第17話 希望と絶望の丸薬
紺色のパンツスーツ姿の翠子は撥ねた髪を弾ませて玄関に急ぐ。黒いパンプスに足を捻じ込み、飛び出す直前で後ろを振り返る。
天邪鬼は巫女装束に身を包み、とんと自身の胸を叩いた。その隣にはパジャマを着たタマモが眠そうな顔で立っている。
「お姉様、留守はアタシに任せてください」
「本当に任せたわよ。天才児の話だと妖狐は自分のスマホを壊して追跡から逃れたようだし。このまま逃げてくれると助かるんだけど、タマモちゃんに執着しているみたいだから、まだ安心はできない」
タマモの背筋が伸びる。眠そうな目を擦って笑顔を見せた。
「ここにはアタシがいます。妖狐とは素で互角ですが、肉体を強化すれば力で圧倒できます。あのぉ、お姉様、覚えていますよね? あの激しい戦いを」
「まあ、そうね。あんたがモジモジする理由はわからないけど」
「またまた~。あんなに激しく舌を突き入れて……アタシの身体を
「タマモちゃんが誤解するでしょ! もう、時間がないんだから。本当に頼んだからね!」
翠子は頬を赤らめて出ていった。
天邪鬼はタマモの頭に手を置いた。
「お姉様のお願いだから聞くけど、あまり勝手なことはしないように」
「わかってるよ」
ムスッとした顔でタマモは離れた。駆け足で部屋に戻ると押し入れを開けた。下段には翠子が用意した収納ボックスがあり、一通りの服が揃っている。
タマモはパジャマを脱いだ。水色の厚手のトレーナーに白のスリムパンツに着替える。出た洗い物は脱衣所にある洗濯機に入れた。
洗濯洗剤の球体をぽとんと落とし、蓋を閉める。操作パネルのボタンを押して洗濯を始めた。
「お姉ちゃんは掃除する?」
「マリモに任せる。アタシの担当は警護だから」
戻ってきた天邪鬼は翠子のベッドにいそいそと入り込む。掛け布団に全身が包まった状態で手を伸ばし、枕を引き込んだ。もぞもぞと動く亀の姿にタマモはへの字口となった。
「……わたしがしっかりしないと」
小声で気合を入れる。タマモは朝陽で輝く窓に背を向けて両袖を捲り上げた。
そこに意外な声が飛び込んできた。
「玉藻様ぁぁ! 私の勘違いでしたぁぁ! これまでの無礼をどうか寛大な御心で許してくださぁぁぁい!」
「なんなのよ、朝っぱらから!」
天邪鬼がベッドから飛び降り、怒りに任せて窓を開けた。
上半身を出した状態で動きを止める。その姿勢で辛抱強く待っていたが、声は聞こえて来なかった。
「……妖狐のヤツ、なんなのよ」
不貞腐れた一言で窓を閉めた。天邪鬼は再び、ベッドに潜り込む。
「河童の妙薬を手に入れましたぁぁぁ! この丸薬を呑めば玉藻様は本来の自分を取り戻すことができるのでぇぇぇす! どうか、どうか、この言葉を信じてくださぁぁぁい! 私は今も玉藻様の忠実な
「アタシの甘い一時を邪魔しやがって!」
天邪鬼は長い黒髪を乱し、一足飛びで玄関に向かう。扉を蹴り破る勢いで飛び出していった。
残されたタマモは苦笑いを浮かべた。開けっ放しの扉を閉めて収納されていた掃除機を持ち出し、床の隅々にまで吸い口を当てた。
扉が乱暴に開けられた。天邪鬼が燃える双眸で戻ってきた。履いていた草履を脱ぎ散らし、床に荒々しく座り込んだ。
「ああああ、もう! 逃げられた! 逃げ足が速すぎるんだよ!」
「たぶん、違うと思う」
タマモは小さい声で反論した。天邪鬼は胡坐を掻いて口をひん曲げた。
「どういう意味よ」
「うん、妖狐だから耳が良いんだよ。狐は犬よりもよく聞こえるって、その、昔に読んだ動物図鑑に書いてあった」
「耳の良さにもよるけど、少し
天邪鬼は小難しい顔で小鼻を掻いた。
「あの、ね。わたしに会いたいみたいだから、話だけでも聞いたらダメかな」
「そんなことをして、マリモに何かあったらアタシが困るのよ」
天邪鬼は頭と手を同じように振った。
「……わたしが、翠子お姉ちゃんを好きだとしたら」
「マリモ、アタシに洒落は通じないよ」
一瞬で目が据わる。流れ出す鬼気にタマモは委縮しながらも目を逸らさなかった。
「まだ、自分の気持ちが、よくわからないけど……そんな気がするの。だから、話を聞いてくる。なにかあったとしても、お姉ちゃんには悪い話じゃないよね?」
「……走ったせいで、急にお風呂に入りたくなったなぁ」
天邪鬼は立ち上がると脱衣場に向かう。その間にタマモは急いで外に飛び出した。
ワンルームマンションの敷地を駆け抜ける。前のめりで道に出ると大声を上げた。
「どこにいるの! わたしはここだよ!」
左右の道に目をやる。一方の路地から手が伸びてタマモを招く。一切の迷いを捨てて走った。
手は路地に引っ込んだ。タマモは速度を落とし、歩くように曲がった。
そこに容子がいた。片膝を突いた姿で頭を垂れている。一歩、下がったところには長吉がいて、どうも、と軽く頭を下げた。
「玉藻様、私の愚行をお許しください。敵の人質になっていたことも知らず、本当に申し訳ありませんでした」
「妖狐、わかってくれたのか。わたしの落ち度もある。罪に問うつもりはない」
「ありがとうございます。早速ですが、これをお飲みください」
容子はスーツのポケットから折り畳んだハンカチを取り出し、その場で開いて見せる。中には一粒の黒い丸薬が収められていた。
「河童の妙薬で少々の苦味は伴いますが、効果は絶大です。妖力を増大させて治癒能力を飛躍的に高めます。以前の姿を取り戻せば、我らの仇敵、時田翠子を屠ることなど、造作もないことでしょう」
「それは、どうだろうか」
タマモは弱々しさを隠すように笑った。
容子の細い目が広がった。唇が微かに震えている。
「まさか、天邪鬼が口にしたことは……。玉藻様、あの仇敵は……神なのですか?」
「……神なのだろうか」
タマモは放心したようになり、ポツリと口にした。
途端に急激な震えが全身を襲う。溢れ出す記憶を抑え込むかのように頭を抱え込み、ふらりと身体が揺れて壁に寄り掛かる。両脚の力が抜けて、その場にへたり込んでしまった。
「それほどまでの、相手なのですか。でも、私は信じています。玉藻様が完治すれば、あの悪鬼を打ち砕けると」
容子はハンカチを折り畳むとタマモに持たせた。
「私達は玉藻様と共にあります。覚悟が決まった時、丸薬をお飲みください」
容子はタマモの腕を取って立たせた。
「妖狐、そこまでわたしを」
言葉を遮るように容子は深々と頭を下げた。別れの言葉はなく、二人は風を纏って去っていった。
残されたタマモはハンカチを握り締める。
「そんなの無理だよぉ」
情けない泣き顔で、ぴぇぇぇ~、と鳴いた。
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