第68話66.抱きしめる

「!」

「?」

 ばっちり目が合った。花咲く灌木の木陰。

 窮屈そうに足と背を折る男よりも更に幼子は小さい。彼女は不思議そうに見知らぬ男を眺めた。

「……」

 ゼライドには無窮と思われる時間が過ぎたが、実際にはほんの一瞬だったのだろう。女児は足元に転がるボールを拾い上げると、再びゼライドを見た。そして小さな手を伸ばす。

「……!」

 驚いたゼライドが払いのける前に、その手は彼のグラスを掴みとっていた。晒したくもない自分が露わになる。大男と幼気いたいけな幼児。二人は花の咲き乱れる灌木の茂みで、しゃがみ込みながら見つめ合った。

「目……ぴかぴか」

 幼子は回らぬ舌でそう言った。

 ゼライドもまた言葉を無くしている。女の子の青い瞳が、薄い影の中で一瞬だけ淡く光ったように見えたのだ。そこへ――

「ゼフィ? ゼフィーリィ? なにをしてるの? ボールはあったの?」

 がさがさと顔を突っ込んできたのは――まさしく。

「……っ!」

 何よりも大切な彼のつがいだった。

「あ……あ」

 久しぶりに間近で見たユーフェミアは、可愛い口を開けて固まっている。明るい芝生と同じ翠色のそれは、彼の足元の幼女に負けないほど威力があった。ついと手が――

 ——馬鹿野郎! 何をおめおめと……っ! 

 ゼライドは、頭から小枝や花びらをまき散らし立ち上がった。

 ユーフェミアはまだ呆然と立っている。離れた場所で嬉しげな犬の鳴き声が聞こえた。飼い主が放ったディスクを取りに駆けだしてゆく。

 光あふれる午前の公園は平和そのものだった。


 さやさやさや


 春風が流れてゆく。

「……ぅあ!」

 ぼふんと胸に飛び込んできた愛しい柔らかさに打ちのめされる。薄紅い花弁が更に舞ったが、花の香よりも甘い香りがどっと男に押し寄せた。鼻腔がつがいの香りで満たされる。抱きしめたのは無意識だった。無意識が、下らぬ事ばかり考える意識を、彼方に追いやってしまったのだ。

「ゼル! ゼル! ゼル!」

 ユーフェミアは彼の首にぶら下がったまま叫んだ。

 どんなにこの名を呼びたかったろう、広い胸に焦がれ続けたことだったろう。ユーフェミアは彼の名を呼び続けた。その声が次第に嗚咽に代わってゆく。

「ユ」

「ゼル……ゼル……なんで……ひぐっ」

「ユミ……」

「う、うわぁあん!……か、勝手にいなくなって……ひっぐ……私をつがいだと言ったくせにぃ!」

「ううう」

「なにがうーよ! 馬鹿! わあああん」

「すまねぇ……すまねぇ……ユミ」

 謝ること以外に何ができると言うのか。ゼライドは愛しい女の髪の香りに酔いながら、ひたすら謝罪の言葉を繰り返した。

「私、私……ずっと待ってたのよ! すっかり待ちくたびれちゃったじゃないの!」

「ああ、わかってる……」

 ——待ちくたびれたから……

 ゼライドがそっと足元に目を落とす。灌木の下から可愛いものが這い出していた。

「……まぁま?」

 母親の動転ぶりをどう見たか、幼女は別に驚いた風もなく、同じように丸い瞳で母親を見上げている。その瞳はもう光ってはいなかったが、陽光を受けて顔全体が輝いていた。

「……ああ、ユミ! ダメだ……その子は……」

 ゼライドが苦しげに顔を歪めた。ユーフェミアを突き離し、両腕で視界を遮る。

「見せないでくれ……」

 この子供は、待ちくたびれてしまったユーフェミアに、手を差し伸べた男の子どもなのだ。

 うっかり見てしまったが、本当ならその気配を感じるだけでも辛い存在なのだ。こんな事なら戻ってくるんじゃなかった。ゼライドの克己心は脆くも崩れ落ちてしまう。

 確かに自分は以前よりも弱くなってしまったのだ。もう一度、初めからやり直さなくては。それともこのまま、どこかで胸を突いて死んでしまった方がいいのかもしれない……。

 ふらふらと茂みをかき分けたゼライドは、それでも最後に永久に失ってしまったつがいに、未練たらしい視線を投げた。

「すまん、ユミ。今更現れたって困るよな……俺は行くから、お前だけは幸せになってく……」

 軽い衝撃を頬に受ける。

「馬鹿! この馬鹿野人、自分の子に怯えてんじゃないわよ!」

 彼の唯一が怒りもあらわに自分をねめつけている。

「……」

「何が幸せによ! 私もこの子もずっとあなたを待っていたのよ。この子は!」

 ぐいと目の前に差し出された柔らかい塊を野人が見たのは一瞬だった。

「……」

「ゼル! ゼライド! しっかりして! ああもう……一体何が何だか……」

「まぁま? まぁま!」

 耳元でやかましく声がする。それはとても騒がしいはずなのに、ゼライドの脳にはとても優しく響いた。目を開ける。視界に広がる一面の青。それは――

 空だった。

「あ! 目を開けた! ゼル! 大丈夫!?」

 青い色の一部に影が差した。逆行だが顔が二つ覗き込んでいることは分かった。その一つ、小さい方がむにむにと小さな口で何か言おうとしている。

「目……ぴかぴか」

 それはさっきも聞いた言葉だ。

「……う」

 ゼライドは完全に目を開けた。すぐに目が慣れる。信じがたいが、どうやら自分はぶっ倒れていたらしい。しかし、長い時間ではないようだった。遠くからはまだ犬の鳴き声がしているから。

「俺は……」

「いきなり倒れるからびっくりするじゃない。わたしじゃ支えきれなくて、仰のけに倒れたんでそこの枝が折れちゃった。気分はどう? 頭は痛くない? 脈はしっかりしているけれど、救急を呼ぼうか?」

 科学者らしく、すぐに冷静になったらしいユーフェミアは神妙な顔つきで、耳の後ろの脈を看ている。

「ユミ! 違う……」

 ゼライドは母親の隣で珍しそうにまん丸い目をしている幼子に目をやった。

「この……」

「まぅ」

「この……子は……」

「言ったでしょ? あなたの子、ゼフィーリィ。さ、ゼフィ? この人がダディよ」

「ダダィ?」

「そうよ。ダディ。お父さん」

「ま……待ってくれ。それじゃあの時の?」

 ゼライドはまだ状況が呑み込めない。それではあの日、彼が娼婦殺しの嫌疑を解かれて家に戻った朝。二人狂うよう激しく求めたあの時に――

 ——その結果だというのか?

 ゼライドは言葉もなかった。自分と人間であるユーフェミアの間では子どもなど、できるわけがないと思っていたのだ。

「そう。あなたが出て行ってしばらくしてから妊娠してるのが分かったの」

「……」

「ちょっとおなかにいる時間が長かったけど……二歳になるわ。さすがにあなたの子ね、普通の子よりとっても頑丈で強いの」

「……」

「ダダ」

 ものおじしないのか、桃色の子どもはゼライドの目ばかり見ている。

「そうよ。あなたのお父様、素敵でしょう?」

 ゼライドは不思議そうな様子の女の子を見た。彼女は母親似だが、瞳は自分と同じ色をしていた。自分の目などに何の感慨も持ったことはなかったが、その薄青い目はびっくりするほど大きくて澄んでいる。小さな手には彼から奪い取ったグラスがまだ握られていて、それに気づいたゼフィは、ひょいとそれをゼライドに差し出した。返してあげようと言うのだろう。

「ダダ」

「そうよ、ゼフィ、いい子ね」

 ユーフェミアは娘を抱きしめた。その目は潤みながらもゼライドを見つめている。さぁ、どうするの? と言うように。

 それでは俺は――

 許してもらえるのか。

 もう一度愛してもらえるのか、こんな俺に、

「尽くさせてくれるのか……?」

「そう……あなたのやり方でいいの。愛してほしいの、一緒にいてほしいの」

「……あいして?」

「ずっと愛してた。これからだって愛してる。嫌だと言っても離してあげない」

「……」 

「と、いうか、今度出てったら母娘でキライになるからね」

 ユーフェミアは翠の目を怒らせて野人を睨みつける。

「……キライ」

 ゼライドは恐ろしさに身を竦めた。

「キライ……にならんでくれ……俺は死ぬかもしれない」

「馬鹿! そんなに簡単に死ぬとか言わないで! いい? 私はたった一人でこの子を産んだのよ? いや……まぁ、姉さんとか、お母さんとか色んな人は周りにいて、助けてもらったけど……でも、あなたはいなかったわ! 悪阻は重いし、どんなに不安で苦しかったか、男の人には想像もできないでしょう? これからねちねち全部愚痴るつもりだから覚悟して? 大好きな野人、ゼライド! いいわね?」

 ユーフェミアは高らかに宣言した。その瞳から最後の涙が零れ落ちる。

 だいすきなやじん――

 ゼライドは顔を上げ――ぶんと言うほど首を縦に振った。

「償う……こんなろくでなしの男でいいなら俺はお前に尽くす。残りの人生を全部お前にやる」

「そう? 野人は長生きだそうだけど、あなたの方が長く生きてるし、私だって長生きするから死ぬ時はだいたい一緒だけど……それでもいいの?」

「それがいい……」

「じゃあ言って……私に」

 ユーフェミアは命じた。

「ユミ……あいしてる。おれのつがい」


 夜の荒野。煌めく刃を見つめた気の強い娘。あの最初の夜からこうなることは決まっていたのだ。

 恐る恐る伸ばした腕をユーフェミアは拒まなかった。

 指先は、ユーフェミアに触れ、そっとその滑らかな皮膚を撫でた。ちっとも変わらない、柔らかな感触。少しふっくらとした白い頬。

 そしてユーフェミアもまたゼライドを見ていた。記憶にある面影より一層精悍に、そして色っぽくなったような気がする。少し痩せたかもしれない。

 口づけは呼吸と同じく、なくてはならぬものだった。

 触れ合った部分から、一緒に過ごしたあの三か月が蘇り、離れていた年月を消し去ってゆく。

 

「ああ……」

 溜息を洩らしたのは男の方だった。

 唇は離れるのを忘れたかのように触れ合っている。

 なんでこれを無くして自分は生きていけたのだろうか? 

「離さねぇ、離せねぇよ……」

 ——これは俺のものだ……。

「ん……」

 ゼライドは彼のつがいを深くその胸に抱きこんだ

「まぁむ!」

 ずっと無視をされていた小さなゼフィーリィが、そろそろ自分の方を向けと中っ腹で声を上げた。両足を踏ん張りかわいい顔を染めて怒っている。確かに二歳児の癖になかなかの貫録である。手にはゼライドのグラスを握ったままだ。

「あ、ごめんね? ゼフィ」

 とろんとしていたユーフェミアだったが慌ててしゃがみこみ、娘の小さな手を取ると、その手にゼライドの大きな手を重ねる。

「ゼ……ゼフィー……?」

「そう、お父様の一文字をもらってゼフィーリィ。良い名でしょう? 抱いてあげて」

「ゼフィ!」

 幼子は誇らしそうに己の名を叫んだ。

 野人の視界はこの世で一番愛しい二人で占められた。

「ゼフィ……俺が父ちゃんだ」

「とうちゃ……?」

 小さな手が彼のグラスを差し出した。ゼライドが受け取って胸に仕舞いこむと、幼子はぽやっと微笑む。

「ふふっ、あなたと最初に出会った頃もグラスが橋渡しをしてくれたんだったっけ?」

 ユーフェミアは懐かしそうに微笑んだ。すっかり母の顔つきだが、それでもあの頃の若々しい面影が残っている。

「とうちゃ!」

「ああ、そうだゼフィ。ありがとな。俺は俺のつがい……母ちゃんとお前を……」

 逞しい腕がゆるゆると上がる。広い胸に二人はすっぽり収まった。まるであつらえた場所のように。

「死ぬまであいしてる」


 そして野人は愛と希望を抱きしめた。



    ******************************



これにて完結です。お読みくださり本当にありがとうございました。

ゼライドもユーフェミアも、人として成長できたのではと思っております。

野人の設定は作者的に気に入っています。

あと、残酷な怪物ビジュールも気に入っています。

お読みになったご意見・ご感想などお聞かせくださると嬉しいです。


夏に第二巻が英訳され、アメリカで出版される予定です。

クリエイター、江川アキラ様の素晴らしいイラストに注目です。



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【英訳書籍化】ビースト † ブラッド ー 野人のつがい ー 文野さと(街みさお) @satofumino

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