【KAC2020】神さまなんていなかった
白川嘘一郎
神さまなんていなかった
わたしは村の領主の娘だった。
ある年、ひどい日照りが続いて川も田畑も涸れてしまって、
村の人たちは父さまの信心が足りないせいだと責めた。
父さまは地元の神さまじゃなくて、別の仏さまを信じていたから。
村の人たちはとうとう、わたしたちの屋敷を襲って火をかけた。
父さまは目の前で殺されて、わたしは神さまの生贄になることになった。
母さまは小さな弟を抱いて、この子だけはと懇願した。
わたしの命乞いはしてくれないのかしら。
……でも、我慢しなくちゃね。お姉ちゃんだもの。
けっきょくふたりは別々に、どこかの人買いに買われていった。
小高い山のてっぺんにある社で、わたしは生贄になった。
怖かった。痛かった。苦しかった。とても、とても。
* *
気づけばわたしはこうして社の中にいた。
社の戸を開ける手もない。立ち上がって歩く足もない。
……でも仕方ない。どうせもう、帰る場所なんてどこにもないもの。
誰かを呼ぶ声も出せない。涙を流す瞳もない。
……仕方ない。さっき百年分は泣き叫んでしまったもの。
ただ、木の葉のざわめきや鳥たちのさえずりを聞いたり、
ふもとの村や、まわりの景色を見渡したりすることだけはできた。
神さまの生贄になったわたしはどうなるのだろう。
どこかに連れて行かれるのかしら。
それとも食べられてしまうのかしら。
最初は不安だったけれど、やがてわたしは神さまが現れるのを心待ちにするようになった。
だって、あまりに退屈だったから。
でも、何日待っても神さまは現れてくれなかった。
それからも日照りは続き、冬が近くなってようやく雨が降り始めた。
――神さまなんていなかった。わたしはただの無駄死にね。
* *
神さまなんていなかった。
それなら、わたしの命はいったい何のために捧げられたのかしら?
わたしは毎日、村を見下ろしては、彼らを呪った。
生贄に意味なんてなかったのなら、せいぜいもっと日照りで苦しめばいい。
百年ほど数えてわかったことは、雨が少ない年には作物が枯れ、そこそこ降った年には育つ、
ただそれをずっとぐるぐると繰り返しているだけだということだった。
わたしには呪いの力さえなかった。
私を生贄にした村の人たちの顔は忘れたことはないけれど、
でも彼らももう死んでしまってどこにもいない。
おかしなことに今の村人たちは、たまにわたしの前にやってきては、米や酒を置いていく。
食べることも飲むこともできないのに、そんなものいらないわ。
どうせならお花でも供えてくれないかしら。
何もかもどうでもよくなったわたしは、不貞腐れて眠ることにした。
* *
どれぐらい眠っていたのだろう。
ふもとの村はずいぶん大きくなっていた。
一軒一軒の家がお屋敷よりも立派になった。
かわりに田畑が少し減ったようだけど、どうしたのかしら。
それでもたまに風に乗って子供たちのはしゃぐ声が聞こえてくるので、
食うに困っているわけではないみたい。
沼地だったところが平らになって黒い線が引かれた。
その線の上を、さらに黒くて四角い荷車が、煙を出しながらたまに走って行く。
それが何だか面白くて毎日眺めていたら、いつの間にか、お婆さんや若い娘たちがわたしの前にやってくるようになった。
みんな、誰か男の人の名前を呼んでは、「無事に帰ってきますように」とお祈りする。
だけどね、ごめんなさい。
ここには神さまなんていないのよ。
* *
今日も、大烏の群れが空を飛んでいく。
唸り声とも鳴き声ともつかない奇妙な声を立てながら。
大烏が何かを落とすと、ふもとの村で炎が上がる。
そのたびに人が死んでいるらしい。
不思議ね。わたしがあれほど呪っても何も起こらなかったのに。
いったいどれほどの仕打ちを受けて、どれほどの怒りや憎しみを込めて呪えば、
こんなに人を殺せるのかしら?
わたしは神さまに生贄として捧げられたけど、あの人たちの命は、
いったい何に捧げられたのかしら?
* *
しばらくして大烏の群れは姿を消したけれど、
この山の社にも誰も来なくなった。
それもそうね。神さまなんていないんだもの。
ずっとそんな日が続いて、わたしはまた退屈で、そしてさみしくてたまらなくなった。
ふと、すぐそばの桜の木に気づいた。
いつからそこにあったのか、頼りない若木だったのがいつしかずいぶん大きくなった。
もし手があったなら触れられるほど、わたしのそばにあるんだもの。
雨を降らせたり田畑を涸らせたりはできなかったけれど、
この桜を咲かせることぐらいはできないかしら?
次の春、桜が咲いた。
その次の年も、そのまた次の年も。
やがて、桜が咲くと若い男女や、親子連れがたくさん集まるようになった。
彼らが桜を見上げるのを眺めるのが、わたしの楽しみになった。
だってそんなとき、みんな決まってとても幸福そうな顔をして笑うのよ。
……でもね。
ある年の春、ようやく蕾が顔をのぞかせはじめたころ。
大きな地震が来て、わたしの桜は根元から折れてしまった。
これではまた、誰もここに来てくれなくなってしまう。
わたしは悲しくて悲しくて、まるで泣き疲れるように眠ってしまった。
* *
笛と太鼓の音で、わたしは目を覚ました。
思いもしない光景がそこには広がっていた。
社の周囲にはたくさんの提灯が吊るされて、建ち並んだ小屋では色とりどりのお菓子やおもちゃが売られていた。
……ようやく浄土に行けたのかと思ったわ。
でも違うわね。父さまから聞いた浄土より、こっちのほうがずっと楽しそうだもの。
お面をかぶった子供たちが柔らかな刀を振り回し、笑い転げている。
不意に、太鼓とは違う大きな音が聞こえてきて、わたしは驚いて天を見上げた。
以前その音が響いたときは、村が燃えて悲鳴が聞こえた。
でも違う。
見上げた空には、とてもきれいに光る花が、色とりどりに咲いていた。
花はすぐ消えてしまったけど、また音とともに違う色で花開く。
ええ、あれは花よ。みんな、桜を見上げるときと同じ顔をしてるもの。
――わたしは悟った。
わたしの命はきっと、こうして長い時を経て、夜空に咲くこの花のために捧げられたのだ。
……それならまあ、悪くないわね。だってこんなにきれいなんだもの。
浄土に咲く花でさえ、きっとこれほど鮮やかな色はしていないわ。
祭りが終わると、わたしの前に小さな桜の苗木が植えられた。
こんど目覚めたときには、どれぐらい育っているかしら。
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