桃色の誘惑

庵字

桃色の誘惑

 今だ。この瞬間を待っていた。

 母親がトイレに入り、子供がひとりで残された。五歳の男の子を女子トイレに一緒に入れるのは、さすがに躊躇ためらわれたのだろう。昔ならいざしらず、今はそういうことにもうるさい時代だ。

 私は、怪しまれないよう、素知らぬ振りをしてゆっくりと近づく。毎年三月初めに開催される、この「早春祭」の賑わいの中、私は人混みを縫うように男の子――の子供に向かう。

 それにしても、見れば見るほど似ている。今までは遠巻きに眺めるだけだったが、こうして近づいてみると、しみじみ感じる。完全な父親似だ。あの子の父親、数年前、私をあっさりと捨てた、あの男……。

 顔がよく、やさしい性格。申し分ない男だったが、ひとつだけ欠点があった。あまりに移り気すぎるところ。出会って、付き合い始め、半年とかからずに私は捨てられた。――いや、向こうに「捨てた」という気持ちなどなかったのかもしれない。あいつが私に対して思ったことを、私も同じく感じていたのだと勝手に解釈したのだろう。「もう会わないほうがいいよね」だと? 突然の言葉に呆然としている私の態度を「了解」と、これも勝手に解釈したに違いない。あいつは私の前から姿を消した。

 馬鹿な男に遭遇してしまっただけだ、と私は忘れることにした。実際忘れた。でも、すぐに、そして何度も思い出す羽目に陥った。どうしてなのか。あいつと別れて以来、ろくな男を捕まえられなかったせいだ。「あいつのほうがマシだった」どうしてもそんな気持ちが頭をよぎり、記憶を掘り起こさずにはいられない。もしかしたら、向こうも同じ思いをしているかも。そんな都合の良い展開を期待して、知人の伝手つてであいつの近況を調べたのがまずかった。

 結婚しただと? しかも、五歳になる息子もいるだと? あいつがひとりの女性を選んだことも、それが少なくとも五年以上続いていることも、信じられなかった。どういう風の吹き回しなんだ? 頭がイカれたのか? 私と付き合っているときは、子供など欲しくないと言っていたではないか。そうだろう。欲しくないんだろう。だから、奪ってやることにした。誘拐だ。身代金と引き換えに子供を返してやる。私に対しての慰謝料だ。

 私は誘拐計画を練った。必死に考えた。完璧なものが完成したと自負している。首尾よく子供を手中に出来れば、身代金の奪取から逃走まで完全に警察の追跡を撒ける自信はある。

 問題は初手の初手、子供をさらうことにあった。保育園の送迎から普段の外出まで、子供の近くには常に両親のどちらかがついており、とてもじゃないが隙はない。

 そんな中、光明が見えた。この「早春祭」に母子二人だけで出かけるというのだ。父親は年度末の激務のせいで、休日残業に駆り出されるという。公園でママ友相手に話しているのを聞いた。父親がいないというのがいい。あれから数年が経過しているとはいえ、あいつが私の顔を憶えている可能性は高い。祭りの最中に母親とはぐれるか、そうでなくとも、母親がトイレに入るなど、子供がひとりだけ残される時間は必ずあるはずだ。この「早春祭」は、あいつにとっては「最悪の」、だが私にとって「最高のお祭り」になる。

 そして祭りの日である今日、母子を尾行し続けた私の前に、ついに絶好の状況が訪れた。

 さて、とはいえ実際問題、どうやって子供をさらうのか。相手は十分に自我の確立した五歳児だ。力任せにさらうことは不可能だろう。抵抗されるだろうし、大声を上げられたら終わりだ。だが心配はない。私には必勝の策がある。無理やりさらうのではなく、子供自身が私についてくるよう仕向けられる策が。


 子供のことを徹底的に調べた結果、彼は日曜朝に放送している特撮ドラマの大ファンだということが分かった。大好きで、物心ついたときから何年にも渡って視聴し続けているのだという。何かヒントになるかもと、私もその番組をチェックした。番組名は『推理戦隊タンテイジャー』という。視聴して、またしても光明を得た。そのドラマに登場する「タンテイピンク」なる戦士が私に似ているのだ。瓜二つとはさすがにいかないが、メイクと髪型で充分ごまかせるレベルだ。これは使える……。

 私の作戦はこうだ。私は「タンテイピンク」の振りをして子供に近づく。私は高校時代、演劇部に所属していた。顧問だった教師に本気で芸能界入りを勧められるほどだった。演技力には自信がある。番組を観て、変身前のタンテイピンクが着ている服とほぼ同じものを入手して、現在着こんでいる(そのままではさすがに目立つので、上にコートを羽織っている)。近づきつつ私はコートを脱ぎ、「タンテイピンク」となって子供の前に姿を見せる。驚くことだろう。そして私は彼の前に屈みこみ、こう言うのだ。

「ねえ、お願いがあるの。向こうでマーダラーが暴れているの。力を貸してくれない?」

〈マーダラー〉というのは、タンテイジャーが戦う怪人の総称だ。番組を何度も観て、タンテイピンクの声色はもちろん、喋り方、表情まで入念に研究した。玩具店に赴いて「変身ブレスレット」も購入した(これもすでに装着して、コートの裾で隠している)。

 周囲には常に祭り客が行きかっており、よいカモフラージュになっているため、悪目立ちすることもないだろう。タンテイジャーの大ファンである彼は、私のことを「タンテイピンク」だと信じ、一緒についてくるに違いない。彼は特にメンバーの「タンテイブルー」が好きだそうだから、「ブルーも待っている」と言えば、とどめの殺し文句になるだろう。それまで三十秒とかかるまい。そうして、駐車場に停めてある私の車に乗り込ませられれば、もう勝ったも同然だ。

 ターゲットまで目算二メートルを切った。そろそろいいだろう。私はコートを脱ぎ、「タンテイピンク」となった。瞬間、子供と目が合う。そうだ、私を見ろ。お前の大好きな「タンテイジャー」だぞ。

 十数センチの距離だけ置いて、子供と向かい合う。私を見上げるつぶらな瞳。……やっぱり似ていやがる。私は苦笑を抑えて――鏡の前で入念な練習をした――タンテイピンクそのものの笑顔を浮かべ、彼の前に屈みこんだ。さあ、一世一代の大芝居の開始だ。


「ねえ、お願いがあるの。向こうでマーダラーが暴れているの。力を貸してくれない?」


 完璧な演技だ。子供は突然目の前に出現した「タンテイピンク」に驚き、目を輝かせ……ない。まったく表情ひとつ変えていない? 怯むな、まだ終わりじゃない。


「向こうでタンテイブルーも待っているの」


 切り札ともいえる台詞を口にしたが、それでも彼に変化は見られない。どういうことだ? 私のことを「タンテイピンク」と認識していないのか? 私はこれ見よがしに、左手首に巻いた変身ブレスレットを見せる。が、彼はその銀色のメッキに輝くブレスレットを一瞥しただけで、やはり何も反応を示さない。まずい、まごまごしていたら母親がトイレを終えて出てきて――しまった! いけない! 私は立ち上がると踵を返し、脱兎の如く子供の前から立ち去った。

 人混みを走り抜ける最中さなか、「あ、タンテイピンクだ」という声を何度か耳にした。そうだろう。私の変装、演技には一部の隙もなかったはずだ。なのに、どうして……。



 後日、その理由が判明した。私が行動を起こしたその日、『推理戦隊タンテイジャー』はすでに放送を終了しており、あいつの子供はすでに『タンテイジャー』のあとに始まった、『異世界戦隊テンセイジャー』に夢中になっていたのだった。子供は確かに「日曜朝の特撮ドラマ」を何年にも渡り視聴し続けていた。だが、ひとつの番組をずっと観ていた、好きでい続けていたわけではなかったのだ。彼は、一年ごとに番組が切り替わると、すぐに新しい戦隊に心を奪われ、古いほうには見向きもしなくなるという。なんて移り気なやつ。そんなところもあいつにそっくりだ……。

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