腐敗する桃

大滝のぐれ

腐敗する桃



   ♡


 わたしのママとマリのママは同性愛者で、なおかつ恋人同士だ。高校生時代に運命的な出会いを果たしたらしく、それは三十年ほど経った今も変わらず続いている。家が隣同士だから、よく頻繁にふたりでお茶をしたり買いものをしたりもしている。

 でも、それはこの世界ではただのぐずぐずの未練による行動と呼ばれるもので、つまるところ、ままごと遊びにすぎない。仕方のないことだ。他ならぬ彼女自身が、抗うことをやめ、そう規定してしまったのだから。


「いい、よく聞きなさい二人とも。あなたたちはね、特別な子なの」


 わたしとマリが『呪われた』のは、幼稚園年長のときだった。マリのママにおやつとしてもらった、桃ゼリーの粘つく甘みが口にわだかまっていたのを覚えている。それはきっとマリも同じだったはずなのだが、彼女はひな人形のごとく温度のない、不自然なほどすました表情をしていた。しかし、わたしたちを見下ろすママたちの瞳は、黒く濁ってそれ以上に凪いでいた。

「私たちは愛し合っているの。いた、じゃないのよ。今もなのよ。だからね、今からとっても大事なことを話すわ。ふたりともいい子だから、きちんと聞いてくれるわよね」

 わかって、くれるわよね。ママの唇の間にできた黒い穴からずらずらと垂れ流された言葉の意味が、当時のわたしにはよくわからなかった。いつもは平易な言葉遣いを心掛けて優しく接してくれるのに、今回に限ってはそうではなく、私たちの意志を無視した、幼稚園児にとっては未知の言語が含まれた説明がずらずらと並べられた。

 なにか、よくわからないものがわたしの中に入ってきている。指の上に蟻がのぼってきてしまったときのような感覚が、体中に生じていく。得体の知れない恐怖に、当時のわたしはただ震えていた。


 そのとき、わたしたちのパパはふたりとも仕事に出ていて、家を開けていた。目線の先、大きな窓の外に広がるベランダで、マリのパパとママの下着が、洗濯ばさみに吊られてそれぞれゆらゆらと揺れていた。



   ♡


「ねえ、見ちゃったんだあたし」

「なにを」

「知りたい?」

「もったいぶらずに教えなさいよ」

 お母さんが、この部屋のいろんなところにビデオカメラ仕掛けてるところ。こちらに顔を近づけ、マリが小声でささやく。とたんに、部屋のいたるところにぎょろりとした目玉が開いていくような気がした。机上に置かれたパソコン、カラーボックスに収められたぬいぐるみ、画面の消えたテレビ。マリの部屋の中、彼女の基準によって置かれたあらゆるものが、こちらを見つめている。高校生になったわたしたちを、監視している。


 あのときかけられた呪いの正体は、端的に言うとママたちの『代わり』をすることだった。ママたちが恋人としてまっとうに成し遂げることができなかったことを、代替品として遂行するだけの機械。そのためだけに、わたしたちは産み出された。かけらも愛していない男と交際して結婚、交配までして。

「あんたも、そしてマリちゃんもまだ知るよしもないでしょうけど、同性愛者、っていうのはとんでもなく難しいの。生きることが、ね」

 絶望したのよ。私たち。私たちはね、だめだったのよ。マリのママが、マリの髪を撫ぜる。かすかな衣ずれが聞こえた。

「異性愛者たちは本当によかったわよねそっちがマジョリティーってことにこの世界ではなってて。他のあらゆることに関してもそうだけどね、一歩なにかが違えば別の作りになっていたかもしれないのに、多数派に属しているやつらのほとんどはずいぶんと傲慢なのよ。それがどんな奇跡の上に成り立っているかも知らないで」


 正座をしているわたしたちの前で、ママたちはずっと手を繋いでいた。心も体もなにもかもが完璧につながっているのに、あらゆる外的要因がわたしたちを壊し、殺した。だいたい、そのような意味の呪詛を、延々とまくし立てていた。

「だから、決めたのよ。男と結婚して、親戚のジジババや会社のクソ上司、社会のクズどもを安心させ、産んだ子を私たちの生まれ変わりにしようって。っていうわけだから」

 たった今、このときから、あんたたちは、『私たち』になるの。

 その瞬間、わたしとマリは魂を失った。本当に、一瞬のできごとだったけど。


「ね、だからさ、しようよ。お母さんたち、きっと後で見るよ。ぬいぐるみとか棚の裏からさ、小さなカメラを取り出してSDカード引き抜いてさ、パソコンに差し込んでデータ開いて。見るんだよきっと。だから」

「ちょっ、待って、マリ」

「待たない」

 そう、ちょうどこんな感じだった。魂が剥がされ、別のものに貼り換えられたときに感じた、あの感覚は。手狭な部屋の中に、粘膜がこすれる音と、湿っぽい吐息が響く。ときおり目を開くと、マリの肌荒れとは無縁な顔の皮膚と目が合った。頬や首筋を、彼女の髪の毛が蛇のように行き過ぎるたび、ほんのりと外国のガムみたいな甘ったるいにおいがする。


 マリの背中に回していた腕が、彼女の体の動きを伝えてくる。口腔を繋げたまま、胸元のリボンを取り、ワンサイズ大きいベージュのカーディガンのボタンを外していく。部屋中に開いた目玉が、いっせいにきゅっと虹彩を細めていく気がした。腕と唇をマリから離し、わたしも様子を見ながらブラウスのボタンに手をかける。ばさ、ばさと羽ばたきのような音が断続的に積み重なる。まるで蟹の脱皮のごとく、わたしたちは固い殻を脱ぎ捨て、柔らかい中身を互いに晒していった。マリが、舌で口の端をぬぐう。わたしは手の甲を自分の口へ押し当て横に引いた。かすれた絵の具みたいなグロスの跡が、白い肌に残る。ふたりぶんの色が混ざっていた。


 好き。目の前の女がなにか言った。その瞬間、わたしたちは再び接続した。今度は、より多くの部位で。彼女を受け入れながら、わたしはホットヨガに行っているであろうママたちのことを思った。適度に熱された室内で健康的に汗を流し、休憩時間にはキウイやオレンジの薄切りなんかが入ったデトックスウォーターを飲んで微笑む彼女たちは、もうただの人形だ。心はもう、とっくにわたしたちに移ってしまっている。家から徒歩十五分のジムにいるママたちの体は、余生を『一般的な人生を歩む女性』として生きるだけの肉塊だ。本体は、ここにいる。中身を引きずり出してすげ替えて、セックスに興じている。


 でも、わたしはママとしてマリのママと交わりつつも、同じクラスのトシオくんという男子のことが頭から離れずにいた。これが終わったら、きっとマリは冷蔵庫を開け「おやつにしよう」とそこに収められたゼリーを選ばせてくるはずだ。そうしたら、それを食べながら携帯でラインを送ろう。

 まだ、週末のデートの予定が決まっていない。



   ♡


 本当にひとりで大丈夫か。今朝方、仕事に行くコタロウの不安げな顔と声を胸の中で転がしながら電車へ乗り込む。窓の外には大きな川が映っていて、土手の上を歩く人や川面にかけられた橋を渡る乗用車が、きらめく日光を受けて色鮮やかに輝いていた。

 何度か乗り換えをし、一時間半ほど電車に揺られてたどり着いたのは、わたしの実家の最寄り駅だった。改札を抜けロータリーに出ると、一気に懐かしさが去来した。高校を卒業して大学に進学したきり、ここには帰ってきていなかった。


 少しずつ記憶をたどりながらバス停へ向かい、町の外れへと進むものを選んで乗車し、六つ目の停留所で下車した。巨大な病院が、目の前にそびえ立っている。その前には噴水と、よく手入れされた花壇も併設されている。事前に聞いていた通り、ホテルのようなつくりだ。

 ロビーへ入り、ふかふかとした絨毯を踏みながら受付で面会希望の旨を伝え、案内を受ける。吊り下げられたシャンデリアの光を浴びながらエレベーターに乗り込むと、ようやく張りつめていたなにかがぷつりと切れた。その場に座り込みそうになるのを、なんとかこらえる。

「なんなのこの病院は」

 普通の病院とは比べものにならない入院費、そこらへんのホテルより考え抜かれた病院食、あり得ないくらいの高級な設備と充実したケア。送付されてきたここのパンフレットをぺらぺらとめくりながら、めまいがしたことを思い出す。うちは、こんなところでは無理だなあ。コタロウの笑顔を噛みしめながら、開いたドアから廊下へ踏み出す。とたんに、小さな子供の声が耳に届いた。いたるところに家族や看護師がいて、車輪のついたかごを一様にのぞきこんでいる。


「あ、来てくれたんだ」

 病室を訪ねる前に、目的の人物はすぐに見つかった。こちらは? 幼なじみなの。ごめん、席外してくれる? 視線の先で、彼女は隣にいた男と言葉を交わす。積もる話もあるでしょう。ごゆっくり。紺のブレザーを着た男がわたしに会釈をし、遠ざかっていく。その顔を見ることは、どうしてもできなかった。

「び、びっくりしたよ。どうして今の家がわかったの」

「わかるよ」

 まさか、大丈夫だと思ってたの終わったと思ってたの。ベンチに座ったマリが、笑顔をわたしに向ける。幼なじみとの、久しぶりの再会。それなのに、まったく心は踊らない。むしろその逆だった。


 トシオくんのことが頭をよぎったあの日以来、わたしは呪いを解くことを少しずつ進めた。目が、覚めたような気がしたのだ。魂とか入れ物とか、ママたちが押しつける他人の絶望と憎悪なんて、くだらない。どうして今まで気がつかなかったのだろう。そう思ったのだ。わたしはわたしでしかないし、そもそも、乗っ取られてなんかいない。すべてを、自分で規定してしまうことなんてないのだ。


 だがもちろん、ママたちはそう考えていなかった。だから、ばれないように少しずつ、蝶の幼虫の体を寄生バチの幼虫が食い荒らすかのように、秘密裏に準備を進めた。そして進路決定と共に計画を実行に移した。嘘で言いくるめて遠くの大学へ行き、一方的に連絡を絶った。入学時に告げていた住所も無意味にするため、入って一ヶ月で引っ越しをした。呪いは、薄まったはずだった。


「今はね、いろいろ便利なサービスや仕組みがあるの。いくらでも、調べられるのよ」

 目の前の女はマリそっくりの顔で笑うと、なんの脈絡もなくそらでどこかの県名と郵便番号、住所に電話番号を平坦な声で読みあげた。だがそれは、どこかの、ではなかった。そこはコタロウの、わたしの夫の実家の住所だった。

「だめじゃない。と結婚するなんて」

「あの人を、どうにかするつもり」

 トシオくん、みたいに。女の歯茎が、剥き出しになる。


 マリは、呪いから抜け出せなかった。いや、正確に言うなら、マリは本当にわたしのことが好きになってしまったのだ。あの異常極まりない日々の中で、愛を芽生えさせてしまったのだ。しかし、当然ながら、魂だ入れ物だ生まれ変わりだと刷り込まれてきた状態で、そんなものが正常に育っていくはずもなく、ある日、わたしとトシオくんの関係に気づいた彼女は。

「あんたは悪くないわあいつが悪かったのよ、異性愛者がね、悪いの。だから、いなくなってもらっちゃった」

 細い手が、かたわらのベビーカーを揺する。一瞬だけ、マリの姿がそこに戻り、嫌な記憶がフラッシュバックする。落書きだらけのノート、罵詈雑言で埋まったライングループ、昇降口に飛び散った血痕。それでもなんとか生き残った彼は今、きちんと日常生活を送れているのだろうか。


「変なこと思い出させないで。コタロウに同じようなことしたら許さないよ」

「えーだって悲しかったんだもん。セックスまでしたのに、突然私を拒絶するから。お母さんにも殴られたり蹴られたりするし。あんたが頑張らないと私たちは繋がれない、私はあんた、あんたは私とか言ってさ」

 でも、今は違うから。突然、マリがわたしの手をとった。ぞっとするほど冷たくて、小さく悲鳴をあげてしまう。昔、ちょうどグロス跡がついたところ辺りを、彼女は親指で撫でさすった。

「あのときはまだ段階が違うと思ったの。だって高校生だったしさ、まだ時間もあるしゆっくりゆっくりと思ってたのよでもあんたどこか行っちゃった。でね、だから、数年前にしかるべき場所で調べてもらったの、そしたら、びっくり! 結婚してるっていうじゃない。そのときは、その瞬間まではいけるいける大丈夫だと思ってたんだけど、それで、それで、ああじゃあもうこれでいこうって決断したの」


 だから、作った。だから、呼んだ。来てくれて嬉しいよ。ほら、見て。


 脳の奥がじんとしびれ、言葉の意味がうまく飲み込めない。その状態でわたしは女に手を引かれ、隣へと腰を下ろした。ベビーカーが、こちらへ向けられた。ふんわりとしたタオルの中に、目を閉じた赤ちゃんがすっぽりと収められている。

「あんたがもう好きじゃないなら、気分転換しよう。たまには新鮮な気持ちになるのも大切だよ。煮詰まりすぎたら、できるものもできなくなる。だから、さ」


 作ってよ。女が顔を近づけ、耳元で毒のこもった息を吹きかける。それにつられるように手を伸ばし、わたしは赤ちゃんの肌に指を押しつけた。ぐじゅっ、という水っぽい音が頭蓋の中で響き、粘つく甘みがのどの奥から舌めがけてゆっくりと広がっていく。ベビーカーの中の塊が、小さくむずかっている。

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腐敗する桃 大滝のぐれ @Itigootoufu427

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