第19話 九尾のタマモちゃん
鈍色の穴を通り抜けた。そこは夜の世界だった。
タマモは即座に空を見る。辺りを照らす光は月ではなかった。赤々と燃える塊は粗末な太陽を思わせた。
「ここは、わたしの……」
途中で口を噤む。緊張の面持ちでタマモは周囲に目をやる。
生々しい打撃音が聞こえる。穴の一つに近づいて腹這いとなり、そっと見下ろす。
翠子と容子が戦っていた。近くには天邪鬼の姿があった。
「あれでは……」
タマモは拳を固めた。顔を背けそうになりながらも二人の戦いに目を向ける。
一方的だった。容子の繰り出す爪は難なく
「どうして、逃げない……力の差は、歴然ではないか」
「九尾の大将に覚悟を見せてぇのかもな」
その声にタマモはギョッとして横を向いた。小生意気そうな顔の童子が同じように腹這いになって戦いを眺めていた。
「お前は妖狐と一緒にいた」
「河童の長吉ってもんです」
二人の戦いを見ながら答えた。
「……そうであったか。妖狐は長期戦に持ち込んで翠子の体力を削ると。自身の傷は丸薬で治せばよい。そうか、そうか」
タマモの声が弾む。無邪気な笑みを見せた。
長吉はバツが悪そうな顔で言った。
「それなんですがねぇ。丸薬は二粒だけで。一つは大将に渡して、もう一つは容ちゃんが持っているはずなんですが……」
長吉は暗い顔で容子を見詰めた。凄まじい打撃を食らって足がふらつく。飛びそうな意識は頭を振って対抗した。
タマモは目を剥いた。
「妖狐は先程、一粒を飲んだ」
「やはり、そうでしたか」
「何故、逃げない。このままでは、妖狐は、何故だ!」
感情の高ぶりに釣られて声が大きくなる。
「……九尾の大将が強大な敵に立ち向かうって時に、配下の自分が逃げてどうするって、言ってましたねぇ。そのくせ、俺には逃げろって、ふざけるなと思いましたよ」
長吉は両目を掌で擦った。赤い目で尚も容子の姿を見詰める。
「わたしは、どうすれば……」
タマモは揺れる目で上体を起こした。
容子はパンプスを脱ぎ捨てた。素足となって走り出す。両手の爪を限界まで伸ばし、翠子に突っ込んでいく。
容子の上体が沈んだ。予備動作を挟まず、一瞬で跳んだ。翠子の反応が遅れた。
宙で両足の爪を伸ばし、揃えた状態で頭頂を狙う。勝ち誇った顔の容子を黄金の足が蹴り上げる。足の爪は砕かれ、右脚が不自然な方向に曲がった。
容子は仰け反るような姿で背中から大地に叩き付けられた。
「お姉様、さすがです!」
間近で見ていた天邪鬼は称賛の声を送る。
翠子は一切の笑みを見せず、肉体に足を戻した。呻いている容子に向かってゆっくりと歩き出す。
「させない!」
すっくとタマモは立ち上がる。吹っ切れたように斜面を駆け下りた。足がもつれて転びそうになりながらも走った。
「大将はこうじゃないといけねぇな」
少し遅れて長吉も斜面を下りていく。
「翠子、やめろ!」
その声を受けて足が止まる。緩慢な動きで振り向いた。
「タマモちゃん、どうしてここに?」
疑問を無視した。タマモは仰向けに倒れている容子の元に駆け付けた。
「妖狐、気をしっかり持て!」
閉じそうになった瞼を
「……玉藻様、無様な姿を、見せてしまって……申し訳、ありません……」
「何を言うか! わたしを奮い立たせてくれる、素晴らしい戦いであった! それでこそ、わたしの右腕だ!」
「おい、マリモ。どういうことだ」
天邪鬼の目が据わる。指を鳴らして近づいてきた。
「裏切り者が! 真っ先に串刺しにしてくれるわ!」
「串刺し? まさか、アンタは」
天邪鬼の足が止まった。その隙にタマモは丸薬を口に入れた。驚いたような表情で慌てて飲み下す。
「ぷぇぇ~、なにこれぇ。苦すぎるでしょ」
「良薬なんで」
長吉は苦笑いで言った。簡単に容子の状態を診ると胸に抱えた。
「大将、一命は取り留めそうです。棲み処に戻って丸薬を飲ませればすぐに元通りってなもんで」
「そうか。あとはわたしが本来の姿になれば」
「タマモちゃん、本来の姿って何のこと?」
翠子は円らな目をタマモに向ける。無表情で一切、瞬きをしない。
本能が迫る危険を知らせるのか。タマモの全身が震えた。抑え込むように大声を上げた。
「この世界を滅ぼした罪、万死に値する! 全身に受けた痣と痛み、一時も忘れたことはないぞ! 翠子、覚悟しろ! 河童の妙薬でわたしは再び力を取り戻すのだ!」
叫ぶと同時に両手を広げた。傲慢な顔で空を見て、あれっ、と声を漏らす。
「長吉、何も起こらないんだけど」
「そんなはずは。丸薬は妖力を活性化させて……もしかして尻尾を失ったせいで妖力が全くない、なんてことは?」
長吉は戸惑った様子で後退る。
「タマモちゃん、どういうことなのかな」
翠子はタマモの目の前に立っていた。腕を組んだ姿に、えへへ、と笑って咄嗟に目を真横に向ける。瞬時に移動した翠子が目を合わせて、どういうことなのかな、と顔を近づけて訊いてきた。鼻筋には薄っすらと皺が寄り、ひん曲がった唇から鋭い犬歯が覗く。
「……ぴ、ぴぇぇ~」
涙目となったタマモは愛らしく鳴いた。
「タマモちゃん、可愛い!」
翠子はタマモを抱き締めた。頬と頬を引っ付けて回転を始める。
その間に長吉は容子を抱えて逃げ出した。斜面を一気に駆け上がり、鈍色の穴に飛び込んだ。
翠子の興奮が収まった。タマモの腋の下に両手を入れて高々と掲げる。
「ぷ、ぷぇぇ~」
「もう、本当に可愛いんだから。早く帰ってすき焼きにしましょうね」
「あのぉ、お姉様。タマモは妖力を失っていても、あの九尾だと思うのですが」
「九尾のタマモちゃんね。これからもよろしくね」
「え、えへ、よろしく。翠子お姉ちゃん」
タマモはもじもじした姿で精一杯の笑みを作る。天邪鬼は赤い双眸で、調子に乗るな、と威嚇した。
タマモちゃんの日常はいつまでも危ない。
タマモちゃんの日常はいつも危ない 黒羽カラス @fullswing
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