第18話 覚悟

 タマモは項垂れた姿でワンルームマンションに戻ってきた。ハンカチに包んだ丸薬をポケットに突っ込み、何度目かの溜息を吐いた。

「……ただいまぁ」

 扉を開けて中へと入る。玄関で運動靴を踏み付けるようにして脱いだ。

 透かさず奥から声が飛んできた。

「帰ったみたいね」

「うん、ただいま」

 先程よりも元気な声で言った。

 ベッドでは天邪鬼が胡坐を掻いている。長い髪はしっとりと黒く、巫女装束の肩の一方に纏められていた。

「本当に、お風呂に入ったんだ」

「少しは汗ばんだし。それで妖狐とはどうなったのよ」

「……話は聞いたよ。あ、洗濯機はどうなったかな」

 タマモは視線を他に向ける。動き出そうとした瞬間、マリモ、と低い声を掛けられた。

「どうしたの?」

「話の内容はどうでもいいんだけど、河童の妙薬が気になる。アンタ、丸薬を妖狐から貰ったんだよね?」

 天邪鬼は赤い眼をすっと細めた。

「貰ったけど……」

「呑むんだよね」

 静かに訊いてきた。

 作り笑いは控えてぽつりと口にする。

「わからない」

「本来の自分を取り戻せるんだよね。あれってどういう意味なんだろう」

 天邪鬼はベッドを離れた。タマモを見下ろす形で立ち止まる。威圧する眼に押されるかのように頭が下がる。

「えっと、それはー、全身のアザが消える意味なんじゃないかなぁ」

「そんなくだらないことに河童の妙薬を使うんだ?」

「くだらないことかなぁ。白くてツルツルのお肌になったら、翠子お姉ちゃんに気に入られて、チューされたりして」

 タマモは笑顔で顔を上げた。すぐ近くに天邪鬼の顔があった。血の色に染まった両眼は殺意に満ちている。

「アタシに洒落は通じない。言ったよね?」

 タマモの細い首に天邪鬼の両手が掛かる。

「そんな、本気になられても。例えの話なんだしぃ」

 辛うじて笑顔を維持した。タマモは天邪鬼の右手首に指を掛けて引き剥がそうとした。が、びくともしない。鋼鉄の輪っかが首に嵌っている状態に等しい。

 しかも、徐々に閉まって首と掌の隙間が無くなった。

「あの、ちょっと、息苦しいんだけど」

「首を絞めているからね」

「……そうだね」

 タマモは弱々しい笑みで目を閉じた。表情は強張り、瞼や頬がぴくぴくと動く。

「バカじゃないの」

「え、なんで?」

 天邪鬼は自ら両手を離した。興味が失せたという風にベッドに戻り、再び胡坐を掻いた。

「マリモが白くなったとして、それが何だっていうのよ。色白と長い髪はアタシとほんの少し被るけど、女の魅力で言ったら話にならないわ。当然、アタシの圧勝よ」

「本当に?」

 疑わしい顔で首を摩る。

「アタシが本気になったら、マリモの首なんてビワの実くらい簡単に捥ぎ取れるよ。ちびっ子のくせに洒落が通じないんだね。これだからマリモはー」

 天邪鬼は真横に倒れた。枕に顔を埋めて深呼吸を始めた。

「……どっちが」

 不貞腐れた顔で洗濯機に向かった。


 炊飯器でご飯を炊いた。すき焼きに必要な野菜はタマモが切った。部屋にある時計を見ると翠子の帰宅の時間が迫っている。

 扉の開く音がした。ベッドで寝転がってテレビを観ていた天邪鬼が飛び起きる。タマモを追い抜いて笑顔で翠子を出迎えた。

「お姉様、お疲れ様です。今晩はすき焼きにしました。材料も切ってあるのですぐに食べられます」

「それ、わたしがしたんだけど」

 遅れてきたタマモは不満そうな顔で言った。

「アタシが食材を買ってきたおかげじゃない」

「言い争わないで。そうでなくても面倒ごとが多いんだから」

「……翠子お姉ちゃん、なにかあった?」

 表情を見てタマモは口にした。翠子は取り繕うような笑みを浮かべる。

「妖狐がいきなり襲ってきたのよ。タマモちゃんがいない時だったから、妙な気分になるわ」

 黒いパンプスを脱いだ瞬間、後方の扉が勢いよく開いた。

 油屋容子が鼻血を出した姿で現れた。白いシャツは滴った血で汚れ、右目は大きく腫れて視界を奪う。満身創痍の状態で左手の爪を伸ばした。

 瞬時に横を向いた翠子は容子の腹部に踵を減り込ませる。

「ごほぉ!」

 血飛沫を口から吹いた。容子は、くの字で吹き飛び、外の壁に背中を打ち付けて跳ね返り、四つん這いの姿となった。

「まだ、だ」

 握っていた右手を開いて丸薬を呑んだ。塞がっていた右目が開いた。

 闘志を剥き出しにして翠子に襲い掛かる。

「いい加減にしろ!」

 翠子は前に飛び出し、容子の両手首を掴んだ。そのまま外に押し出して叫んだ。

「状況がわからないけど、妖狐は始末する!」

 翠子は横手に走って見えなくなった。

「お姉様、アタシも行きます!」

 天邪鬼は草履を履いて飛び出した。

「え、ええ、みんな!?」

 一人となったタマモは迷いながらも運動靴を履いた。外に出ると横手の壁に鈍色の穴が空いていた。

 弱々しい目で、もう、と怒ったように言うと頭から突っ込んでいった。

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