど若くはないのだと分かる。僕はオムレツと肉のスープと、水を注文する。
食事を待つ間、僕は煙草に火をつけ、深く息を吸う。ねっとりした煙が肺に触れ、僕の中にシミを作る。そのシミは年々大きくなり、最後に僕はただの真っ黒なシミになるのだろう。
僕は暗いガラスに映った店内を眺める。鏡映は必ずしも現実を映さない……誰もいないはずの席に男が座っていたり、空のグラスにワインが注がれていたり、壁にかけられた時計の時刻が違っていたりする。ダリューシュは気のせいだと言うが、僕にははっきりと見えている。
僕は上を向いて息を吐く。天井から裸の電球がぶら下がっており、表面にうっすらと埃を纏ったガラスの中で細い芯が熱を放っている。あの芯はひたすら焼かれ続け、光を失えば用済みとなる。じりじりと燃える芯がこのガラスの檻から出してくれ、と叫んでいるのが聴こえる。
あのウェイトレスが食事を運んできた。僕は煙草を灰皿に落とす。ここの料理の味はまずまずだ。右端がやや外側に逸れたフォークでオムレツを口に運び、中に包みこまれた芋や玉ねぎをゆっくりと噛み砕く。スープはやや薄味で、肉の量が少ない時もあるが、まあ値段相応だ。
まだ火の残る煙草から立ち上る煙を眺めながら、僕はオムレツとスープを片付けた。
水のコップに手を伸ばすと、それは外側も濡れていた。僕は水を一口飲み、指についた水滴で七つの点を描く。砂時計型の《死神座》。それから心臓の星を拭い去る。星の死まであと半年足らず。
僕は代金とチップを置いて店を出る。
僕はいったんアパートに戻った。ダリューシュとヤジャは帰ってきていなかった。まだ完全に暗くなってはいなかったので、電気はつけなかった。
バスルームに行ったが、バスタブで水に浸かるのは億劫だったのでシャワーだけで済ませることにした。僕は水を出しっぱなしにしたまま、壁や床のタイルに水が当たって跳ね返る音を聴いていた。僕の身体にも水が詰まっている、なにかの拍子に流れ出てしまったら、僕はピンで留められたチョウのようにぺらぺらになるだろうか。僕は靄のような想念を振り払い、蛇口を締めた。
体を拭き再び服を着ると、しばらく自分の部屋のベッドに横になってぼんやりした。閉じたカーテンの隙間から入り込んだ光が、ぼやけた影を作り出す。その影は僕を誘うように踊るが、いったいどこへ連れて行こうというのか。
行く場所はどこにもない……。
どれくらいそうしていたかは分からない。
やがて玄関の方で物音がした。ヤジャを連れたダリューシュが帰って来たのだろう。すっかり暗くなったのか、カーテン越しの光は街灯のものだった。
僕は呻きながら起き上がり、ポケットに煙草と金と鍵を入れて自分の部屋を出た。
居間に行くと、ダリューシュはボトルから水を飲んでいた。ヤジャは彼の腰に腕を回し、頬を彼の背中にくっつけていた。彼女は牝鹿のような目をした華奢で綺麗な女の子だ。ダリューシュはヤジャが好きだし、たぶん彼女もそうだ。
彼女は片腕を解いて僕に手を振った。
「ハロー、ヤツェーク」
「ハロー、ヤジャ」
「元気?」
僕は肩をすくめる。
「君は?」
「良い気分よ」
そう言って彼女はにっこり笑い、髪の毛を耳にかけてから手をダリューシュの腰に戻す。
ダリューシュはボトルを机に置いた。
「出かけるのか?」
「ああ」
「酒場に?」
この時間にやっているのは酒場くらいだろうが、僕は曖昧に肩をすくめた。
「どうかな。気が向いたら」
「飲み過ぎるなよ」
僕は二人に背を向けた。
僕はアパートを出て夜の街を歩く。凸凹の石畳の上を、足を引きずらないように──足を引きずると靴底が減る。
祭のために飾り付けられた街では、前倒しでどんちゃん騒ぎを始めている連中もいる。僕はああいう場が嫌いだ……脳が頭の中で膨張し、逃げ場を失った肺の中の空気が暴れ出す。静脈の中で血液が沸騰し、締めつけられた喉を引き裂いて喚き散らしてしまいそうになる。
どこかの店からギターとアコーディオンの音がする。それから楽しげな笑い声やボトルのぶつかる音も。
僕はそこから遠ざかる。
街灯は煌々と道を照らし、僕の足元からいくつもの影が伸びる。街灯の周りを羽虫や蛾が舞っている。それを見ていると僕は混乱する……なにか思い出してはいけないものを思い出しそうになる。
細い路地に二つの小さな光が見えた。猫の目だ。そいつは明かりの下に出てきても闇を纏ったままだった。猫はピンと尻尾を立てたまま僕の足にじゃれついた。僕はしゃがんでそいつに向かって手を差し出す。猫は僕の手にほんの軽く噛みつき、腕に体をこすりつけた。
僕は猫の背中を撫でる。猫はお座りをしてされるがままだ。僕は猫を優しく扱ったその手で猫を絞め殺すこともできる、だが僕は気が乗らない。殺すのはたいしたことじゃない、だが死体をどうすればいいのか分からないのだ。死んでぐんにゃりとなった毛皮と肉と骨の塊をいったいどうしたらいいのだろう。僕はいつもどうしていいか分からなくなる──死体を見た時は。
僕は猫の耳の間をそっと撫でてから別れを告げる。猫は尻尾をふらりと揺らしてどこかの路地に消える。
僕は恋人の声が聴きたくなる。彼女は遠くにいる──彼女は病院で働いている。
そこは《白い家》と呼ばれている。
僕は
受話器を壊れていない右耳に当てて数秒経つと、電話が繋がり、呼び出し音が何度か響く。
五回目で、受話器を取る音がした。
僕は呼びかける。
「テクラ」
ハロー、ヤツェーンティ。
彼女はそういう言い方をする……はじめの挨拶で、彼女は僕の名前を省略せずに呼ぶ。 彼女にも言われたけれど、ヤツェーンティなんて奇妙な名前だと自分でも思う── ヒヤシンスという意味らしい。弟も
「まだ仕事中?」
そうよ。あなたは?
「とっくに終わった。今、街に出てるんだ──前にも言ったけど、アパートの電話が壊れたからね。明日から祭だから、いつもより騒がしいよ」
ああ、もうそんな季節なのね。こちらではぜんぜん、お祭りの準備をする余裕がなくて。
「そうか」
僕は思い出す──去年の祭りは彼女と一緒だった。彼女は僕と弟の部屋に来て、僕はバスタブに彼女を突き飛ばした。彼女は濡れた髪をかき上げながら危ないじゃない、と言ったが顔は笑っていた。僕は彼女にのしかかりながらキスをした。
彼女は覚えているのだろうか。それともあれは本当は起こらなかったことだろうか。
しばらく、僕たちは黙っていた──少なくとも、僕が小銭を追加しなければならないくらいの長い間、二人ともなにも言わなかった。
「会いたいな」
しばらくは無理ね。人手がぜんぜん足りないの。あなたがこっちに来るなら別だけど。
「難しいな」
正直なところ、僕は自分が本当に彼女に会いたいのかよく分からない。ただ、
僕はテクラの顔を思い出そうとする。彼女の目の色は何色だっただろう……彼女の目の色は青というよりもすみれ色だ、だがその色が思い出せない。
「君、いつもどうやって、僕からの電話だって分かるの?」
こんなところに電話するのなんてあなたくらいだもの──悪いけど、そろそろ戻らなくちゃ。
「じゃあ、また電話するよ」
ええ、アパートの電話が直ったら教えて──またね。
電話が切られる。
僕は受話器を元に戻した後も、しばらく電話ボックスの中から動かなかった。僕は電話ボックスの汚いガラスの中に自分の姿を見る。僕は電球の中の芯のようにじりじりと燃えている。左耳から爆ぜるようなパチパチという雑音が聴こえる。
僕はガラスから目を逸らし、自分の身体を見下ろす。僕は燃えてなどいなかった。左耳の雑音は止まなかった。
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