HERO

あきらっち

第1話

プロローグ


 なってみたかったんだ。

 君だけのヒーローに。


 もしも時間を戻せるならば、願わくはあの日あの時刻に。

 今度こそ君の手を掴んだら放さない――。


 地球は穏やかに緩やかに廻る。

 広大な宇宙から俯瞰したら、縁側であくびをする子猫のように。

 それでも地球のどこかに目を凝らせば戦いの砲火。耳を澄ませば悲鳴と破裂音。

 それは、ぼくらが住むこの街にも――。


ヒーローVS悪魔の調教師(トレーナー)



 青色が濃くなっていく空に、春の終わりを感じさせる。千切れ雲が一つ二つ。思わず深呼吸したくなるような陽気。葉桜が生い茂る並木道の裏通りにひっそりと佇むように、その一軒家はある。赤と白のストライプのシェードと、年季の入った木製の扉。レトロな喫茶店と見間違うような外観であるが、その窓には張り紙がある。

『便利屋――緋色―― 修理・片付け・ペットのお世話 雑用なら何でもします』


「あーあ、今日はヒマね……」

 あくび混じりに女性がつぶやく。三十歳ころだろうか。窓に張り紙を張っているおかげで、外からは室内が見えづらい。それをいいことに、彼女は机の上に両足をだらしなく乗せている。ふんぞり返るように、椅子の背もたれに上半身を預けながら。

「社長。それだったら領収書の整理手伝ってくださいよ」

 二十代半ばの青年が苛立ちを抑えながら女性に向かって言う。肩ががっしりしていて力仕事が得意そうに見える。細かい作業は得意ではないのだろう。「こんなチマチマしたことやってられっか!」とぼやきながら、領収書を台紙に糊付けしている。

「そうですよ、社長。お掃除も手伝ってもらえませんか」

 領収書を整理している青年と歳が近そうな女性が言う。肩にかかる艶のある髪に、上品さを匂わせる風貌。素朴で男気のある「社長」と呼ばれた女性とは対極的だ。しかしながら、モップで床を磨くさまは女性のか弱さを感じさせない力強さがある。

「天気がいいんですし、ビラ配りでもしてきたらどうですか?」

 呆れたように別の男性が言う。大きな観葉植物の鉢を軽々と抱えて、日当たりのいい場所に移している。貫禄のある顎髭。四十にさしかかった頃だろう。この店で一番長く働いているベテランだ。最年長だが体つきは誰よりも逞しく、長年の経験を雄弁に語っている。

「いいのよ、あたしは。従業員を見守るのがあたしの仕事だもん」

 女社長は悪びれもなくスマートフォンにタッチしながら「あ、この靴いいわね」と一人はしゃいでいる。三人は、やれやれといった表情で見合わせる。

「あ、ところでソウくんは?」

 思い出したように女社長は、今ここにいない従業員の名前を呼ぶ。

「ソウくんなら、山田さんのところに行っていますよ。トラブルがなければ、もうそろそろ帰ってくる頃じゃないですか?」

 ベテランの男性が腕時計を見ながら言う。「ふーん」と答えて、またスマホに目を落とす。そのとき。

 ビーッ! ビーッ! ビーッ!

 『五丁目に出没。出動せよ!』

 サイレンの音とアナウンスがけたたましく響く。

 女社長はスマートフォンを取り落としそうになったが、持ちこたえた。慌てるように見えるが、本人は至って冷静で、滑らかな動きで椅子から飛び降りる。部屋の隅の本棚を動かすと、隠された扉が現れた。

 女社長は三人を振り返る。

「ヒーロー。出動するわよ!」

 三人は大きく頷く。「はい!」声を合わせて、扉の向こうへ消えていく。


 緊迫な雰囲気とは裏腹に、日当たりのいい場所に移された観葉植物は気持ちよさそうに葉を揺らしている。




 雑草の汁と土で、白かったはずの軍手は緑と茶色で濁ったマーブル模様を描いている。僕は「う、うーん」と力を入れるように立ち上がった。振り返ると、土がむき出しになった地面と所々に草の丘。

「こんなもんかな」

 僕はミシミシ痛む腰をさする。かれこれ一時間以上も同じ体勢で草むしりをしていたから無理もない。

「お疲れさん」

 背後から声がして、僕は振り返る。しかめっ面した八十歳近いおばあちゃんが窓から顔を出している。

「あ、山田さん。これでどうでしょうか?」

 山田さんは、庭をゆっくりと一瞥する。

「ふん、なかなか上出来じゃない?」

 それだけ言うと、また部屋の中に引っ込んでしまった。僕は山田さんに聞こえるように、大声で「ありがとうございます」と答えて、丘になった草をビニール袋に詰めていく。全部詰めると、ビニール袋はパンパンに膨らんで、ずっしりと重い。また山田さんが窓から顔を出す。その手にはお盆を持っている。

「ほら、これでも食べておいき」

 草餅と温かいお茶だ。

「ありがとうございます。いただきます」

 僕は軍手を外して、庭の隅の蛇口を借りて手を洗う。小振りな草餅を手に取ると、太陽の光に翡翠色が輝く。それにかぶりつくと、草原で走り回るような爽やかな香りが鼻を抜ける。そして口の中であんこがプチプチ弾ける。きっと手作りなのだろう。そしてお茶を一口。あんこの甘みとお茶の渋みが口の中で鮮やかなマーブル模様を描く。

「美味しいです。すごく美味しいです」

 僕は山田さんを振り返る。

「ふん! そうかい? それはよかったねえ」

 相変わらずしかめっ面でぶっきらぼうに言うけれど、わずかに広角が持ち上がったのを僕は見逃さなかった。他のスタッフは、山田さんは気難しくて手に負えないと言うけれど、こんなに分かりやすい人もいないのに、と僕は思う。

 空を見上げると透き通るような青空に、鳥のシルエットが弧を描いていた。あれはなんだろう、ヒバリだろうか? 今日は平和だなぁ。僕は空に向かってほほえんだ。

 もう一口、草餅を口に運ぼうとしたら、腕時計が振動した。一転、不穏な予感が僕を包む。一見なんの変哲もない腕時計だけど、実は特注品で、通話機能もついている。もちろんこのことは便利屋のスタッフ以外は誰も知らない。僕は山田さんに気づかれないように、腕時計を耳に当てる。リーダーの声だ。

『五丁目に向かって!』

 予感的中だ……。僕は腕時計を口元に持っていく。

『了解。ただいま山田さんの依頼が終わり、これより向かいます』

 僕は残りの草餅を味わう余裕もなく口の中に押し込んで、お茶で流し込んだ。こんなに美味しいのに、もっとゆっくり味わいたかったよ。

 僕は「ありがとうございます。おいしかったです」と言いながら、ウェストポーチから請求書とペンを取りだして、二時間分の作業費を書き込む。それを湯呑みと一緒にお盆に置く。

「……お代は一週間以内にお願いします」

 費用を請求するのに少し緊張してしまうのは僕がまだ新人だからだろうか。

「はいよ! ミドリヤマくん。お疲れさん」

「僕はミドリヤマじゃなくて、緑川です」

 僕の抗議は聞こえなかったのか、山田さんは慣れたように請求金額をちらっと見て部屋の奥に戻っていった。なにはともあれ、これで山田さんからの依頼は完了だ。僕は草の入ったビニール袋とリュックサックを背負って山田さんの家を出る。


 僕は緑川爽(みどりかわそう)。職場のスタッフや恋人からは「ソウくん」と呼ばれている。大学を卒業して、ここの便利屋に就職してまだ一ヶ月の新人だ。便利屋で働くことになるなんて自分でも予想しなかったことだ。まだまだできることは少なくて、簡単な雑用、今日みたいな草むしりとかばかりやっている。決して器用とはいえない僕が便利屋で働いていいのかと思うこともあった。社長にポロリと不安を漏らしたら「あら、草むしりだって立派な仕事よ。依頼されたことは誰かがやらなきゃいけないんだから、ソウくんにやってもらって助かってるわ」という言葉が今の心の支えになっている。


 それより、どこで着替えよう。山田さんの家は三丁目。リーダーの言葉を思い出す。『三丁目なら、つぶれた商店の裏道に小さな公園があるのよ。そこならあまり人も来ないわ』。僕はまだこの街をよく分かっていない。僕はとりあえずつぶれた商店を探す。それはすぐに見つかった。シャッターが閉まって壊れ掛けた看板。もとはなにを売っていたのだろうか。なんて、余計なことを考えていたらリーダーに怒られそうな気がして、慌てて裏道に入る。この先には確かに公園があった。

 ブランコと小高い丘がある公園。時間もあるのだろうが本当に誰もいない。あの丘の陰なら人目もつかず着替えられそうだ。

 リュックサックから緑色の服を取り出す。これが僕らのヒーロースーツ。手早く便利屋のユニフォームを脱いで、スーツに着替える。手袋、ブーツを身につける。リュックサックはカモフラージュ用の草葉色の袋に包んで、草が茂っているところに置く。近くで見ても、周りの草に紛れて見分けがつかない。これなら見つからないだろう。そして緑色のヘルメットを被る。

「ヒーローグリーン。出動します!」

 僕は誰に聞かせるわけでもないのに、はっきり言った。


 特別な素材で作られたヒーロースーツは身体能力を最大限に高める効果がある。僕は、自分でも信じられないくらいのスピードで公園を抜け出し、住宅街を駆け抜けた。しかし、僕はここで大きなヘマをしていた……。




 街行く人の叫び声。誰もが私から遠ざかる。青ざめた顔で小さな子を抱きしめる親。遠巻きに耳打ちし合う女学生。ふふふ、そうだ。もっとおびえるがいい。私は手にした鞭を振り落とす。

 ピシィッ!

 砂利を弾き飛ばして、高い音が青空に吸い込まれる。人々は息を呑んで、さらに遠ざかる。背中を向けて逃げ出す人影もある。

「クククッ」

 私は低く笑って、手下の頭を撫でる。子どものゴリラだ。子どもとはいえ、その腕力は確かなものだ。

「さあ、キング。思い切り暴れるがいい」

 私はキングの足下で鞭を打ちならす。その音を合図に、キングが叫ぶ。

「ウガーッ!」

 キングは駆けだして、遠巻きに見ている人の群に近づく。そして、アスファルトに向かって、拳を振り落とす。

 ボコッ!

 鈍い音がして、アスファルトにひびが入る。キングは、コンクリートやアスファルトを打ち砕くくらい造作もない。私の特訓の賜だ。

 辺りが悲鳴と叫び声に包まれる。ふふふ……、そうだキング、じわじわと追いつめてやるのだ。

「さあ、キング。もっと破壊してやれ!」

 私はもう一度、鞭を鞭を振り下ろそうとした。そのとき。

「やめなさい!」

 背後から、突き刺さるような大声。振り返らずとも分かる。私は、被っていたシルクハットを整え直す。

「ククッ……。どうやらヒーローのお出ましのようですね」

 私はゆっくり振り返る。レッド、ライトブルー、オレンジ、ピンク。色の異なるヒーロースーツをまとった人影が目に入る。そしてヒーロースーツと同色のヘルメットを被っているから、彼らの素顔は分からない。そして私もサングラスで素顔を隠している。

 人影は四つ。今日はグリーンがいないようだ。私には関係ないことだ。私がやるべきことはただ一つ。

「私の邪魔をするのであれば容赦はしませんよ?」

 私は静かにゆっくり言う。大声を張り上げるより、相手に恐怖感を与えられる。実際に、ヒーローたちは、ひるんだ様子を見せる。

「こ、これ以上、あんたの好きにさせるもんですか」

 レッドが声を張り上げる。口調と体型から女性なのは分かる。彼女がリーダーのようだ。まあ、女だろうが男だろうが私にはどうでもいいことだ。

「そうですか」

 私は鞭で軽く地面を二回叩く。ピシピシ。その音でキングが私の横に駆け寄ってくる。

「さあ、キング。ヒーローを退治してやりなさい」

 ピシャッ!

「ウギャーッ!」

 ひときわ強く打ち鳴らした鞭の音と同時に、キングが咆哮を上げて、ヒーローたちに突進していく。


「キャー!」

「グワッ!」

「イデーッ!」

ライトブルー、オレンジ、ピンクの順番に、キングの一撃が炸裂する。まだ本気の半分は出していないはずだ。それでもキングの拳は重い。ヒーローたちは地面にひざまずく。

「おやおや。先ほどまでの威勢はどうしたのですか?」

 私はほくそ笑みながら、鞭を二回地面に打つ。再びキングが私の横に戻る。キングの頭を優しくなでる。よしよし、キングよ、いい子だね。キングは嬉しそうに私の足にすり寄る。

「み、みんな。大丈夫? しっかりして!」

 レッドは仲間たちに声をかけている。ふふふ。ヒーローなど、私の足下にも及ばない。だが、あっさり倒してしまうのも芸がない。じわじわとなぶり倒してあげましょう。

 レッドは、私を睨みつける。いや、ヘルメットをかぶっているから、目線など分からないが、眼力は確かに感じる。

「よくもやってくれたわね! あたしが相手よ!」

 くくく。やはりリーダーはこうでなければ面白くない。私は、地面を一回強く打ちならす。

「うぎっ」

 キングは、拳を軽く地面につける。臨戦態勢に入ったようだ。

「さあ、キング。レッドを倒せ。私たちの強さを見せつけてやるのだ」

 私は鞭をレッドに向ける。

「ウガーッ!」

 キングはレッドをめがけて駆けだした。


「くっ……」

 レッドは、腕を胸の前で交差させて、キングの攻撃を防いでいる。さすがリーダー格だ。そうそう簡単にはやられないようだ。しかし、連続で繰り出されるパンチをいつまでも受け止められないだろう。そう、ゆっくり体力を消耗させて、一瞬の隙を狙って、とどめの渾身の一撃を食らわせてやるのだ。くくく……。ヒーローよ、覚悟するがいい。

 じりっ、じりっ……。力負けしているのか、レッドは打撃を防ぎながらも、少しずつ後退していく。よし、今こそとどめだ! 私は、リズミカルに三回鞭で地面を打つ。

 ピシャーン、ピシッ、ピシッ!

 キングが大きく腕を振り上げる。さあ、ヒーローよ、覚悟しろ!

 そのときだ。どこからか足音が近づいてくる。

「お待たせしました! グリーン出動です!」

 振り返ると、ものすごいスピードで、グリーンのヒーロースーツをまとった人影が迫ってくる。




 五丁目に向かって駆けていると、子どもたちの声が耳に入ってきた。

「あ、緑色のサンタさんだ」

「違うだろ、ドロボーだろ?」

 思わず僕はずっこけそうになる。どうして、ドロボーなんだよ?

 大通りに面したショーケースをちらっと見る。グリーンのヒーロースーツを着た僕の姿が映る。そして……。ようやく子どもたちが言った意味が分かった。

 さっきまで、山田さんちの庭で草むしりをして、むしった草をビニール袋がパンパンになるまで詰め込んだ。そして、今、そのビニール袋を肩に掛けているのだ。

 わーっ! わーっ! なんでこんなの持ってきちゃったんだよ。恥ずかしいよー。確かに、この姿はドロボーみたいだ。かといって、そこら辺に捨てていくわけにはいかない。ヒーローにはモラルも重要なんだ。ゴミをポイ捨てするなんてあり得ない。仕方ない、このまま持っていくしかない。僕は恥ずかしさを打ち消すように、さらに加速した。


 ひたすら全力疾走して息が切れそうだ。

 ようやく五丁目の交差点に出てきた。

 ドーナツ上になった人だかりの中央には、地面に膝やお尻をついている仲間たち。

 紫色のシルクハットに黒色のストライプのドレスシャツ、紫色のベスト。サングラスをかけて鼻の下に髭を生やしている男、その手には鞭を持っている。悪魔の調教師(トレーナー)と呼ばれている、この街の平和を脅かすものだ。そして僕たちが向かい合う敵でもある。

 そして、ゴリラの攻撃を防いでいるリーダーの姿。

 何があったのかは分からないけれど、僕たちヒーロー側がピンチなのは間違いない。

 僕はさらに足に力を込める。そして、ゴリラに向かって駆ける。ゴリラは今ちょうど、リーダーに向かって太い腕を振り上げている。危ない!

「お待たせしました! グリーン出動です!」

僕が叫ぶと、ゴリラが驚いて動きが止まる。その隙をついて、ゴリラとの間合いを詰める。

「こらっ! おとなしくしろ!」

 僕は、手にしていたビニール袋を思い切り振り抜く。

 ボコン!

 柔らかくも鈍い音がする。その手には確かな感触があった。

 一瞬時間が止まった気がした。

「……ウギッ」

 ゴリラが叫ぶと、きびすを返して悪魔の調教師に抱きつく。

「ウギー。ウギー」

 その様子は、転んだ幼子が母親にすがって泣きじゃくる姿にも似ている。平和のために戦っているはずなのに、こちらが悪いことをしたみたいで、胸がチクンと痛んだ。

 ぴしっ!

 悪魔の調教師が、鞭を振りおろして地面を叩いた。僕は我に返って、反射的に身構えた。彼はそっとゴリラを抱きしめ返して、僕らを見据える。サングラスが冷たく光る。

「不意打ちとは卑怯な奴らだな……。まあいい、今日はこれで勘弁してやる」

 悪魔の調教師は、背中を向けて、ゴリラと一緒に駆けだした。そして、群衆に向かって鞭を振りかざす。たちまち、一口かじったドーナツのように、群衆が割れる。彼らはその隙間から抜け出していく。去り際に、彼は振り返って、ニヤッと笑った。それはあまりにも冷酷な笑みだった。僕は悪魔に背筋を撫でられたかのように、ぞくっと身震いする。

「次こそは覚悟してろよ!」

 悪魔の調教師はそう言い残して、今度こそ人混みの中に消えていった……。

 戦いが終わったの知ると、群衆は興味を失ったかのように三々五々散らばっていった。


 僕は、草が詰まったビニール袋を地面に置いた。まさか、これが役に立つなんて思わなかった。怪我の功名とはこのことだろうか。まだヒーローになって一ヶ月足らずの僕が、敵に一撃を与えられるなんて。手が熱くなってジンジン痺れていく気がした。

「やれやれ、危機一髪だったわ」

 不意に、背後からのつぶやきが、僕の思考を遮った。僕は振り返った。声の主は赤いヒーロースーツ。僕らのリーダーだ。そして、その正体は便利屋の社長でもある。

「まったくだ」

 ピンクのヒーロースーツが続く。ピンクだけれど、筋骨隆々の男性だと一目で分かる。

「……いてて」

 ゴリラから一撃を受けたのか、ヘルメットの上から頭をさすっているオレンジのヒーロースーツ。

「危ないところでしたね」

 ライトブルーのヒーロースーツ。膝を払っているだけなのに、その動作が優雅に映る。胸のふくらみが女性だと告げている。

 ともに悪魔の調教師と戦う仲間であり、その正体は僕が働く便利屋の先輩たちだ。ピンチだったみたいだけど、たいした怪我もしていないようでホッとした。

「やりましたね。今日は僕たちの勝利ですよね」

 僕は声を弾ませて、仲間たちにガッツポーズをした。

 けれど、みんな機嫌悪そうに僕を見据える。

 そして、僕を取り囲み始めた。えっ? なに? この雰囲気は?

「新人のくせに……」

「遅れてきたうえに……」

「美味しいところを独り占めするとは……」

 みんなの背後に、メラメラと炎が揺らめいているのが見えた。

「許さん!」

 四方からパンチが繰り出される。ヒーロースーツを着ているから衝撃が緩和されているけれど、殴られている衝撃は感じるよ!

 うわっ! ちょっと! 痛いよー!

 ようやくパンチの雨が止んだけれど、僕は尻もちをついたまま、呆然としてしまった。

「あー、スッキリした!」

 リーダーが気持ちよさそうに伸びをする。

 味方なのにひどいよー! うわーん!

 僕は心の中で泣き叫んでしまった。

 声にならない悲鳴は、見上げた雲の中に消えていった……。


「さてと。なにはともあれ、今日は勝ったことだし、遊びに行きましょう!」

 リーダーが拳を突き上げる。

「さんせーい!」

 オレンジがノリノリで手を挙げる。

「駅前に新しいカフェができたんですよ」

「それより一杯やりたいですね」

 みんな好き勝手言いながら歩き出す。

 ちょ、ちょっと。その格好で出かけるつもりですか? それより、まだ便利屋の営業時間が終わっていないでしょうが。というか、誰も店番していないんですか?

 僕は、仲間に向かって、これでもかってほどにつっこんだよ。

 ヒーローがこんなにだらしなくていいの?

 僕が新人だからそう思うのかもしれないけれど、イメージしていたヒーロー像とは全然違うよ……。僕は、ここでやっていけるのかなあ?


 ……そのころ、便利屋の静かな店内には電話の音が鳴り響いていた。

「お仕事を頼みたいのに、誰も出ないってどういうこと?」

電話の主は、あきれながら受話器を置いた……。




 アジトの入り口にたどり着く頃には、空の青色が薄くなって、白く脱色されたようだった。まもなく、ビル街の向こうからオレンジ色が滲みだしてくるだろう。

 私はキングと一緒に地下に続く階段を静かに下りる。


 重々しい金属の扉を開けると、正面のコンクリートの壁には満開の桜並木が描かれている。正面の壁だけを見れば春の公園に迷い込んだ感覚になる。空調機からの人工の風に春の息吹を感じられるようだ。ほのかに甘い香りをはらんだ桜吹雪が身体を吹き抜ける。そんな気がした。

 そして、右側には夏の風景、左側には秋の風景。もちろん背後は冬の風景が、それぞれ描かれている。

 床には人工芝。本当は天然の土や植物を敷き詰めたかったけれど、地下の小部屋では植物が生き生きと育ってくれなかった。けれど、コンクリートの地面よりは心地良いみたいで、手下たちが人工芝に寝そべっている。

 そして天井は、LEDライトで、時間ごとに色を変えている。さながら本物の空のように。夜にはプラネタリウムで満天の星空を。そして今は、天井には夕暮れが迫りくるように、オレンジ色が広がり始めている。

 こんなアジトを作ったのも、地下に閉じこめている手下たちに、せめて気分だけでも大自然の中で過ごしてほしいからだ。


 私はシルクハットを壁のフックにかける。鼻の下の付け髭をはがす。そして、サングラスを外した。

 サングラスを外した瞬間に「私」から「ボク」へ変わるのだ。

 ボクは、サングラスと付け髭を、小部屋の隅にある机の引き出しにしまった。

 机の上には小さなスタンドミラー。穏やかなボクの微笑みが映し出される。けれど、その微笑みの下には、私の高笑いが潜んでいるのだ。


「キング。ケガの具合を診るから、こっちにおいで」

 ボクはキングに呼びかけた。キングは飛び跳ねるように、ボクに近づく。

 キングの頭を見る。殴られたところはわずかにタンコブになっているけれど、たいしたことはなさそうだ。

「うぎぃ……」

 キングが不安そうにボクを見上げる。

「すぐに治るから大丈夫だよ」

 ボクはキングに優しく語りかけて、タンコブに薬を塗る。

「ほら、もう痛くないよね?」

「ウギッ」

 キングは嬉しそうにボクに飛びかかる。ボクは反射的に抱きとめた。子どもとはいえ、ゴリラ。力強いし重い。

「おっとっと!」

 ボクはよろけて尻もちをつきそうになる。危ない!

「ぶきーっ」

 お尻の下に何かが滑り込んで、人工芝が敷いてあるとはいえ、堅い床に直撃せずにすんだ。ぷにっと柔らかく温かい。ピギーだ。淡いピンクの毛並みが鮮やかなブタだ。

「ピギー! 助かったけれど、大丈夫?」

 ピギーは得意そうな顔でボクを見上げる。ブタなのに惚れ惚れするかっこよさだ。

 ボクは床に座り直して、片手でキングを抱きしめて、片手でピギーをなでる。ほかの手下も、ボクらをうらやましそうに見ている。

「みんなもおいでよ!」

 ボクが呼びかけると、あぐらの上に、白と黒のブチ模様のウサギが乗っかってくる。ラビだ。背中からよじ登って、バランスよく頭に乗ってくる、オレンジと茶色のトラ模様のネコ。ニャン太だ。

 ボクの愛しい手下たち。そして、この世界をボクのものにするために、共に戦ってくれる頼もしい仲間だ。

 ひとしきり手下たちを代わる代わるなでた。

「みんな。そろそろご飯にしようか」

 手下たちは催促するように飛び跳ねたり、すり寄ってくる。今日もみんな元気でよろしい。

 キャビネットから、手下たちそれぞれのご飯を出して、皿に盛る。

「しっかり食べるんだよ」

 みんな夢中でごはんを頬張る。

「そして、今度こそヒーローたちを倒すぞ!」

 ボクは拳を手下たちに突き出す。

「ウギッ」「ブキッ」「ニャッ」「キキッ」

 手下たちが一斉に答えた。本当に頼もしいな。ボクはみんなに優しい笑顔を向ける。

 ……しかし、スタンドミラーには悪魔のほくそ笑みが映し出されていたのを、ボクは知らなかった。


 お腹一杯になって満足したのだろう。みんなウトウトしだした。

 ボクもお腹すいたし、そろそろ帰ることにしよう。

「じゃあ、みんな。ゆっくり休むんだよ」

 キングが寂しそうにボクを見る。ボクはキングの頭をなでて「おやすみ」と言って、ドアを出る。

 空はすっかり暗くなって、半月が中空に浮かんでいた。


 歩いて十分。ボクの部屋があるマンションの前に着いた。見上げると、ボクの部屋に明かりが点っている。愛しい人が先に帰ってきているようだ。ボクは足を早めてエントランスに入る。築年数が古いマンションだからオートロックではない。エレベーターで四階に上る。

 ドアを開けると、優しい光が漏れ出す。

「ただいま。ソウくん」

「おかえりなさい。コウタさん」

 ソウくん。ボクの恋人だ。彼はリビングでテレビを見ていた。ニュースが放送されているようだ。

『本日は赤橋市で悪魔の調教師が暴れ出しました。ヒーローの活躍で撃退された模様です』

 キャスターが機械的に原稿を読み上げている。通行人が撮っていたのだろう、ヒーローグリーンがキングに一撃をくらわせているところが映し出された。

 もう一度キングが殴られたような錯覚を起こして、テレビを叩き壊したい衝動に襲われたけれど、必死で舌を噛んで耐えた。

 平然を装わなければならない。ソウくんにも誰にも感づかれてはいけない。ボクの悪魔の計画を達成するまでは。

 ソウくんはこの手の話題に興味があるみたいで、しょっちゅうニュースを見ている。けれど、ボクはそんなニュースなど見たくもない。だから、ソウくんともほとんど話題にしない。ボクはニュースに目もくれないそぶりで、ソウくんに話しかける。

「ごめんね。遅くなっちゃって」

「ううん。僕も帰ってきたばかりだから」

 とは言っているけれど、コンロに置かれている鍋から美味しそうな匂いが漂っている。もっと早くに帰ってきて、ご飯を作って待っていてくれたんだろう。

 ボクはキングたちにしたように、ソウくんをそっと抱きしめる。頭をなでると、タンコブがあることに気づいた。なんでソウくんまで?

「ソウくん、どうしたの? このタンコブ」

「これ? えっと……。仕事でヘマをしたというか……。社長に怒られたというか……」

 ソウくんは、この街の便利屋で働いている。昨年まで県外の大学に通っていたけれど、大学を卒業して便利屋に就職したそうだ。ちょうどその頃に、ボクとソウくんが付き合い始めた。ソウくんが通勤しやすいし、家賃も折半できるという理由で、一緒に暮らすことにしたのだ。

 ソウくんが働く便利屋には何度かお世話になっている。あの社長は仕事はできるみたいだけれど、ちょっときつそうな女性だとボクは思っていた。ソウくんがどういう仕事をしているのか知らないけれど、たまにケガをして帰ってくることがある。心配だけれど、ソウくんはやりがいを持って働いているみたいだから、ボクには何も言えない。

 何があったかは、あまり追及しない方がいいみたいだ。ボクも、ボクがやっていることを深追いされたくないし。

 せめて、ボクができることはソウくんを癒すこと。

「気をつけなきゃダメじゃないか。たまにケガしてくるし」

「……うん。心配かけてごめん」

 ボクはソウくんのタンコブをじっくり診る。

「ボクは動物は治せるけれど、人間は専門外なんだから。……診たところたいしたことないと思うけれど、髪を洗うときとかあまり強く押さないようにね」

「うん。ありがとう!」

 ソウくんが無邪気に笑う。この笑顔が大好きだ。

「まあ、このくらいでへこたれる僕じゃないよ。それよりコウタさん。お腹すいたから、ご飯にしようよ」

 ソウくんのお腹がぐーっと鳴る。ボクもつられて鳴りそうだ。ボクは「そうだね」と頷いた。

「ご飯盛るから、ちょっと待ってて」

 ソウくんは台所に向かった。ボクも自分の部屋に入って、着替えた。

 リビングに戻ると、肉じゃがにおひたし、ご飯と味噌汁。健康的な料理が並んでいた。

「いただきます!」

 命に感謝する気持ちでしっかり手を合わせた。

 味がしみていておいしい。

「今日も一緒にご飯が食べられて。平和っていいよね」

 ソウくんがご飯を頬張りながら言う。

「そうだね。ずっとこんな日を続けていきたいね」

 ボクはジャガイモを口に運ぶ。そして、何度もかみしめる……。




 オレンジ色に染まりかけた空に足音が響きわたる。

「ヒーロー。出動!」

 性懲りもなく私の前にヒーローどもが立ちふさがる。

「フフフ……。お出ましですね。ヒーロー諸君」

 私は鞭を振るった。

「今日こそ決着よ!」

 リーダーが決めポーズしながら叫ぶ。

「望むところだ。さあ、ゆけ。ニャン太!」

 私は鞭を地面に叩きつけた。その音と共に、ニャン太がヒーローどもに飛びかかる。


 私たちの戦いはまだ終わらない。

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