第20話「獣避け」

「それでは、新しい魔導具の名前は〈浸魔の鱗粉〉で決定します」

「異議なし」

「異議なし、です」

「異議なーし」

「異議ありっ!」

「うぅ、異議ありですわ!」

「賛成多数ということで、確定致します。以上で命名討議は終了です。これ以降あらゆる進言を受け付けません」


 採決を執り、リツは毅然とした態度で宣言する。

 ノアが頬を膨らませ拳を上げ、テナが納得いかないと唇を尖らせているが、彼女はそれらを冷たい視線で封殺した。

 テーブルの上には山ほどの紙が散乱し、そこに書かれた様々な名前達が討議の凄惨さを何よりも鮮やかに物語っていた。


「それじゃあリツさん、ボクたちはそろそろ迷宮に行くよ」


 よろよろと椅子から立ち上がり、カリュは隣で突っ伏しているルカの肩を掴む。

 朝から波乱に満ちていたが、彼女達にとってはこれからの予定の方がメインイベントにあたる。ルースもそれを思いだして、慌てて立ち上がった。


「わたくしはもう少しここにいます。ノアさんとは是非色々とお話ししたいのです」

「いいよ! わたしもテナと話してるとインスピレーションが湧きそうだし!」


 激論を交わしたこともすっぱりと忘れ、テナとノアは早速新たな談義に盛り上がる。

 彼女達に新しい紅茶を入れながら、リツはカリュ達に恭しく頭を下げた。


「早朝から巻き込んでしまい、申し訳ありませんでした」

「いやいや。ルカも楽しかったからいいよー」

「ボクも迷宮前に少しリラックスできたので」


 二人が首を振って笑みを浮かべると、リツは目を細める。


「そう言って頂けると幸いです。――どうかお気を付けて」

「はい。じゃあ、行ってきます」


 真鍮のドアノブに手を掛けて、カリュが尻尾を一度振る。

 リツは細い手を振って彼女達を見送り、後ろで次第に議論を白熱させている主人達の気配に小さくため息をついた。



「今日も眠り猪の観察でいいんだよね」

「はい。その自発的覚醒を見るか、もしくは一切見られないか、どちらでも収穫にはなりますが」


 朝のピークを少し過ぎ、探索者達の姿も疎らになった白草通りを歩きつつ、カリュはルースと依頼内容の確認をする。

 平時ならこんな時間にはすでにめぼしい依頼は取り尽くされて意気消沈している所だが、今回は少し事情が違う。何せカリュ達には昨日に引き続き依頼がすでに確保できているのだ。


「とにかく数日間は様子を見ないことには、何も書けませんので」


 彼女達の依頼主であるルースはそう言って、今日こそ頑張りましょうと拳を握る。

 とはいえ、基本的にカリュ達がやることは昨日と同じだ。非戦闘員であるルースを守りつつ第三階層へと向かい、そこで眠り猪の観察を助ける。

 前回は派手に音を立ててしまった為に撤退を余儀なくされたため、今回はそこに対策を講じる必要があった。


「とはいえ魔導具なんて買えないし、結局は具合のいい"巣"を見つけるくらいしか方法がないよね」


 ルカががっくりと項垂れて言う。しかし彼女の意見はもっともだった。

 カリュ達に財力という心強い味方があれば、足音を消す靴のような魔導具を揃えることもできたかもしれない。仮にそれがあれば、調査は格段にやりやすくなるだろう。

 しかし現実は非情である。

 ルカは昨日新たな魔法を購入してしまったし、カリュもテナに新しい剣の話を持ち込んでしまった。むしろ二人の懐は物寂しく、よりいっそうの倹約に努める必要すらある。


「あの、その件で一つ相談したいことがあるんですが」


 そこへ、ルースが遠慮がちに手を上げる。

 カリュ達が首を傾げると、彼女は肩に掛けていた大きなバッグのフラップを開き、中からガラスの小瓶を取りだした。透明の瓶の中には濃緑色の液体が詰まっていて、細い口はコルクと蝋燭で厳重に閉じられている。

 彼女はそれをそっと持ち、落とさないように慎重に掲げた。


「これは?」

「うっ」


 きょとんとするルカの隣で、カリュが顔を顰めて鼻先を両手で押さえる。彼女は尻尾をぼふんと膨らませると、カサカサと機敏に後退ってルースから距離を取った。


「す、すみません。カリュさんにはこの状態でもキツいみたいですね」

「ふぎゅ……。しょ、しょれ……しゅごい臭い……」


 ルースは慌てて鞄の中に小瓶をしまい、ペコペコと謝罪する。

 カリュは黒い瞳に涙を浮かべグズグズと鼻を鳴らした。


「えっと、どうしたの? ルカには何にも感じないんだけど……」


 一人取り残された形のルカがおろおろと左右の顔を見比べながら問う。


「獣避けの酷い臭いだよ。多分犬泣き草も入ってる」

「うげ、それはまた災難だったね」


 涙を拭いながら言うカリュの言葉を聞いて、ルカが同情の目を向けた。

 獣避けというのは旅人達が移動中に携行する小さな袋のことだった。中には強烈な臭いを発する様々な草や木の実、腐らせた魚の肝などが調合されたものが入っている。その激臭が獣を遠ざけ、旅の安全を呼び寄せるという、実用的なお守りである。

 大抵の旅人は内容物の調合こそ異なるものの、このような獣避けを携行しているのだが、カリュのような灰狼族グルフをはじめとした匂いに敏感な種族は自分にも弊害が来るため持っていないことが多かった。

 特に犬泣き草という薬草は、磨りつぶした汁がイヌの嗅覚に直撃し泣き叫ぶという逸話を持つ、カリュにとっては魔王殺しの剣にも勝る劇物だった。


「すみません。そこまで考えが至らず……」

「いや、突然だったからちょっとびっくりしただけ。うん、大丈夫だよ」


 肩を縮めて小さくなるルースを見て、カリュは首を振る。

 何の前触れもなく突然鼻の奥を刺激臭が貫いたため驚いてしまったが、事前に覚悟を決めれば開封されていない瓶から漂う程度は我慢できた。


「それで、その獣避けをどうするの?」

「これを眠り猪の近くに垂らして、起きるかどうかを試してみたかったんですが」


 そう言ってルースはカリュの方をチラリと覗く。

 まだ鼻の奥に残っているのか、彼女はポーチからハンカチを取り出して擦っている。


「カリュさんがあの様子では、とてもできないと思います……」

「たしかにちょっと厳しいかもね」


 残念そうに言葉を切るルース。しかしこればかりは仕方が無かった。

 このパーティの殿は間違い無くカリュであり、そうでなくとも二人しか戦力のない中でそのうち一本の柱を折るわけにはいかない。


「――いや、大丈夫」


 諦めて次の対策を絞り出そうとルースが悩み始めた時、カリュが口を開く。

 驚いて彼女が顔を上げると、そこにはハンカチで口元を覆ったカリュが腕を組んで立っていた。黒いハンカチを頭の後ろで結び顔の半分を隠した姿は、その軽装も相まって盗賊シーフのようにも見える。


「ええっと、それは……?」

「マスクだよ!」


 ばばーん、と胸を張って言うカリュ。

 ルースは唖然としてもう一度しげしげと彼女の顔を見た。


「えっと、それで大丈夫なんでしょうか」

「このハンカチ、ちょっとだけハーブの匂いが染みこんでるんだ。だからこうやって覆っておけば多分大丈夫」

「そういうものなんですか?」


 楽観的な言葉を述べるカリュに、ルースは半信半疑の目を送る。

 自分の意思を尊重するために彼女が無理をしていないか、心配だった。


「ていうかカリュ、そんなので覆ってて索敵はできるの?」

「うぐっ。そこはほら、気合いで……」

「なんとかなってたら、獣避けの匂いがなんともならないでしょ」


 ルカの冷静な指摘にカリュはたじろぐ。

 いつもはどちらかと言えばトラブルメーカーな気質のルカだが、彼女も付き合いの長いカリュに対してはエルフらしい落ち着いた側面を見せることがあった。


「カリュの鼻が命綱なんだから、それをなくしちゃだめでしょ」

「でもルースの実験は……」

「自分の案はあくまで迷宮の事を何も知らない素人の意見ですから。迷宮の中のことは専門家であるお二人に従います」

「ほら、ルースもああいってるしね」


 腰に手を当て諭すように言うルカに、カリュはぺしょりと耳を寝かせて頷く。

 小柄なルカと大柄なカリュが並ぶ様子は姉妹のようだったが、今回ばかりはその関係も逆転しているように見える。


「ルース、他には何か考えてる?」


 すっかりしょげてしまったカリュの方から振り向き、ルカが尋ねる。

 ルースは少し考えた後、


「一応、あと一つだけ……」


 そう控えめに口を開いた。

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魔導具工房〈影猫堂〉のゆるやかな日々 ベニサンゴ @Redcoral

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