白花踊獣

月庭一花

しろいはなとけものはおどる

 左腕、ですか? とわたしは訊ねました。

 熊人クマビトの男は首肯し、荒布に巻かれたつつみをわたしに差し出しました。おずおずと剥いで見ると、それは肩口から外し取られた人族ひとぞくらしき女の腕でした。桜貝のような薄桃色の小さな爪が指先に五つ、静かに光っておりました。

氈鹿人カモシカビト薬師くすし殿。ここを見てくださいませ」

 男が鋭い爪の先で指し示す女の腕の付根つけねには、何やら細々こまごまとした血の管のような……。

「いや、……これは木の根、でしょうか」

「ふむ。やはり薬師殿にもそう見えますか」

 腕に触れると温もりを感じます。肌理きめや血色も良く、生きているとしか思われません。

 わたしは首を傾げました。腕はこの根で滋養を得ているのでしょうか。植物のように?

「それで、どこでこれを見つけたのですか」

「御神木の傍らに捨てられていたそうです」

 一瞬、冷たい風が吹き抜けていきました。

「人族がここまで山奥に踏み入るとは考えにくく、放置されていた場所も場所であれば、これは不吉だ、山神様からの凶兆の託宣ではないかと噂する者もおりまして。それで……」

「それでわたしに調べて欲しい、と?」

 熊人の男はうなり、首を再び縦にしたのです。

 わたしは一度その腕を預かることにし、寝屋のほらへと戻りました。入口から見晴るかす山々はすでに紅葉も終え、後は初雪を待つばかり。本格的な冬の到来を目の前にしてこのような不可思議な出来事など……唯でさえ秋の実りも少なかったというのに……山に住まう者達には何とも頭の痛い話となりました。

 時折山神様はこのようなことをなさいます。単なるお戯れであれば良いのですが……。

 わたしの胡乱あやふやな不安を読んだのか、胸に抱いた腕の指先がぴくりと動きました。わたしは赤子をあやすように腕をそっと抱きながら、さて、どうしたものかと思案に暮れました。

 ……その日の夜。不思議な夢を見ました。

 気づくと墓碑のような形の、巨大な建物に囲まれていたのです。それは天に届くまでに高く、見上げると首が痛くなるほど。ぐるりは陽の光を受けて、玻璃はりの如く輝いております。

 それに足元のこのいしだたみときたら。のっぺりしていて黒くて、おののきを禁じ得ませんでした。

 季節は春だと思います。等間隔に植えられた林檎りんごの樹が、白い花を咲かせておりますゆえ

 でも。ここは……一体どこなのでしょう。

 山中ではないことは確かです。わたしはゆっくりと歩き始めました。ひづめが地面を打つ音だけがカツカツと響いておりました。ふと、何かが視界を掠めて、思わず足を止めました。

 建屋の隙間のその向こう側。人族の使う燭台のような形をした、一際ひときわ大きな何かが……。

「あれは塔よ。この国で一番、高い塔よ」

 不意の女の声に、わたしはびくりと身を竦ませました。若い女の声でした。恐る恐る振り返ると、そこにはひらひらとした異国風のうすものを着た、妙齢の女性がたたずんでおります。

 人族の女でした。わたしは直感的にこの女をどこかで見た、知っている、と思いました。

 ざぁっと風が吹きました。白い林檎の花が一斉に空に舞います。まるで雪のようでした。

 ……朝。目覚めると、何やら白いものがちらちら舞っているのに気付きました。美しくて、一瞬、わたしにはそれが夢の続きかと思われました。けれど違うのです。雪でした。

 冬の到来を告げる、本当の雪だったのです。

 わたしは不思議な気持ちで枕元を見ました。

 女の腕は軽く肘を曲げた姿のまま、そこに横たわっていました。指の先が濡れていました。当初は降りかかった雪が肌の熱で解けたのだろうと思ったのですが、どうやら違うようです。瑞々しい甘い匂いがして、口に含むと林檎の味がしました。どこまでが夢で、どこからがうつつなのか、解らなくなりました。

 そして、その日からです。日毎夜毎にわたしが彼女の夢を見るようになったのは。目を瞑り、夢の世界に落ちると、彼女はわたしを待っています。毛の生えていない細くしなやかな白い手で、いつもわたしの角のきわを撫でるのですが、そのこそばゆいこと……。毎度のことながら、思わず声を上げてしまいます。

「一体あなたは誰なのですか。しや山神様」

「わたしはわたしだわ。誰でもないわ」

 彼女はわたしの言葉を遮るようにそう言うと、たおやかに笑ってみせました。街路のはたの林檎の木は、相も変わらず白い花を降らせ続けています。わたしは彼女の手を払い退けて、小さくため息をつきつつ、辺りを見回しました。人族の街だという、この場所を。世界を。

 人族は……いつの間にこれ程の発展を遂げたのでしょうか。天を衝く程の塔を見上げて、わたしは空恐ろしい気持ちになりました。

 勿論これが左腕の見せるまぼろしだということはわかっておりました。現実にあのような巨大な塔などあるわけがないのですから。唯、どうして腕は夢幻の類いを見せるのでしょう。いつぞや口にした、指先を濡らした林檎のかおりのあの蜜が、何か関係しているのでしょうか。

 わたしは……酔ってしまったのでしょうか。

 山では雪が降り続いていました。初雪が舞ってからというもの、雪は降り止む気配さえ見せず、山肌を白一色に塗り替えていきます。

「やはり、この腕は凶事のしるましだったのでは」

 洞の入り口で男は肩の雪を払いつつ、そう言いました。それはいつぞや、わたしの元に片腕を託していった、あの熊人の男でした。

「未だに雪が止まぬのは、異常のことです」

「……何も腕の所為せいではありませんわ。今年は冬の訪れが早いのです。秋の実りの少なさも、その故でございましょう。いずれは」

 わたしは熊人の目を見つめました。女の腕はわたしの胸に抱かれて、身を縮めているようでした。男が嘆息したのが解りました。

「薬師殿の仰りようももっともですが、何分なにぶん食べる物が少ないのです。皆困っておるのです」

 男が、いいえ、山の者達も腕を捨て置かない気でいるのはひしひしと伝わってきました。確かに皆が、いいえ、……わたしも飢えていました。

 わたしは腕を隠すように強く抱き、もう少しだけここで預からせて欲しいと伝えました。

「……どうしてわたしを庇いだてたりしたの」

 女が目を逸らし乍ら、小さな声で言いました。わたしは苦笑して、別に貴女あなたの為じゃないわと囁きました。そこはいつもの夢の中。白い林檎の花が雪の如く、舞い踊っています。

「余計なことをして。そっちの立場が悪くなるかもしれないのに。でも……ありがとう」

 彼女の指がわたしの角の際を優しく撫でます。くすぐったくて、思わず目を細めました。

 そのときです。わたしのお腹が小さく鳴ったのは。恥ずかしくなって慌てて俯きました。

「お腹が空いているのね。貴女に……わたしの左腕をあげると言ったら、どうする?」

 不意にそう言って、彼女はそっと、わたしに白い手を差し出しました。桜貝のような薄桃色の爪が指先に五つ、美しく輝いています。

 わたしは意味が解らないまま、貰えないわと答えました。彼女が目だけで訊ね返します。

 貴女とわたしは住む世界が違うのです。綺麗なだけの腕は不要なのです。雪で覆われた山を、険しいくらを駆け上がり、駆け下りる。唯それだけの用でいいのです。貴女の腕が欲しいだなんて……望んではいけないのです。

 そう伝えて、少し困ったような彼女の手を優しく握りました。こうして美しいものに触れられているだけで満足なのです。彼女もわたしの指にさらりと白い指を這わせました。

「じゃあ、せめて一緒に踊ってよ。わたしと」

 彼女が軽くステップを踏むと、林檎の花が一斉に空に舞いました。わたしは彼女に導かれるように、恐る恐る足を踏み出しました。

 白い花吹雪の中を。人のいない街の中を。

 いつまでも途絶えることなく、二人きりの舞踏が続きます。彼女の腕がわたしの背を支え、わたしの手が、彼女を胸に引き寄せて。

 わたしと抱き合って踊り乍ら、彼女は、


 貴女の行方を探し当て

 その唇にキスをして、手を取って

 まばらに茂った草むらを歩く

 時の果てるまで摘み取ろう

 お月さまのしろがねの林檎

 お陽さまのくがねの林檎を


 耳元で楽しそうに。その歌を唄いました。

 誰の歌、と訊ねると彼女は、『彷徨さまようイーンガスの歌』。詩人イェイツの歌。と笑いました。

 やわらかな歌声が無人の街に流れます。それはとても美しく、とても甘い歌でした。

 ……夢から覚めるとそこに彼女の腕はなく、代わりに林檎の若木がたわわな実をつけておりました。それは金色きんいろの、今まで見たことも無いような美しい、大粒の実でございました。

 わたしは蕭然しょうぜんとした気持ちで、腕が変じたのであろうその樹を、見つめておりました。

 木肌に触れると無性に悲しくて。涙が溢れて止まりませんでした。嗚咽が零れました。

「どうして、どうして? 貴女の腕、いらないって、わたしそう言ったよね? ……また会えますか? 夢の中で、会えますよね?」

 けれどもう、彼女は夢に現れてはくれませんでした。白い指先で、わたしの角の際を撫でてくれることは二度とありませんでした。

 翌月あくるつき。漸く雪が止みました。わたしは洞を出て、雪の積もった崖から遠くを望みました。

 冬の青空には金色こんじきの太陽が燦々さんさんと輝き、光が雪に反射して、辺りはまばゆいばかりです。

 振り返ってぼんやりと彼女の樹を見つめました。指先の蜜を口に含んだあの時と同じ、瑞々しい林檎の味が舌の上に残っていました。

 ねえ、全ては幻だったのでしょうか。無人の街で貴女と出会ったこと。触れ合ったこと。踊ったこと。甘美な歌声。白い指。……全部。

 目を瞑ると今でも彼女の笑顔が浮かびます。


 ……また、いつかの夢を見ました。人族の街に彼女の姿はなく、林檎の花がわたしとさやさや舞い踊っているだけの、唯それだけの。

 白くて美しくて悲しい……雪みたいな夢を。

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