二枚のチケット
玉山 遼
二枚のチケット
「ねーえ、カナ。もうやめようよ」
下校時刻少し過ぎ。一年B組の教室から飛び出して、保健室にミキちゃんを迎えに行ってから、高校の最寄り駅まで喉がぜえぜえ喘ぐほどに全速力で走り込む。
やめようという割にミキちゃんは私より先に駅についているし、改札を通っているし、下り列車のホームにあるいつものベンチで席を取ってくれている。なんだかんだで乗り気なのだ。
ホームの中ほどにある自動販売機でココアを買って、いつものベンチに座る。あったかいのとつめたいのと迷ったが、身体がほかほかしているのでつめたい方にした。ミキちゃんはいつもなにも飲まない。
「六月の定演終わったら会えなくなっちゃうんだよ! その前に受験のお守り……」
「重たい」
ミキちゃんは一蹴する。
「重いかなあ」
「うん。重いよ。やめておきなって」
大体部活すら違うのにお守り渡されたら先輩だって困るでしょ。と始まったミキちゃんのお小言を、私は半分受け流して聞いていた。ミキちゃんは小さい頃からお姉さんのように、頼りない私にこうやって言っていた。それを私は、半分ほどしか聞いていなかった。
だからこんなになってしまったのかな。いつもぼんやりしていて、成績もさほど良くなくて、凡庸な私に。
ミキちゃんは小さい頃からなんだってできた。足も速かったし、頭の回転も速い。高校でも文武両道と名高かった。
だけどミキちゃんは部活の最中、足を怪我してしまった。それから部員と会いたくないと言い、保健室に通っている。憐れみの目で見られるのが嫌だったそうだ。怪我を機に、部活も辞めた。
ミキちゃんの剣道着姿、格好良かったんだけどなあ。残念。そう思いながら、私はミキちゃんと吹奏楽部の大倉先輩を見るためだけに、部活がない水曜日だけ学校から駅までを全速力で駆け抜けている。
「あっ、先輩」
ぼんやりと階段からホームに降りてくる人を眺めていたら、その中に一人、光る人を見かけた。私には、光るように見えていた。
「あ、井上さん」
「お疲れさまです」
「気をつけて帰りなね」
家で練習するようにか、黒くてつやつやしていて少し傷のある楽器ケースを片手に持ち、もう片手で私とミキちゃんの方に手を振った。
「やっぱり光ってるなあ」
「その感覚、私には分からない」
「そっかあ」
先輩を見送ってから、私たちも電車に乗る。家の最寄り駅は私もミキちゃんも一緒だから、その間話したりスマートフォンを見たりする。
「ね、ドーナツ食べて帰ろ」
「ん」
でこぼこしているような私たちだけど、なんだかんだ、仲良くやっている。出会ってからもうすぐで十周年だ。
ミキちゃんはいつもきりっとしていた。それは髪をひっつめて作られているポニーテールで、顔が引っ張られているせいもあるのだろうけど、それだけではない、凛とした佇まいがかっこいいなあ、と私はいつも思っていた。
最近、ミキちゃんは髪を下ろしている。前髪も作った。すると一転、少し気は強そうだけど、どこか優しそうな、お姉さんみたいな雰囲気を醸し出すようになった。私がいつも感じていたみたいな。
何で前髪作ったの、そう訊いたら部活を辞めて防具に身を包むこともなくなったからだ、と言っていた。面をつけるときは髪を手ぬぐいで纏める必要があったけど、今はもうその必要もないから、と。
するとミキちゃんは途端に異性から、女の子として見られ始めた。
D組の寺田、分かる? 寺田未樹。ああ、あいつ? 可愛いよな。そんな噂が、私のクラスでも立った。
だけどそれはすぐに終焉を迎えた。ミキちゃんが、私好きな人いるから、と一人の男子生徒の告白を断ったことによって。
そこからはミキちゃんの好きな人が誰なのか、憶測する奴らが出始めた。ミキちゃんと仲の良い私にわざわざ訊きに来る、よっぽどの奴もいた。ミキちゃんは辟易するよ、と保健室でぼやいていた。
「別にいいじゃんね。私が誰を好きだって。どうせ同学年には興味ないんだから」
ミキちゃんが保健室登校を始めてから、私の成績は上がった。授業のノートをきちんと取っておかなくてはあとでミキちゃんが困るし、ノートを見せながら一緒に復習もできる。それまで私は授業中もぼんやりしていたし、落書きをしたり、酷いときにはずっと眠ったりしていた。
ぼんやりの中身は、大体が空想だ。もし空が割れたら、なんて大げさなことは考えないけれど、もし明日雨が降ったらお気に入りの傘を差そう、とか些細な空想をする。それから家にいるたくさんの友達のこととか。
今日は木曜日だから、大倉先輩は楽器に打ち込んでいるはずだ。放課後、保健室まで聞こえてくる吹奏楽の音色に耳を傾ける。六拍子で、どこか海を思わせるような曲だった。
ミキちゃんと別れて、玄関の鍵を開ける。まだ誰も帰っていない。
「ただいまっ」
私はベッドの上に座っているたくさんの友達に声をかけた。友達は、何も言わない。けれど「おかえり」と聞こえてくる。
くま、ねこ、いぬ、さめ、いか。大地のいきものに、海のいきもの。それから茶色のうさぎ。
たくさんの友達は、黒くてつやつやした目を宙に向けている。大倉先輩の楽器ケースみたいな色。
「今日もごめんね、狭かったね」
通学鞄から、ピンクのうさぎを出してあげた。私はいつも、この子を学校へ連れて行っている。ピンクのうさぎは茶色のうさぎと同じ型、少し古ぼけていて耳は垂れ気味。そこも同じだ。名前はサクラ。茶色の子はモカ。
サクラは話しだす。
「はぁ、苦しかった。カナ、いつも私をこんなところに押し込めて、酷いんだから」
「ふふ、ごめんね。でも行きたがったのはあなたでしょ」
この子の話し方は少しミキちゃんに似ている。私を
「ずっと鞄から出してくれないくせに」
「下手したら没収されちゃうからね。あなたなら外が見えるはずだから」
会話は、私の口と頭の中だけで行われる。それはそう。ぬいぐるみは喋らない。
だけど小さなころから、ぬいぐるみとのお喋りが大好きだった。小学校を卒業するころには「もうお姉さんだから」と喋ることをいったんやめたけど、最近またお喋りをするようになったのだ。
「今日はね、ミキちゃんが――」
話を始めると、皆が耳をこちらに向ける気配がする。相槌を打つ子もいれば、ただ黙って聞く子もいる。どの子も、少しずつ違う。
ミキちゃんの話、帰り道に咲き始めた花。さまざまな話をしているうちに、夕ご飯の時間になって、またあとで。
リビングでご飯を食べている間、母親はもういい加減ぬいぐるみと話すのはやめたら? と苦言を呈したが、私は曖昧に答えた。
三時間目、倫理の時間に先生が「脱線」をした。
「うちの子ども、一人っ子なんだけどさ。『イマジナリー・フレンド』がいるんだよ」
倫理の先生は子どもの話をすると目尻が下がる。よっぽど好きなんだろう。
「イマジナリー・フレンド」。聞き覚えのない単語に、クラス全体が少しだけ騒めく。
「『イマジナリー・フレンド』っつーのは、まあ簡単に言えば空想の友達だ。空想の中だけで、本人にしか見えない友達。宙に向かってお喋りしてるから、最初ビビった」
そう言うと、クラスの女子の誰だかが「可愛い」と口にする。なんだかクラス全体が、ほんわかした雰囲気に包まれた。
「長男や長女、それから一人っ子はイマジナリー・フレンドを作りやすいらしい。この中でも覚えのあるやつ、いるんじゃないかな」
私のぬいぐるみたちは実在しているから、イマジナリー・フレンドではないのだろう。でも、何となく気になって、ノートの端に「イマジナリー・フレンド」と書きつけた。
その文字を見て、ミキちゃんはなにこれ、と首を傾げる。
「空想上の友達のことなんだって」
保健室で一緒に自習をしているときのことだ。
ミキちゃんは保健室の端っこにいつも居座っている。他の生徒から見えないところで、静かに本を読んだり自習したりしている。今後のテストも特別に、ここで受けさせてもらうらしい。
「へえ。そういえばカナ、ちっちゃいころ、ぬいぐるみとお話ししてたよね」
「私もそのこと思い出した。ぬいぐるみは実在するから、イマジナリー・フレンドに入らないのかなあ」
「うーん、入れてもいいんじゃない?」
でもぬいぐるみは実在してるよ。うーんでもなあ。そんな会話を、ミキちゃんはこう締めくくった。
「カナ、今でもいるでしょ。イマジナリー・フレンド」
ぎくりとする。ミキちゃんにはぬいぐるみを連れてきていることも、家でおしゃべりすることも話していないのに。
「全部お見通しかあ」
「まあね」
少し困った顔をしたミキちゃんは倫理のノートを写し終えた。丁寧にイマジナリー・フレンドまで書き写している。脇には少し耳の垂れたうさぎの絵も描かれていた。
窓の外では陸上部の面々がトラックを延々と走っている。別に延々と走っているわけではなく、何週走るのがウォームアップとかなんだとか決められているのだろうけど、ずっとそのトラックから離れないんじゃないか、地球が太陽の周りを回っているのと同じように離れられないんじゃないか、なんて思ってしまう。
それは私とミキちゃんの関係にも似ている。
ミキちゃんはいつも多くの人に囲まれていて、私には眩しいほど。だけど離れ難くて、離れないでいた。ミキちゃんからの恩恵を受けっぱなしで、私は何のお返しもできないでいた。
だから最近になってようやく、僅かかもしれないけど恩返しができて、ちょっとだけ嬉しい。
その日も一緒に帰った。ミキちゃんの足は、もうすっかり治っている。
終業式前最後の水曜日。例によって私とミキちゃんは駅まで猛然と駆け抜けて、大倉先輩を見ようとベンチで待ち構えていた。
「あーあ、今日でしばらくお預けかぁ」
「春休みばっかりは仕方ないよ」
そうぼやきながら待っていると、大倉先輩が現れる。相変わらず私には光って見えるので、ひとめで先輩だと認識できる。
「お疲れさまです」
会釈をすると、大倉先輩も会釈をしたようだ。光の形がそう動いた。
光はそのままやってきた電車に吸い込まれるかと思いきや、電車が過ぎ去ってもなお私たちの前で止まったままだ。
あれ、どうしたんだろう。ミキちゃんは怪訝そうな顔をする。
「井上さん、あのさ」
今までになく、強張った声だった。私たちの行為を咎められると思うと、心臓が今までで二番目くらいに速く鼓動を打った。
「春休み中、暇な日ある?」
しかし、投げかけられた言葉は思っていたものと大きく異なっていた。春休み中の暇な日なんて尋ねられて、今度は私が強張る番だった。え、と間抜けな声が漏れる。
「よかったらなんだけど、映画行かない?」
すると光っていた大倉先輩は、じんわりと、ゆっくりと、光を失っていった。そこにいたのは、耳の端を真っ赤にした、ただのひとりの男の子だった。
ミキちゃん。ミキちゃんはどう考えているんだろう。断ったら? と言ってくれないだろうか。だって、だってミキちゃんは。
「――いいじゃん、行ってくれば」
言い残して、すぐに来た電車に乗って先に帰ってしまった。待って、と引き留める間もなく。
大倉先輩は、ミキちゃんを見ていなかった。その現実を突きつけられてしまう。薄々感づいてはいたけれど、こうまざまざと思い知らせなくったって、いいじゃないか。
だけど私に断る勇気はなく、おずおずと頷いて連絡先を交換してしまった。
「そんなの酷い。しっかり断るべきだったんじゃないの」
その場に居合わせたサクラに、あとで怒られた。だけど、でも、言い訳を続ける私に向かって、サクラは言い放つ。
「カナ、本当は大倉先輩のことなんて好きじゃないんでしょ」
「それは」
それは、その通りだ。私は大倉先輩のことは特別好きじゃない。親切な人、と思うだけだ。それなのに光って見えたのには理由があるけど、サクラには話せない。
大倉先輩のことを好きだったのは、ミキちゃんだ。ミキちゃんが受験のお守りを渡したいと言い出した。それなのに、いざ渡すとなると恥ずかしいからって重いだの、やめた方がいいだの、他人事で。
しかも、大倉先輩の目にミキちゃんは映っていなかった。あんなに可愛くて、優しいミキちゃんを見ていないなんて。私には信じられないことだけど、実際はそうだった。
どうしてこんなに現実は残酷なんだろう。明日、どんな顔をしてミキちゃんに会えばいいだろう。
そんなことを思って悶々としていたのに、翌日からミキちゃんは学校に来なくなってしまった。終業式の日も、会わなかった。
春休みの天気のいい日に、大倉先輩と映画を観に行った。
映画の内容はよく分からなくて、半分聞き流していた。ミキちゃんのことばかりを考えていた。
あれからミキちゃんに会っていない。メッセージを送っても、電話を掛けても、何の音沙汰もない。
一緒に課題をやろうと思っていたのに。おまけに好きでもない人と、好きでもない映画を観るなんて、つまらないことこの上ない。
でもそんなこと言ったら、ミキちゃんに怒られてしまうんだろうな。せっかくなんだから楽しみなよ、って。
大倉先輩は映画を観終ってから、お昼をご馳走してくれた。お互いに高校生で、先輩は楽器やら何やらで私よりお金が掛かるだろうに。
そのことを言ってお昼を断ろうとした。でも先輩は、
「俺はトランペットだから、木管ほど金が掛かんないんだ」
と言い張って私の分も払ってくれた。
そうだった。先輩はトランペットを吹いていたんだった。ミキちゃんは当然覚えていたんだろうな。そう思うと、なんだか泣きたくなる。
終業式が明けたら、ミキちゃんは学校に来てくれるだろうか。
私の学年は一つ上がって、クラスはD組になった。去年度ミキちゃんのクラスを担任していた先生が、私の担任となった。
ミキちゃんのクラスは、あまり関係ない。ミキちゃんは今年度も保健室にいるだろう。
放課後、保健室に行きいつもの場所に行くと、ミキちゃんは何事もなかったかのように問うてきた。
「カナ、何組だった?」
「……D組」
「ああ、担任はあいつか。課題の提出とかうるさいから、頑張って」
ミキちゃんはいつも通りで、休んでいた分のノートを見せるとすぐに写し始めた。でも、水曜日のダッシュは無くなってしまった。
ときどき、大倉先輩からメッセージが来る。俺もう少しで引退なんだ、とか、そういうこと。そんなことはミキちゃんから聞いて知っている。
もう連絡しないでください、と言うわけにはいかないから適当に返事をしているけど、サクラが言うことには、
「気のない人に返事をする方が酷だから、無視しなよ」
とのことだ。
ミキちゃんと大倉先輩の間で、私は板挟みになっている。
そんなことより、早くミキちゃんからのお守りをどうにかしないといけないのに。買ったまま、紙袋に入ったままのお守り。一緒に選んで、渡そうとしていたのに、ミキちゃんは引け腰になってしまって、そのまま。
どうしたらいいんだろう。わかんないよ。
ぬいぐるみたちに相談しても返事はない。こういうときばかりは皆黙ってしまう。
そんなとき、大倉先輩から受験勉強の息抜きに付き合ってくれないか、という連絡があった。
では、これで連絡を取るのは最後にしよう。ミキちゃんに悪いと言おう。
決心して、行きます、と返事を打った。
その日は曇っていて、一雨降り出しそうに空気が湿っていた。
大倉先輩はショッピングモールに行きたいと言っていたので、その最寄り駅に集合した。
先輩はなんだかおしゃれっぽい恰好をしている。私はトートバッグに適当な薄手のニットと、適当な柄の入ったスカートを身に着けていた。トートバッグの中にはサクラが入っている。断る勇気をもらうために連れてきたのだ。
なんだかおしゃれっぽい服屋を見ても特に何の感想を抱かない。私はおしゃれに興味がない。先輩は、本当にただの息抜きのつもりだったんだろう、ついでに私を誘っただけで。そう思うと少しだけ気が楽になった。
お互いに足が疲れたころ、ショッピングモールの中にあるカフェに入った。そこで大倉先輩は、受験勉強のことや最後の定期演奏会のことなんかを話した。
「もしよかったら、井上さんも来てよ」
「ありがとうございます。ミキちゃんと一緒に行きますね」
私はそう微笑んでから、もう会うのはやめませんか、と切り出そうとした。だけど、切り出せなかった。大倉先輩の少し怯えたような声に、遮られてしまった。
「あのさ。そろそろ受け入れてあげなよ」
「何を、ですか」
わかっている。この先の言葉はわかっている。何が続くのか。どんな話をとくとくと語られるのか。経験上、わかってしまっている。その後の先輩の、私への接し方が変わることも。
生まれてから一番、心臓が早く脈打っている。あのときと、同じくらい。
「その、寺田さんも浮かばれないと思うよ」
胸のあたりを強く握り絞められたような痛みでも、あのときの未樹ちゃんの痛みには到底及ばないのだろう。それでも私は、痛みに耐えるようにぎゅっと目を瞑った。
「どういうことなの、カナ」
帰り道の途中、トートバッグの中からサクラが私を見上げていた。雨が強くて、差している折り畳み傘がしなるほどだった。
「未樹が浮かばれないって、どういうことなの」
困惑して、何度も何度も電車の中でも、同じことを問い続けた。家に着いたらね、と濁しても、問い続けた。
未樹ちゃんは、あの日突然、命を奪われた。
ホームの先頭で電車を待っていたら、後ろの人に突然強く押され、無抵抗のまま線路の上へ落ちて、そこへ来た電車に撥ねられて、亡くなった。
そのことを話すと、サクラは静かに泣いた。「サクラ」と未樹ちゃんによって名付けられていたうさぎは、未樹ちゃんの死を知らなかった。
サクラは、未樹ちゃんの家で帰りを待っていた。だけど未樹ちゃんは帰ってこなかった。主人が亡くなったことなど知るよしもなかった。サクラはぬいぐるみだから。人間のように、誰も気にかけてくれないから。
捨てようにも捨てられないから、とおばさんは泣きながら私にサクラを譲った。私は未樹ちゃんの死を伝えられなかった。何も知らないサクラに、未樹はどこ、捜したいから学校へ連れて行って、とせがまれて、断れた試しがなかった。真実を伝えられぬまま、今日になってしまった。
その晩、眠れなかった。未樹ちゃんがホームへ落とされた瞬間を、私は近くで見ていた。なのに何もできなかった。その後悔が、ぐるぐるとしていた。
未樹ちゃんを押した犯人は、その場からすぐに走り去った。私は衝撃で動けないまま、それを目で追っていた。心臓がひどくうるさかった。
その犯人を捕まえたのが、大倉先輩だった。
犯人が走り去ろうとした瞬間、その場にいた先輩は手にしていた楽器ケースをかなぐり捨て、犯人を取り押さえた。そして大声で救援を要請し、何人かの男子生徒で取り押さえ、その間に他の誰かが駅員に事件の発生を伝えに走った。
真っ黒でつやつやと、傷一つなく輝いていたケースは、その一件で傷がついてしまった。もしかしたら、楽器にも傷がついたかもしれない。
おじさんとおばさんは申し訳ないから、とお金を大倉先輩に渡そうとしたが、先輩は固辞した。それ以降、先輩が光って見えるようになったのだ。
私はぼんやりしていて、何もできなかった。反対に先輩は、未樹ちゃんこそ助けられなかったものの、犯人の逃亡を阻止したのだ。光って見えて、当然だろう。
どうして私は何もできないんだろう。大切な人すら守れなくて、しかもその死を受け入れることすらできずに、ミキちゃんを見て、聞いて、感じている。
霊なんて現実にはいないことくらい理解している。それでも、ミキちゃんが見える。聞こえる。いや、見ようと、聞こうとしているだけなのかもしれない。
「カナ」
今晩はミキちゃんが傍にいる。普段は外でしか会わないのに、今晩は、ミキちゃんの幻影が傍にいる。
「大丈夫だよ。カナは何も悪くないんだからさ。悪いのは私を押した奴だけだよ」
そうなのかな。本当にそうなのかな。わからないよ。私にはわからない。
翌朝、あまりにふらふらするので、授業を休んで保健室にいた。
未樹ちゃんがいつもいた場所。未樹ちゃんが亡くなった後も、私はひとりミキちゃんとそこで話していた。
未樹ちゃんと最後にした会話は何だったっけ、どんな顔をしていたっけ、どんな声だったっけ。徐々に薄れ始めている記憶。
保健室の先生は、今日はゆっくり休みなさい、とベッドに案内してくれようとしたけれど、ベッドがあるところからさらに奥の、未樹ちゃんの定位置に私はいた。
「ねえ、ミキちゃん」
「なに?」
ミキちゃんは何事もなかったかのように首を傾げる。長い髪がさらりと揺れて、触れようと手を伸ばすけれど、触れられない。
「私ね、先輩とショッピングモール行ったよ」
「知ってるよ」
ちょっとすねたような声も、言葉と雰囲気を受け止められはするのに、声色だけが擦れて、薄れて、わからなくなっていく。
「それでミキちゃんのこと話したら、いい加減に受け入れなよって言われちゃった」
「ごもっともなんじゃない?」
「それでいいの?」
ミキちゃんはこっくり頷く。
「だいたい、私はカナの、えーっと」
「イマジナリー・フレンド」
「そうそう。だから、受け入れても消えることはないんじゃない? わからないけど」
「消えちゃいそうで怖いよ」
まあねえ。気持ちはわからないでもないけど。ミキちゃんは首を捻って悩み始めた。
私の都合の良いように、ミキちゃんは話してくれるし聞いてくれる。だけど、その中に未樹ちゃんの死が存在し始めたのなら、ミキちゃんは私の想像の中でも死んでしまうんじゃないか。もう現れてはくれないんじゃないか。そう、思っている。
今日、サクラは家で休んでいる。昨日の話を聞いてからショックを受けているようだったから。
主人の死を聞いて今は辛いのだろうけど、サクラはいつか受け入れるだろう。そうして大倉先輩と同じように、そろそろ受け入れたらと言うのだろう。
だけど私は。私はいつまでもここで立ち止まったままだ。保健室の先生の厚意に甘えてミキちゃんと喋り続け、未樹ちゃんの死を受け入れない。
もし私が未樹ちゃんの死を認めたら、未樹ちゃんは魂ごと消えてしまうのではないかと、怯えている。
おじさんとおばさんは、未樹と仲良くしてくれてありがとう、とお葬式で私に言った。いつもその言葉の後ろに続いていた、「これからもよろしくね」が無くなってしまった。「これから」を奪った犯人よりも、何もできなかった私への失望が、ただただ押し寄せる。ミキちゃんと話していないと、押しつぶされてしまいそうになる。
ミキちゃんに依存しているようなものだ。前に習った、偶像崇拝のようなもの。
ぐるぐると考えはめぐる。保健室の先生にはカウンセリングなどを受けたらどうかと提案されている。そんなもので解決できるならいくらでも相談する。そんなもので、未樹ちゃんが帰ってくるのなら。
あの日の一件から、大倉先輩とは連絡を取っていない。
もうすぐ新学期が始まって一ヶ月だ。先輩も定期演奏会に向けて忙しいだろうし、あの日先輩にとって変なことを言った私には、もう興味がないのだろう。
風が緑色をしているような気がした。葉桜や新芽の周りでは、新しい命が蠢いている。私は相変わらず授業をきちんと聞いているし、ノートもしっかりとっている。体育の授業では剣道が始まった。ミキちゃんは傍で
あの日からミキちゃんは保健室を抜け出して、私の教室や柔剣道場に遊びに来るようになった。そのときには、心の中で話しかける。笑っていないで、転ばないコツを教えてよ。
「そんなの、自分で身につけるの。剣道部員見たらいいじゃない」
そう言って、ミキちゃんは素振りの真似事を始めた。その姿はうつくしい。
もう一度、剣道着を着た姿を見たいなあ。そう話しかけると、もう捨てられちゃった、と返された。
おじさんもおばさんも前を向こうと必死に頑張っている。私はそのことを忘れようとして、竹刀を握る力を強めた。
「それじゃダメ。ぎゅっと握るのは下の方を支えている左手だけ。右手はそっと添えるの」
それだけ言い残して、ミキちゃんは柔剣道場から出て行ってしまった。言われた通りにすると、少し素振りがしやすくなった。
放課後、保健室に寄った。すると大倉先輩が脛に消毒液を吹きかけていた。
「あ、井上さん」
「……こんにちは」
目を逸らすが、大倉先輩は何事もなかったかのように話しかけてくる。話半分に聞いていたが、六時間目のサッカーでスライディングをして怪我をしたことはわかった。
「あのさ、この後ちょっと時間ある?」
ミキちゃんと自習するので無理です、と言いたかったけれど、うまく口に出せなかった。
「すぐ終わるから、ちょっと待ってて」
先輩は教室に戻って、制服に着替えて鞄と少し傷のついた楽器ケースを持ってきた。そういえば、今日は水曜日だ。
二枚の、色とりどりなチケットを差し出す。ぼんやり見つめていたら、受け取ってよ、と少し困ったような声を出した。
「定演のチケット。二枚用意したから、寺田さんと一緒に来て」
顔を上げると、先輩は微かに笑っている。緑色の風が、僅か開けた窓から吹き込んでくる。
そういえば未樹ちゃんは去年、定期演奏会のチケットを手にしていたときからそわそわとしていた。
どこで大倉先輩を見かけたのだろう。もしかしたら、入学式での演奏で見かけたのがきっかけだったのかもしれない。
「クラスの吹奏楽部の人が、チケットさばけないって困ってたから二枚貰った」
そんな言い訳をして、でも私は最初言い訳だなんて気がつかなくて、うんいいよと興味のない吹奏楽を聴きに行った。
トランペットの高らかなファンファーレ、と言うのだろうか。その音で始まった曲は、明るくて演奏会の始まりにぴったりの、素人でも良いと思う曲だった。後からプログラムを確かめたら、なんとか序曲と書かれていた。
そのファンファーレを吹いていたのが、大倉先輩だった。普通は三年生が吹くだろうけど、実力で選ばれたんだろう。そう未樹ちゃんは言っていた。
あの日から未樹ちゃんは、私に相談事をするようになった。相談事をする未樹ちゃんの表情は困っているのにどこか楽しそうで、きらきらしていた。
「ありがとうございます。行きますね」
鼻の奥がちょっとつんとしたけど、私は明るい声を出した。
「行く。行くに決まってるでしょ」
保健室の奥でミキちゃんは声を弾ませた。そして、これで最後だね、と呟いた。
「最後?」
「――ほら、先輩は今年で引退でしょ」
そうだね、受験勉強、頑張ってほしいね。そう返事をしたけど、どこか含みのある言い方が引っ掛かった。そして、言わんとすることを理解した。
「ねえ、お守りどうしようか」
「持っていこうよ、最後なら」
「そうね。私の代わりに、渡してくれる?」
頷き、その日を待った。
定期演奏会のその日の朝、未樹ちゃんの家に行った。久しぶりにお会いしたおばさんは、お線香をあげてくれない? と頼んだ。私はまだ、未樹ちゃんにお線香をあげたことがなかった。
遺影は前髪を作った後の未樹ちゃんだった。お姉さんのように柔らかく微笑んでいる。
未樹ちゃんは、こんな顔で笑う子だった。満面の笑みをあまり見せない子だった。定期演奏会が終わったら、先輩にお守りを渡したら、見せてくれるだろうか。
お鈴を鳴らし、手を合わせる。横にいるミキちゃんを横目で見ると一瞬目が合って、じきに逸らされた。
トートバッグの中には、大倉先輩へのお守りが入っている。
定期演奏会は、去年とは違う始まりだった。フルートが優しい音を奏で、そこから徐々に盛り上がるように音が大きくなってゆく。そして観客は、音楽の渦に包まれた。ときおり、トランペットの音が強く響くように聞こえた。いつしか聴いた、海を思わせる曲もやった。
隣に座っているミキちゃんは、うっとりと大倉先輩の方を見つめている。少し潤んでいるような、別れを惜しむような、そんな目をしていた。
演奏会はあっと言う間に終わって、最後に部員たちがホールの外で見送りをしてくれた。そこには大倉先輩も立っていた。
「お疲れさまです。素敵な演奏でした」
「ありがとう。楽しんでもらえたみたいでよかった」
バッグから紙袋を出す。そこには未樹ちゃんが買った、お守りが入っている。
「これ、未樹ちゃんから。受験のお守りです」
え、と不思議そうな声を出した先輩は、手にしたお守りと私の顔を交互に見た。
「未樹ちゃんは、前から先輩のことが好きだったんですよ」
一礼して、その場を去った。ミキちゃんは私の隣で、顔を真っ赤にしてきゃあきゃあ声を上げていた。
「重いって思われたかな?」
「どうだろうね」
「カナったらそんな言い方しないでよ!」
なんだか私がお姉さんになったみたいで、ちょっと気分が良い。
しばらく騒いでからミキちゃんは息をつき、これで、思い残すことはないかな。そう言ってこちらを向く。私も、ミキちゃんの方を向いて立ち止まった。
「ありがとうね。カナ」
ミキちゃんが、私のことを
私は、未樹ちゃんが好きだった。大好きだった。これ以上ない、最高の友達だった。
「これからもよろしくね」
「しばらくはお別れだけどね」
ミキちゃんはしばらくの間、学校や私の周りを離れると言う。私が望めばいつでも戻ってくるけど、しばらくはいないからね、と念を押された。
「大丈夫だよ」
心の底から、言葉が出た。
大倉先輩がしてくれたように、席を取っておけばいい。何もできなかった自分を責めたり悔やんだりしそうになったら、サクラと一緒に泣こう。そうしてまた笑えるようになったら、ミキちゃんを呼ぼう。
大丈夫、を聞いたミキちゃんは、満面の笑みを見せた。そうして、私とは反対の方向へ歩き去っていった。
湿った風が吹く。これから雨が降るだろう。
二枚のチケット 玉山 遼 @ryo_tamayama
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