本日ポイント10倍デー!四年に一度の大盤振る舞い!

かさごさか

2020年2月29日、午後

 青崎は昼過ぎに起きた。郵便受けに突き刺さっている紙類を引き抜き、居間に戻りながら首を傾げた。広報誌が入っていないのである。

 市が毎月一日に発行、配布している広報誌は青崎にとって情報源のひとつであった。知ったところで日々の暮らしに役立つかと聞かれれば、答えに詰まるが話題づくりくらいにはなるだろう。ちなみに、今のところ話題づくりに困るような話し相手はいない。

 広報誌が無いことを疑問に思いつつ新聞の日付を見るとすぐに解決した。なるほど今日は二月二九日だったか。月初めに思いっきり寝過ごしてしまったな、と寝起きから少し自己嫌悪に陥っていた青崎は、また別の意味でため息を吐いた。

 今年は閏年。四年に一度、やってくる世間にとって特別な年。青崎にとっては特にいつも通りの日なのだが、数枚のチラシに目を通すと目立つような筆書体で『四年に一度の大盤振る舞い!』『二月二九日限定セール!』など、ずいぶん浮き足だったキャッチコピーが並んでいた。セールなんて毎週末やってるだろうに。


「・・・あれ?」


 青崎は一人暮らしである。独り言も少ない方だと自分では思っている。それでも思わず、声が出てしまったのは歯磨き粉が無かったからだ。正確に言えば、歯磨き粉のストックが無かった。昨夜、歯磨き粉を使い切ってしまい、起きてから新しいやつを開けようと前のをゴミ箱に投げ捨ててから寝たのを思い出した。

「あ~・・・」

 昼過ぎに起きたことといい、まだ二月中なことといい、起きてからため息を吐くことが多すぎる。声も出てしまう。いや、まだ二月中であることは別にいいか。


 買い物に行くか。


 ついでに食材も買って、と青崎は冷蔵庫の中身を確かめてから外出の準備をした。新聞は帰ってきてから読もう。

 外に出ると、冷たい風が通り抜けた。晴天に騙されそうになるが、今はまだ二月。遠くに見える山頂は白く染まっている。そんな季節が暖かいわけがない。身震いを一回済ませ、青崎は近所のスーパーへと向かった。


 なんだ、この人の波は。青崎は歩いて五分のスーパーに入って驚いた。店内が人で溢れかえっているのだ。お盆の時期や年末年始もかなりの人で埋め尽くされるが、何気ない普通の休日だ。ここまで混んでいるとは、やはり皆、閏年に踊らされて来ているのだろうか。正直言って、このまま踵を返したいところだが、そうなると今夜は歯磨きができない。以前、ケアを軽んじ歯を失いかけた身なので、歯磨き粉だけはどうしても手に入れておきたかった。

 覚悟を決め、カゴを手に店内を進む。休日なので親子連れをよく見る。時折、泣き声や何か抗議をしているような声が聞こえてきた。

 以前の閏年もこのような状況だっただろうか。何せ、四年前のことなので記憶が曖昧だ。去年放送されていたと思っていたドラマが実は五年前のものだった、ということが最近多くなってきた。時の流れは速い。その流れに置いて行かれないように青崎は常に情報を欲しているのだが、いまいち追いつけていない。


 買わなければいけないもの、とりあえず買ったものでカゴはそれなりに重くなっていた。はじめからカートを使えば良かったかもしれない、と思いつつ青崎はレジに行き、再び驚いた。なんだ、この列は。

 混んでいても普段は二、三人ほどなのに今日は長蛇の列ができている。某テーマパークを思い出す。行ったことはないが。

 これ以上、列が伸びる前にと青崎も並ぶ。前にいたのは女性であった。


 無事、会計を済ませた青崎は帰路につく。なんだかとても疲れた。おそらく、少し人酔いもしているだろう。西日に照らされながら、青崎は本日何度目になるかわからないため息を吐いた。恐るべし、閏年。

 家に入り、買ったものをテーブルに置いたところでインターホンが鳴った。こんな男の家に来るのは彼女くらいしかいないだろう。画面に映しだされた人物が誰かも確認せず、青崎は玄関のドアを開けた。

「―― いらっしゃ、」

「失礼します」

 青崎が歓迎し終わる前に女性が一人、半ば強引に家に入ってきた。彼女は姪の中島であった。離婚した兄の娘なので今でも姪と言っていいのか不明だが、近所同士なのでこうして青崎の家を訪れることが度々あった。今回も気まぐれに立ち寄ったのだろうと思い、ドアを開けた。中島はその両手にトイレットペーパーと五箱積み重なったティッシュの袋を下げていた。

「少し置かせてもらいますね」

「ここ、貸し倉庫じゃないんですけど」

 両手を塞いでいた紙類を玄関先に無造作に置いた中島は家に上がることなく、再度外に出ようとしていた。

「え、本当に置いていくんですか」

「買い物済ませた後にちゃんと取りに来ますから」

「まだ何か買うんですか」

「まぁ、私も人間なので。晩ご飯を食べなきゃ死んでしまいます」

「なるほど。それじゃ、預かっておきましょう」

 彼女は「私が買ったものなので使わないでくださいね」と青崎に念を押し、暗くなり始めた外に駆け出した。ヒールのある靴でよく走り出せるものだと青崎は感心しつつ、ドアを施錠した。


ピンポーン


 本日二度目のチャイムが鳴った。青崎はまた、相手を確認することなくドアを開ける。予想通り、玄関先には中島が立っていた。その手には青崎が人の波に揉まれたスーパーの袋を持っていた。

「再度、失礼しますね」

「・・・今日、そのスーパーに行ったんだけど人すごかったですよね」

「あぁ、今日はいろいろと重なりましたからね。運が悪いというか何というか・・・」

「四年に一度だからねぇ」

 その青崎の言葉に中島は「え?」という顔をした。どうやら彼女も今日が閏月だということを忘れていたらしい。それはそれとして、荷物が多いせいか中島は袋の持ち手に指を通すに手間取っていた。

「手伝いましょうか?」

「結構です。母がもう帰ってきていると思うので」

 それは手伝わない方が良い。青崎は自ら申し出たことを自ら辞退するという滑稽なことをしてしまった。

 中島の母親は神経質な面がある。その上、社会人の娘に未だに門限を課す過干渉さも持ち合わせている。別れた夫の弟と自分の娘が共に帰ってきたら地獄絵図の完成であることを中島も青崎も理解しているので、今回は見送らせてもらった。

「私だって母に言われなければこんなに買う予定、なかったんですよ」

「中島さんのとこもストックが無くなったんですか?」

 それなら自分と同じだ、と伝えると中島は呆れたというように大きく息を吐いた。

「青崎さん、」

「はい」

「ここ数日、新聞を読んでいますか? ニュースでも構いません」

 そういえば、今日はまだ新聞を読んでいなかった。

「でも、毎日読むようにはしていますよ」

「・・・前にも言いましたが、」

 中島はゆっくりとまばたきをする。

「青崎さんのそれは“読んでいる”んじゃなくて、ただ“字を見ている”だけですよ」


 それじゃあ、と中島は帰った。青崎は気をつけて、と言ってドアを閉めた。

 確かに、中島の指摘通り青崎は字を見ているだけなのだろう。世間に置いて行かれまいと情報を欲してはいるが、よほど心惹かれるような内容でなければすぐに忘れてしまう。それは蛇口からでた水が排水溝にそのまま流れていくようであった。

 テーブルの上に置きっぱなしにしていた新聞を広げる。網膜が読み取るのは感染、中止、休校など偏向的で、汚染された情報。

 なるほど、と青崎は新聞を閉じた。そして、一纏ひとまとめにするためチラシの束を手に取る。目に入ったのは『本日ポイント十倍デー』の文字。先ほど行ってきた馴染みのスーパーのものであった。なるほど! と青崎は思った。それならスーパーがあんなに混んでいたのも納得できるし、中島が「運が悪いというか何というか・・・」と言い淀んでいたのもわかる。

 圧倒的に納得のいく答えを得た青崎は、思わず一人で何度も頷く。その脳内から新聞の内容はすっかり抜け落ちてしまっていることに気づく様子はない。


数日後、「最近、どこに行っても品薄なんですよね」と中島に言ってしまい、再び呆れられるのはまた別の話。

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