さよなら僕の死にたい病

桜々中雪生

さよなら僕の死にたい病

 彼女は四年に一度、たった一日だけぼくの前に現れる。二月二十九日。その日にしか会えないひと。一応幽霊で、目を凝らすと後ろの光景が少し透けて見えるのだけど、世間一般でイメージされるような出で立ちでなく、毎回薄桃色のふんわりしたブラウスにスキニージーンズで「やあ、久し振り」なんてぼくに声を掛けてくるから幽霊と言われてもぴんと来ない。ストレートの髪の毛だって明るい栗色に染められていて、いかにも今どきの女性って感じがする。武装するようなベリーショートのぼくとは大違いだ。その武装もそろそろ解かないとな、と考えながらいつもの待ち合わせ場所に行くと、すでに彼女はそこにいて、片手をあげてやはり「やあ、久し振り」と言うのだった。


 初めて会ったのは、ぼくが十三歳のときだった。中学二年生に進級したばかりの頃、学校の帰り道でやたらと目が合うなと思っていると声を掛けられた。

「見えてるでしょ、あたしのこと」

 いきなりにかっと悪戯っぽい笑顔で妙なことを言われて戸惑いながらも「え、まあ……」と返事をすれば、

「よかった、やっと会えた」

 と何やら意味深長なことを呟く。わけのわからないことばかりで目を白黒させるぼくをけらけら笑って、あっけらかんと言い放つ。

「実は幽霊なんだよね」

 そして、「ずっと誰にも見つけてもらえなかったから、寂しかったんだ」とも。幽霊って、心霊番組でよく見るような白い服に長い黒髪を想像してしまうから、目の前のうら若い女性がまさか幽霊だなんて信じられるはずもなかった。だけど、言われてみれば何だか体が透けて見える気もするし、下校中の他の人も、彼女を避けて通る素振りがなかった。極めつけは、その中の一人が彼女の体を通って歩いていったことだった。すり抜けるところを目撃してしまっては、この世のものではないのだと信じる他ない。ぼくは彼女に促されるままに、近所の公園のベンチに腰を下ろした。


 彼女は、自分のことを語った。

 何でも八年前の閏日に交通事故で亡くなったらしい。詳しいことはよくわからないけど、閏日は他の三百六十五日とは違う特別な時間が流れているとか何とかで、この世に未練があるくせに閏日にしか姿を現せないんだそうだ。未練が何なのかはそのとき聞いたけど、途端に歯切れが悪くなって、結局教えてもらえなかった。とはいえ、他のことには快活で、「せっかく幽霊になって誰にも見られずにやりたい放題だと思ったのに、もったいないよねえ」とくつくつ笑う姿はとても十九歳には見えなかった。

「あんたは、生きてる間に悔いが残らないようにしなよ、あたしみたいにならないように。っと……あんた、名前は?」

「りょうだよ。涼しいって書いて、りょう」

「中性的な名前だね」

「うん、まあこの見た目と名前のおかげで苛められてるんだけどね」

「苛め?」

 彼女の眉がそうとわかるほどつり上がった。眉間にも皺が寄っている。公園に一人で座っているように見えるぼくへの視線が背中に刺さる。いきなり出会った、しかも数奇な幽霊に話すことではないと思うけど、背中の痛みをごまかしたくて、ぼくは早口で話した。

「ぼくんち、お母さんいないんだ。ぼくが六歳の頃、死んじゃってさ。それからお父さんもおかしくなっちゃって、今、働かないで家でずっとぶつぶつ何か言ってる。髪が長いとお父さんがぼくのことをお母さんだと思って泣き出しちゃうから、髪もばっさり切ったし、ぼく、って言うようになった。そしたら、そういうの全部奇妙で物珍しいみたいでさ、『頭のおかしい親だから、お前も変なんだ』って。別に、皆勝手に言ってるだけだし、あんまり気にしてないんだけどね」

 本当はいつも死にたくて死にたくて仕方なくて、ぼくの手首は生傷だらけなんだけど、それは言わないでおいた。夏じゃなくてよかった。暑いのにずっと長袖のぼくを不審がられなくて済む。一息で言い終えて横の彼女を窺って、ぎょっとした。彼女は、目も顔も真っ赤にして震えていた。

「何それ、おかしいじゃない」

 声を震わせながら喉奥から絞り出した低い声で言った。初めて会ったひとなのに、親友か家族のように彼女の言葉が響いていて、ぼくは「うん、でも、いいんだ」とだけ答えた。

 そのあとなぜか彼女は家までついてきて、靴も脱がずにぼくの部屋へ上がった。幽霊だから汚れないとわかっていても何となく嫌な顔をしていると、この格好で死んだから脱げないんだよ、と弁明されて何も言えなくなった。少しずるいと思う。帰り道にコンビニで買ったお弁当を食べて、シャワーを浴びたあともずっとぼくの部屋で話していると、日付が変わったとたんにぱちんと彼女は消えた。本当にその日にしかいられないんだと妙に感心したのを覚えている。それからも苛めがなくなることはなかったけど、家にいたくもなければ他にいく場所もなかったから、ぼくは何となく学校に行き、帰る頃にはいつも何か失くして帰路に就いた。どす黒い感情に埋もれて、不思議な彼女のことは次第に忘れていったけど、四年後、ぼくは高校生になっていて、彼女は消えたときのそのままの姿で消えた場所、つまりぼくの部屋に現れた。

「や、ごめんね、この間は急に消えちゃって。話し込んでてタイムリミットをすっかり忘れてたよ」

 そう言って笑う彼女を見て、ぼくは箍が外れたみたいに泣いたっけ。あのとき、嘘をついたことを謝った。死んで未練を残している彼女に、死にたい、なんてことは言えなかったけど。そのときからだ。四年ごとに、一日だけの邂逅を約束したのは。



 彼女に会うたび、ぼくは四つ歳を取っている。彼女は十九歳の姿のまま、ぼくの成長を目を細めて見ていた。



「涼は、今楽しい?」

 大学の外れの小さな池のほとりに腰掛けてぼーっと池の魚を眺めながら、彼女が言った。ぼくは少しだけ考えて、

「楽しくはないけど、つらくもないかな」

 と答えた。高校までは、ぼくのいわゆる女らしくない見た目や家庭環境に目をつけて執拗に陰湿にからかってくる人たちがいたけど、大学の空気はそれを個性として存在させていて、とやかく言ってくるような人間はいなかった。要するに、今までより格段に生きやすくなった。

「私が死んだときよりも、今の涼の方が歳上になっちゃったんだね」

 ぽつり、と彼女が零した。歳を取り、大人びているだけでなく、見た目も大人になったぼくを咎めているような、小さな棘があるように思えた。

「あたしはずっと変わらないのに、涼がどんどん歳を取っていくのを見ていないといけないのかな」

 その目は池の魚を見ているようで、何も見ていないような気がした。何て声を掛けたらいいかわからなくて、ぼくは、触れられない彼女を抱きしめるように腕を回した。互いに感覚はないながらもハッとした彼女はすっくと立ち上がって、池の上を数歩走って止まった。

「あたしの成仏と涼の寿命、どっちが先なんだろうね?」

 振り返った顔にはさっきの虚ろさはもうない。気のせいだったと言われればそれまでだけど、そうではない確信が何故だかあった。

 ぼくも立ち上がって池のすぐ側まで歩いた。さすがに池の上は歩けないから、そこから小石をひとつ投げた。

「縁起でもないこと言わないでよ」

 ぽちゃんと音をたてて池に落ちる。その近くにいた魚がざあっと一気に散った。このときの彼女は、顔は笑っていたけど、今までと違う冷たい空気を纏っていて、ぼくはぶるりと震えた。



「やあ、久し振り」

 このやりとりももう何度目だろう。ぼくはすっかり歳を取って、父さんも十数年前に亡くなってしまった。彼女は変わらず若いままで、今ではぼくが孫を見るような気持ちだった。足腰がもう強くないから、ここ数回は初めて会った公園のベンチでずっと話をしている。これから、ぼくが死ぬまできっとそのままだろう。

 不思議と毎回暖かく晴れた青空の下で、ぼくたちは談笑する。軽口を言い合う。

「君は変わらないんだね。ぼく、まだ君の名前も知らないのに」

「涼だって、もうそこまで歳取ってたら見た目はそこまで変わってないわよ」

「失礼だな。そういえば、未練が何なのかも、教えてもらってないね」

「もう、わかってるんじゃない?」

「うん。君は、ぼくが死ぬまで成仏できないだろうね」

「そうね、きっと涼の方が先にいなくなる」

「あと数年だよ。そうすれば、君もやっと解放される」

「縁起でもないこと言わないでよ」

 気心の知れた家族のように笑う。いつの間にか、笑うときに右手を撫でる癖がうつっていた。家族って、こんな風だったんだろうか。


 春の陽気が少しだけ顔を覗かせた昼下がり、ぼくは目を閉じて、彼女の行く末を思った。



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