私を忘れないで

香枝ゆき

―ぼくらの記念日―

 ぼくが他の人と違うことに気がついたのは、幸いにして早いほうだったと思う。

「去年の今日に、俺たち初めて遊びに行ったよな」

 幼稚園で遊び仲間にこういえば、そんなの覚えてない、と言われるのが常だった。

 両親に、同じようなことを言っても、そうだったっけ、という反応だった。

 みんな、なんて忘れっぽいんだと思った。

 家族は、記憶力がとんでもなく高い、ということを感じ取り、ひそかな期待を寄せていたらしい。とんでもない天才かと。

 ただ、小学校で期待はある種、打ち砕かれる。

 成績は平均的だった。

 ぼくの記憶力は、この日になにがあったか思い出すことに特化している。

 歴史には強い。社会科の歴史もそうだ。○○の乱がおきたとは何月何日、とか。

 だから、英単語とか、漢字を覚えるのはそこまでだった。

 ただ、黒板に書かれている日付を見て、その日に習ったことが紐づいて思い出されると、書けた。

 中学になると、便利だと思ったことが煩わしく思えた。

 どうも、美人な母に似て、それなりに見てくれがいい部類だったらしい。

 女子からの告白はよく受けた。

 付き合ったり、断ったり、いい思いも、いやな思いもした。

 その日が起きた日付が来るたびに、感傷に引き込まれ、一度は家のデジタル時計をぶち壊し、父親にぽかりとやられてしまった。

 数字がだめで、数学に苦手意識をもつようになり、数学のみ突出して成績が悪かった。同じ高校に合格できず、彼女には振られた。

 ひとまず第二志望であった高校の入学祝には、デジタルではなく、文字盤なしのアナログの時計を買ってもらった。

 そして、高校は進級できるか、一年のときから心配するほどだった。

 あっと言う間に、ついてけなくなった。

 ただ、自分より下だと思ったクラスメイトが、一人だけいた。

 綿貫杏子。一年の三学期という季節外れの転校生。

「じゃあ、席は織部の隣な」

「よろしく」

「ん」

 クラスの人間関係なんて出来上がっている。

 ぼくの席は、わりと男女が集まってくるから、さりげなく、綿貫も混ぜてやった。

 ほんの一、二回で、彼女は持ち前のコミュニケーション力で、比較的とけこんでいた。

 そして、気づいたことがある。

 彼女はいつだって、真剣に教師の説明を聞いていた。

 そして、他の女子と違い、ノートをきれいにとることもなく、3色ボールペンで殴り書きをしていた。

 でも、小テストの成績は散々。

 小テストの採点は隣同士で交換して行う。いつもばつをつけるのはめげた。

 ただ、英語の授業では、綿貫は饒舌だった。

「綿貫、わざと手、抜いてんの?」

 なにげなしに言ったら、彼女はひどく傷ついた顔をした。

 しまったと、思ったけど、遅かった。

 それっきり、授業以外では口を聞いてくれなくなった。


 顔をみるたびに、目元のくまがひどくなっているのに気がつくのに、そう時間はかからなかった。

「綿貫、顔色悪いぞ?」

「織部くんこそ。次は数学のテストでしょ?」

 いやなことを言われる。

 学年末の成績でも赤点をとったら追試だ。

 下手をしたら進級にかかわる。

 そして、それは綿貫も同じはずなのに。

 テストがはじまる。

 数字が思い出を運んでくる。

 ばたんと人が倒れる。

 綿貫が倒れて運ばれて、試験は続いて。

 ぼくと綿貫は、仲良く追試になった。


「ディスレクシア?」

 空き教室に呼び出され、告げられたのは耳慣れない単語だった。

「うん。わたしは黒板や教科書の文字があんまりわかんない。授業はこっそり録音して、家に帰って聞きながらタブレットとかで勉強してる。ノートはそのときとり直してる」

 絶句した。

 彼女の勉強時間は常軌を逸していた。

「で、倒れたの」

「うん」

「……ごめん、前、ひどいこといって 」

「ほんとだよ」

 口を尖らせる彼女に、思わず言葉が滑りでた。

「俺も、数字を見ると、思い出とひもづいてつらくて、数学が、苦手で」

 誰にも言えなかったことを、綿貫なら受け止めてくれる気がした。

 彼女は最後まで、黙って聞いてくれていた。

「じゃあ、取引しようか」

「取引?」

「そ。わたしは、音声化したり、テキストデータなら勉強しやすいから、織部くんにはその日のノートをすぐにデータ化して送ってもらう。私は、数学を教える。

 タブレット使えば教えやすいから」

「それで、いいのか?」

「教科的にはそっちの負担が多いけど、いい?」

「…………もちろん!」

 そして契約は成立した。2月29日のことだった。


 追試は無事に突破。

 休み中は、無料通話で授業をかみ砕き、自分の復習をかねて綿貫を教える。

 ときおり綿貫とそとで待ち合わせをして、小学生レベルの計算をタブレットで教えてもらう。

 そんな生活を半年も続けていたら、中堅の大学も入れないことはない、という成績に上がっていた。

「そういえば綿貫、進路どうすんの?」

「ここ行きたい」

 彼女はある私大のパンフレットを見せてきた。

「二年だぞ?早くない?なんで資料持ってるの」

「無料の資料請求したから。わたしでも勉強できるところ、早めにさがして頑張ろうと思って」

 聞けば、ノートテイクなるものを実施しているのだという。

 授業内容をリアルタイムでパソコンでタイピングしてもらい、情報保証をしてもらうのだ。

「もとは、聴覚障害者向けだけど、私も適用可能性があるみたい。問い合わせたの」

 前を見ていた。とても、遠い。

「夏休みにオープンキャンパスがあるんだけど、一緒に行かない?」


 年が明ければ20歳も近い。そして、定期テストがはじまる。

「綿貫、どうだった?」

「うん、これは単位とれた!」

 待ち合わせをして、綿貫と一緒に帰る。

 母校から同じ大学に合格したのは、ぼくら二人だけだった。

 彼女はノートテイクを利用し、ぼくはノートテイカーとして活動した。

 ノートテイカーは制度利用者と同じ講義に行き、一履修者としてではなく情報保障者として活動する。

 学校公認のため、講義室の一番前でノートパソコンを広げ、かたかたとしても奇異の目ではみられない。

 そして、寝不足になりながら、彼女がノートを作り直す必要もない。

「よかったな」

「うん、織部がテイクしてくれてるやつだから、講義も分かりやすかったし」

 技術は人に依存する。

 担当者によっては情報保障の質が著しく異なる。

 ただ、ぼくは綿貫と、高校の間、多くのやりとりをしてきた。パソコンでのノート作成も含まれる。

 だから、タイピングの速度は他の追随を許さない。

「なあ綿貫」

「ん?」

「テスト終わったら遊びに行かない?」

 びっくりしたようだった。

 考えればぼくらは、勉強以外では集まらなかった。もちろん、合間に雑談はしたけど。

「うん、行こっ!」

 20歳。

 ぼくらは、恋人になった。


「晴人、もうやだ……」

 なきごとを言わない杏子が声を聞きたいと電話をかけてきた。

 ぼくは社会人として。

 杏子は大学院生として。

 それぞれの生活を尊重しながら、定期的に話して、会って、恋人らしいことをしていた。

「どうしたらいいかわからない」

 ディスレクシアであることを打ち明けると、採用が見送りになるのだという。

「こんなに努力家で、勉強できて、なによりも優しくて気立てがよくて、コミュニケーション力も高いのに、見る目がない企業だよな」

 つとめて明るく行っても、すすり泣きが聞こえる。

「でも、私にはできないことがあるから」

 修士のあとは就職希望。だけども内定が出ない。

「次の春、博士過程の試験だろ?受けろよ、杏子なら通る」

 今だって授業料全額免除なのだ。首席を維持している。

「……2月29日」

「え……?」

「お前が取引持ちかけてきた日だよ。数学を教えるかわりに、他の教科のノートとったり教えろってな。今考えたらすげえ不平等条約だわ。でも、成立させた。おんなじように、俺を丸め込んでみろ!家族に反対されてるなら、博士のあとの生活の面倒は織部晴人が見るって啖呵きりに行く」

「そんなことをしてもらう理由がない」

 ぶちきれた。

「付き合ってんだろうが!それに、俺にはそれだけのことをする理由がある!」

「……それは?」

「杏子が院試通ったら言うわ」

 気恥ずかしくなり、電話を切った。


 織部杏子は博士課程への進学を決めた。修士論文も受理され、修士としては珍しいが本も出版するらしい。

「やっぱこっちの道がいいと思うよ、俺は」

 誕生日ケーキを食べ終わり、ひと心地ついたときにつぶやいた。

「晴人が啖呵きってくれたから、家族も納得してくれた。ただ、本当に、そうしてくれなくていいよ。私はまだ学生のままだし、晴人は引く手あまただろうし。それに、晴人には釣り合わな……」

 午前0時になった。

 日付が変わる。

 口づけをした。

 大学生の間は、二人で泊まって、連続で誕生日を祝っていた。

 今日は違う。

 唇を静かに離す。

「プレゼント、わたすわ」

 小さな包みを奥から持ってきて、杏子の前に持ってくる。

「結婚してください」

 彼女は受け取っていない。

「俺は、数字をみるたびに、いやなことを思い出してたけど、杏子と会ってからは、全部上書きされてった。助けてもらった。楽しかった。これからもそうありたいし、俺は杏子が困っていたら助けたい」

 臆病だったから、ぼくは告白を閏年にすると決めていた。

 年が一巡するたびに、フラッシュバックする。杏子に断られたら、かなりきついのは想像できた。

 もし失敗しても、次に同じ日付になるのは四年後だから。

 そのときには、傷が癒えていると思うから。

 だけど20歳のとき、杏子は笑ってくれていた。

 今は、涙がこぼれていた。

「わたしで、いいの?」

「杏子が、いいんだ」

 包みがそっと彼女にわたる。

 指輪が現れた。

「……はめてみて」

 ゆっくりと、わっかが杏子の一部になっていく。

「……わたしでよければ」

 口許が笑っている。

「よろしくお願いします」

 ぼくも思わず、涙がこぼれた。

「よろしく、お願いします」


 今日は四年に一度の記念日だ。

 勉強の助け合い、付き合いはじめ。

 そして、結婚記念日。















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私を忘れないで 香枝ゆき @yukan-yuki

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