夜の春鬻ぎ
午後のミズ
夜の春鬻ぎ
キラキラと光る休日の駅前通りには多くの人がいる。大通りの左右には百貨店やショップが軒を連ね、道行く人はみんな笑顔で誰かと歩いている。彼氏、彼女、妻、旦那、友達。みんなそれぞれの相手とそれぞれの関係があって歩いている。自分は多分誰とも何の関係もないし、作りたくない。そんな街の中を独りで歩く。独りで歩いているのは自分だけなんじゃないか、無表情なのは自分だけなんじゃないかと思ってしまう。
夏がはじまった梅雨の日。晴れていてもジメジメする空気を肺いっぱいに吸い込んでも空気が入っている感覚がしない。それでも深く息を吸い続ける。息をしなければ死んでしまうから。
ボクは裏道に入る。一人しかいない裏道をビルの隙間から西日が照らす。誰ともすれ違わなくなって少しだけ空気が吸えるようになった気がする。それでもジメジメした空気は自分の体に纏わりついてくるようだ。肺に酸素が入ることを空気に含まれた水が阻害する。
一軒の小さなビルの前に着いた。裏通りで寂れた鉄筋コンクリートのビル。外見からは会社なのか何かのお店なのか何も分からない、なんでもないビルだ。そしてこのビルが何なのか知っている者だけが来る場所。錆びついた金属の扉だけがぽつんとある。少し硬いドアノブを回して中に入る。
すぐに二階へ上る階段があって暗い二階へと伸びている。いつも上るのを躊躇してしまう。怖いのは嫌いだ。あと痛いのも。階段を上るとまた金属の扉。開けるとキャスターの付いた椅子に座る一人の人影があった。
「やっと来た。遅いよ。待ちくたびれちゃった。今日は三人ね」
「もー、つれないなー。暗いのはダメだよ。ほら笑顔、笑顔。来る人みんな怖がっちゃうんだから」
行く手を遮った兎蘭は煙草みたいに咥えていた棒付きの飴をボクの口に突っ込んだ。甘い味が口に広がる。多分今日はコーラ味。時々こうやって飴をくれるのだ。最初はウエッと思ったけど何度もやられて慣れた。
ありがと、飴が入った口をもごもごとさせて呟いた。
うんうん、と嬉しそうにしながら兎蘭は自分の席に戻った。
兎蘭は明るい性格でいつもチャラチャラした性別の分からない恰好をしていて、お客さんにも人気だ。整った顔低めな身長。人懐っこい表情の作り方どれをとっても完璧だ。そしてドギツイピンク色に染められた髪、耳に付いたピアス。明らかに普通とはかけ離れているが、ボクみたいになんのアクセサリーも付けていない方がこの業界では珍しい。兎蘭が普通でボクが異常なのだ。
しばらくお客さんが来るまで自分の席でスマホをいじったりする。とにかく暇なのだ。兎蘭はまた飴を舐めながらにこにこ読書をしていた。最近のブームはシャーロックホームズなのだそうだ。
そうしている間も息苦しい感覚は取れない。さっきほどではないが、独りでいるときはひどく心が不安と焦燥に駆られるとでもいうか、自分でもよく分からない。心が、胸がザワザワするのだ。風の強い日の真っ暗な森のように、そして独りでそこにいるみたいに。理由のない恐怖がボクを常に駆り立てている。心臓の動きが強く感じられたり突然何も感じなくなったり、あまりひどいときは薬を飲むが今日は大丈夫だろう。病院の先生からは物事を深く考え込む癖を直しなさいって言われているけど直せていない。
精神的負担も起伏もなにもない毎日。平穏な毎日。そんな毎日に憧れてボクは毎日を過ごしていた。
そして何も変わらない毎日を手に入れて気づいたのだ。
退屈で楽しくない。ただ毎日が消費されていく苦しいだけだった。平穏な毎日を手に入れても心の雲は晴れなかった。ボクは何の為に生きているのか、何もない空虚な毎日を過ごしていた。
ぼんやりとしていると扉をノックする音が聞こえた。ふっと目の前の想像の夜の森は消え現実が戻る。兎蘭が扉を開け応対している。きっとお客さんだろう。ボクの席からは見えない。今日は三人って言ってたし兎蘭とボクなら楽だろう。兎蘭は誰とでも明るく接することができる。ボクとは正反対。兎蘭は人当たりのいい笑顔だがボクは表情を作るのが苦手だ。
昔からよく言われる愛想がない、笑顔がない、暗い、話しててつまらない。あなたはボクに何を求めているんですか? ボクはどうすればいいんですか? 言葉なんていらない世界に飛び込んだのに結局必要なのは言葉だった。
「
呼ばれたのでボクは考えていた頭を強制リセットして仕事スイッチをいれた。
「こんにちは、ボクは魅希っていいます。き、今日はよろしく、お、お願いします」
ボクを見る視線にいつもどうしても言葉が出てこなくなる。でもこのままでもいいのだ。それでこの人は満足するのだから。求められている自分を作り出す。
ボクは椅子と机のある事務所から奥の部屋へ。薄暗い快楽の園へ。
コンコン、扉を叩く音が聞こえた。
気づくと窓の外にはボクの心の中のような底知れないどこまでも続く黒が広がっていた。ボクの心とは少し違い、大通りから聞こえる喧騒と街の明かりが水の中にいるように遠くに感じられた。
この部屋に入ってから二時間が経った。ボクは溺れていて時が経つのに気付かなかった。未だ慣れていないせいで時間が経つのを忘れてしまう。いつも相方に時間管理は任せているので、今日も声を掛けられて時間になったことに気づいた。
「そろそろお時間になりますね」
お客さんも常連さんの為、ボクのことをよく分かっている。
「今日もありがとね、魅希ちゃん。また来るからね」
「いつもあ、ありがとうございます。お待ちしています」
ほとんどの人はこうやって言ってくれる。ボクもなにも思ってないけど定型句と思われるお客さんが期待している言葉を返す。こうするとお客さんは嬉しそうにする。人間なんてそんなものだ。好きな相手から肯定されると簡単にこうして何も考えずに従順になってしまう。自分が同じ生物だと思うと正直反吐が出るが人間である以上抗えない
ぼーっとする頭でやるべきことへと頭をシフトさせる。
部屋の扉を開けて事務所へ戻り、出入口までお客さんをお送りする。
そうしてお客さんをまた一人今日も送り出す。ぼうっと消えていく後ろ姿を見て扉は閉まる。きっとあの夜の駅前の喧騒の中へ消えていくのだろう。今いる所はそうしたキラキラとした表通りから外れたいわば影の部分だ。ボクは表のキラキラの中では住めない。キラキラに溺れてしまって生きられない。きっと暗い場所でなければこうして生きられないのだ。
「おつかれさま、ご飯食べない?」
お客さんの出ていった扉を立ったまま見つめていると兎蘭が声を掛けてきた。運動した後でひどく体が疲れた。すぐに何かを食べるという気にもなれない。この仕事を始めて一年近く経つというのに未だに終わった後はこんな有様だった。正直情けない。
「ごめん、少し疲れた。寝る」
「ん、そっか。弁当あるからお腹空いたら食っていいよ。次は二十一時ぐらいだから」
またさっきまでいた奥の部屋の隣の同じような造りをしている部屋へ。
簡素な作りをしている急ごしらえの部屋にベットがひとつだけ。
事務所の時計では一九時を回っていた。いつもは誰かが買ってきたコンビニ弁当を食べているが今日は疲れたから後にすることにした。
ベットに体を預けるとスッと体から力が抜けてベットに沈みこんでいく感覚に囚われる。なんか溺れる感覚に似てるな。
気付くと目は開いていた。意識がいつから戻っていたのかは分からない。
スマホを見ると二十一時を少し過ぎていた。
やばい、寝過ごした怒られる。と思ったら隣の部屋、さっき自分がいた部屋から微かに音が聞こえた。低めの男の声と少し高い上ずった甘い声。
重たい体を起こして事務所に戻ると誰もいなかった。きっと兎蘭がお客さんの相手をしているのだろう。外は寝た時と変わらない暗闇。
事務所の隅に置かれている冷蔵庫を開けると中にはコンビニ弁当が一つ入っていた。自分の机に座り小声で「いただきます」と呟いて食べ始める。
食べる前に「いただきます」とちゃんと言うのは、自分にとってアイデンティティのような、まだ人間としてちゃんとしている。ということを自分に示すためだ。別に食べ物に感謝しているわけでもなんでもない。そうしていないとちゃんとした人と比べてしまいどこまでも落ちていく。ちゃんとしなきゃと自分で自分を傷つけてしまう。そのためにこんなボクでも最低限できることはやらないと人としてダメになってしまうと思うのだ。
ごはんも食べ終わり、時間は二十二時ぐらい。そろそろ終わる頃だろうか。今日はあと一人だけか。なんて思っていると兎蘭が部屋から出てきた。
「ありがとう、また来てね。○○さんのこと大好きだからね。待ってるよー」
なんて言っちゃって彼は人を虜にするのがうまい。今いるおじさんも、何回も兎蘭を指名して貢いでいる。そうやって言われておじさんも嬉しそうにして扉から出ていく。
「またあの人だったんだね。ごめんね。寝過ごしちゃって」
寝過ごしてしまったことを謝る。
「あー、別に大丈夫だよ。指名されるの俺だったし。あ、でも次は魅希の指名だよ」
本当に気にしていないとでもいうように窓を開けて煙草のピアニッシモを吸い始める。
扉をノックする音が聞こえた。ボクが扉を開けると初めて見る人がいた。
「予約された○○様ですね? おっ、お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
さっきボクが寝ていたベットルームへ移動する。
「ご指名いただいた魅希です。本日はよろしくお願いします」
お客さんは緊張しているようだったが、予約の確認を行ってから、ベットに座るお客さんの横に座って体をゆっくりと触り合う。段々と緊張が解けてきたのかお客さんもボクの体を優しく触っていく。温かい手がボクのお腹、胸、股の間の肉棒、お尻へと滑っていく。お互いの鼓動が高ぶっていく。そして唇を重ねる。ゆっくりと深い快楽へと沈み込んで溺れていく。
「そろそろこっちにも欲しいです」
ボクは我慢できずに体を震わせて、熱い吐息に乗せて腰を浮かせ自分の欲望をねだっていく。中に熱いものがゆっくりと入っていき気持ちよさを貪る獣のようにボクはお客さんに跨り腰を振っていく。奥に、もっと気持ちいいところに。もっともっとボクを快楽に溺れさせて。
頭の中はそれだけでいっぱいになっていく。
そうしてまた今日もボクは溺れていく。深い、深い痛くも苦しくもない快楽へ溺れていく。
そして今日二度目の快楽の海からボクは浮かんできた。
「ありがとうございました。またお待ちしております」
定型文。
ボクにとっての今日が終わった。時刻は二十四時。早く終わった方だ。
「おつかれさま。今日は早く終わってよかったね。もし暇だったらこの後俺ん家でごはんでもどうだい?」
兎蘭が椅子をくるくるしながら言った。口の飴玉は煙草のまま。白い煙が二人だけの事務所内をふわふわしている。ボクの心みたいだ。ここに心はなくなってる。この煙見たいにどこかにいちゃってボクの肉体から逃げている。
時々仕事終わりにはこうしてどちらかの家でご飯を食べる。今日はどうしようか?
「えっと、いいよ。行く」
疲れていて少し声が掠れている。
「じゃあ行こうか」
駅の反対側にある兎蘭の家まで歩いていく。暗い街、表通りも街灯が明るいだけで人通りはない時折車が通るだけ。まるで人だけがいなくなった場所みたい。夏の夜の空気は暑く重いけど、人がいない分吸いやすい。
人のいなくなった暗い街をボクと兎蘭は二人ぼっちで歩いていた。
「今日は二人も相手して大変だったね~」
兎蘭は車道と歩道の境界線のブロックの上を小学生みたいに綱渡りしながら言った。身長の小さい彼がやるとまるで小学生だが、口には似つかわしくない煙草を咥えている。それだけが実年齢を物語っている。
「うん、二人だけしか相手してないのに疲れちゃってごめん……。ほんとは五人ぐらいできないとダメだよね」
ボクは下に俯いて言った。
「そんなことないよ、魅希はがんばってるし、魅希のペースでいいよ。あっ、コンビニ寄ってこ」
励まされてコンビニへと入っていく。いつもこの励ましに救われる。
コンビニの中は、外とは違う人の気配と煌々と光る蛍光灯の明りで温かみに溢れていた。お酒とかお菓子、思い思いのものを買っていく。
兎蘭は家にある材料で冷製トマトそうめんを作ってくれた。部屋はアパートの狭い一室だがきれいに整理されている。ベッド、クローゼット、おしゃれな服がかけられたハンガーラック、小さめのテレビ台とテレビ、机、本棚にはたくさんの本。全部小さめだが一人暮らしには十分なのだろう。
夕食を食べ終わりお酒を飲んでいると、
「最近、魅希肌綺麗になったよね? なんか化粧水とか変えた?」
「うん、いつも使ってるのより高いの買ったんだよ。やっぱり高いのって違うんだね」
「ふーん」
いつもこうして他愛もない話をしているのだが、今日はなんだか兎蘭の距離が近いように感じた。机を挟んで座っていた兎蘭はベットに座るボクの隣に座り「ちょっと見せて」と言ってボクの肌を見始めた。男にしては細い指がボクの頬を撫でる。兎蘭の吐息がかかるほど近い。少しづつ兎蘭の体重がのしかかってくる。そのままベットに倒れ込む。
「ねえ、俺さ、ずっと魅希のことが――」
そこで止め息を吸い込んだ。もう何を言うかなんて分かっていた。ボクの嫌いな匂いがする。ボクの嫌いな眼差しでみんな同じことを優しく囁く。
「――好きなんだ」
兎蘭だけは他の人とは違うと思ってた。こんなボクでも受け入れてくれて気さくに声を掛けてくれる。重いモノなんてない。そんな関係がボクには心地よかった。でも、その関係もその一言ですべてが音を立てて崩れ去る。ボクは何も言えなかった。
兎蘭を押しのけ鞄を掴んで家から飛び出た。靴は爪先を引っ掛けただけ、ふらふらしながら階段を駆け降りていく。疲れているためか酔っているためか足元は覚束ない。時々足を踏み外したりして鼓動も呼吸もバラバラで、体もバラバラになりそうだった。とにかくこの場所から離れたかった。
「ハア、ハア。あああああ」
口から洩れる声はすでに言葉を失い、渦巻く感情が言葉にならずに漏れるだけ。ボクはどうすればいいのか分からなくなった。
鬱屈とした毎日。何も変わらない、変えられない毎日。思い通りにいかない人間関係。やっと手に入れたと思ったのに、また壊れてしまった。
ねえ、ボクはどうすればいいの?
僕はその感情をどうすることもできないまま、街灯に照らされた大通りを走った。
夜の春鬻ぎ 午後のミズ @yuki_white
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