第67話65.春
数年後――
一台の車がゴシックシテイの正門、フォザリンゲートを抜けた。
銀色の車は滑らかにアウト、ミドル、センターの環状道路を抜けてゆく。その流れるようなフォルムと走行は、美しささえ帯びて、他の車両は横に並ぶことさえできずに左右に分かれてゆく。車は広い環状道路を抜け、並木の緑も豊かな支線に入った。
萌え出る春の若葉がボンネットに優しい影を落としてゆく。
夜と朝の間に降った雨の露の最後の一滴が、フロントガラスに落ちて流れた。
運転者は銀髪の男であった。
彼は美しい街並みをすべて承知しているように、するすると通りを抜けてゆくと、公共のパーキングに車を停め、石畳の上に降り立った。長い脚に重そうな長靴。濃いグラスに黒レザーのいかつい上下。その上に流れるいかにも適当に切った銀髪は、上品な通りに不似合いな不吉な色合いである。だが、男の態度はむしろ静かで、大人しげですらあった。
彼は高級な住宅が並ぶ通りの隅をすたすたと歩いた。ずっと前ばかり見ている。出勤途中らしいすれ違った女性が、口を開けて見蕩れているのも目に入らないようだ。
やがて男は大きな邸宅の横に出た。高い塀に守られている堅固で優雅な住宅は、かつて男が隠れ家に使っていたものだ。
彼は立ち止っていた。
どっしりした壁に肩を預け、どうしても一歩前に踏み出すことができない。その角を曲がれば家の正面に出ることができるのに。
——今更なんだってんだ……
もう何十回も自分に問いかけた言葉が又しても、脳裏を過ぎる。答えはため息だけだった。
雄渾な体格を裏切るように男は肩を落とした。その時、男の鋭い耳に控えめな金属音が響く。大きな門扉が開いたのだ。
はっと身構える。
壁の向こうから恐る恐る顔だけ出すと、若い女が車を緩やかに発進させるのが見えた。
「……」
一日も忘れたことのなかった面影に男の胸が痛いほど高鳴る。
車は小さいが安全性に配慮した桃色の小型車である。こんな車は知らなかった。かつて彼女は白い車に乗っていたはずだ。日除けの為か、後部座席の窓はブルーにシールドされている。門扉がしっかりしまったのを見届けて車は緩やかに発進した。慌てて男も後を追う。自分の車では目立つので、足で、である。信じられないことに、男の足は緩やかに進む車と同じぐらい早かった。これではかえって目立ってしまう。しかし、彼はそのことに気付かないようであった。
—— 一人きりでどこに行くってんだ。危ねぇだろうに。
しかし、ほどなく車は並木道の下の小さなパーキングに停まった。その一画は緑豊かな公園だったのだ。どうやら朝の散歩にでも出たらしい。丸いドアが開き、カジュアルな服装の女が外に出た。髪を無造作に括り、春だと言うのに袖なし服の肩から、腕がすんなりと伸びている。男は慌てて近くの木の陰に飛び込んだ。
——ああ……ああ……ちっとも変わらねぇ……。
男――ゼライドは愛しいその姿に見蕩れた。
——ユミ……俺のユーフェミア!
足が勝手に駆け出しそうになるのを幹を抱いて堪える。爪が樹皮にめきりと食い込んだ。
視線の先のユーフェミアはそんな事にはお構いなしに、後部座席に回ってドアを開けている。何か荷物でもあるのか、もし重いものだったらどうしたらいいのだろうか? 大体荷物があるなら、どうしてこんなところで下さずに目的地まで車で運ばないのだろう?
ゼライドがぐるぐると考え込んでいる間に、ユーフェミアは車の中に突っ込んでごそごそしていた半身を起こした。
そこには――
——あれは……なんだ?
雷に打たれたかのようにゼライドが固まる。
ユーフェミアが大事そうに腕に抱えたものは幼子だったのだ。母と同じ豪華な金髪。顔は見えないが、ぷにぷにの白い手足が覗いていた。明らかに親子である。
大の男を打ちのめした事にも気づかないで、幸せそうな二人は駐車場を出て園内に入っていった。車の通らないところまで来ると、ユーフェミアは腰をかがめて幼子を地べたに下してやる。車と同じ桃色のワンピースと帽子。幼子は女児のようだった。
——あれはあれは、あの子どもは――。
ゼライドは膝の力が抜けそうになるのを堪えて木に背を預ける。視界は母娘の背中しか認知できない。
ああこれが――ただ一人のつがいを置いて去った罰なのだ。
彼の命ともいうべき愛する存在は、他の男を選び、結ばれ、その男の子どもを産んだ。
ユーフェミアは人間だ。子どもを産める期間は野人より短い。その貴重な時間を、待っていてくれとも言わず、消えた男のために無駄にする義理はない。初めからわかっていたことだ。
なのになんで、こんなに心が血を流しているのだろう。
ゼライドはよろけながら立ち上がると、遊歩道を進む母娘の後をふらふらと追い始めた。
春の公園は花盛りだ。
緑の影が差す緩いカーブの周回道路を、ジョッガーやサイクリング車が駆けてゆく。母娘はそれを避けて歩道を歩いて行った。幼子はその小ささの割にしっかりした足取りで母親に手を引かれていく。時折何かを見つけては嬉しそうに指をさしたり、可愛い声を上げてすれ違う婦人たちの微笑を誘っていた。
ゼライドは笑うどころではない。
どうしようもない。あの母娘に波風を立ててはいけないと思いつつ、堪らなく惹かれてしまう。そして相手の知らぬ男には、すでに燃え盛る殺意すら抱いていた。
——どこだ? どこにいる?
救いようのない理不尽な嫉妬の嵐が吹き荒れれる。理屈ではない、本能だ。
だが、彼の居場所を見つけて一体どうしようというのか? 男を殺して、幼子の父親を奪い、もしかしたら微かにでも残っているかもしれない、ユーフェミアの自分への好意を完全に失ってしまうのか?
——そうなったら生きてゆけない。
離れていた間も、ユーフェミアの優しさに満ちた言葉や、愛のしぐさを思い起こして萎えそうになる自分を奮い起こしてきたのだ。幾度も戦いに挑み、どんな辛い仕事でも引き受けた。極限まで体を鍛え、目的の一部を成し遂げただけでなく、時には人間に混じって働くことも覚えたのだ。だが、それはすべて無駄だった。いや、最初から無駄だったと言うべきか。
遠く離れた街や森海をいくつも流れて、培ってきたものはなんだったのか?
自分はなにもわかってはいなかった。
待っていてくれと言う、勇気すらなかった時点ですべては終わっていたのだ。つがいに尽くさず、己の事だけに走って逃げた、これが罰。
自分に野人の雄を名乗る資格はない。
少しも強くなってはいない。心も体も何も変わらない。今更戻ってきて自分は何をするつもりだったのか。跪いて許しを乞うて、そしてあの夢のような時間に、戻れるとでも思い込んでいたのだろうか?
わかっていたはずだろう? 今日はそれを思い知っただけのことじゃねぇか。
微笑ましい母娘は、打ち
風がそよぎ、光溢れる春の公園で、野人の心だけに冷たい嵐が荒れ狂う。
ゼライドは、薄紅の花が咲き乱れる灌木の陰に身を隠しながら、娘とボール投げをするユーフェミア達を見つめるしかできない。幼子は小さい割に運動神経が良いようだ。ユーフェミアが高く放るボールを苦もなく受け止めている。桃色の頬と唇。服の色も相まって、彼女はまるで甘いお菓子のようだ。
——母親似でよかった……。
つまらぬことを考える自分がよけい惨めだ。だが一瞬たりとも目が離せない。
その時、小さな手から放たれたボールが、意外な勢いで母親の腕をすり抜けた。それは植え込みに潜んだ男の足元にぽふんところがる。あまりに昏い思いに取り憑かれていたので気がつかなかった。
「――!」
目を上げたゼライドの目の前に、キラキラ光る小さな顔があった。
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