第66話64.顛末

 悲しみの波が引かない。

 心の器を満たすのは、こんな冷たく濡れた感情ではなく、あの人の筈なのに。あの人でないとダメなのに。

 どうしてこうなったの? 私ではあなたのつがいにはなりえなかったの? 何がいけなかったの?

 きれいな瞳も、熱い肌も、触れてくる指も唇も、すべて私の中に残っていて上書きされることはない――永久に。

 なのにあなたがいない。

 寂しい寂しい寂しい。

 こんな心を抱えて、私はこれから歩いて行かなくてはならないのだろうか――。


 ゼライドが姿を消してから一月が経っていた。

 ゴシック・シティは未だ、史上かつてないほどの混乱に見舞われている。ハイドンは<ナイツ>生成はじめ、様々な凶悪犯罪の黒幕として逮捕、検挙されたが、その犯罪の全貌を突き止めるには、かなりの長い期間を要すると思われた。

 彼は現在、場所が明かされていない病院に転院させられ入院中だが、証拠隠滅や逃亡できぬように、その身柄は厳重に監視されている。

 また、ハイドンの魔手は警察機構の上層部とも密接に絡んでいたので、エリカが真っ先に取り組んだ事の一つに、警察組織の洗い出しがあった。そこで活躍したのは、ユーフェミアの友人であるウェイ・リンチェイである。

 彼はゼライドの一件を調べていて、疑いをかけた自分の上司達を密かに調べつくした。命令系統をさかのぼり、どこからゼライド逮捕の指令が出たかを密かに探っている内に、目を付けた一人の幹部に取り入ることに成功したのだ。

 それにはウェイの人好きのする風貌も役に立ったのは間違いない。

 機転がきいて、若い警官たちに人望があり、下町の情報に通じているウェイを、持ち駒にしようと持ちかけた幹部は、やはりハイドンに買収された人間だったのだ。ハイドンの逮捕直後、揺さぶりをかけると簡単に墜ちた。後は芋づる式で比較的容易であった。

 金で釣った人間など、その人物が危うくなると途端に、なし崩しになるものである。しかも、市の重鎮インガルスがウェイを支援しようと申し出てくれたのだ。

 お蔭で今やウェイは警察内ではちょっとした時の人である。

「俺さ、今度ガーディアンの試験を受けようと思ってんだよね。推薦もされちゃったし」

 庁舎内のカフェテラスでウェイは少し威張っている。その様子をユーフェミアは胡散臭そうに眺めた。

「なんでさ。警官でいいじゃないの」

「まぁね。警官はいいよ。でもさぁ、やっぱかっこいいんだよなぁ。今回の事件だってハイドンの屋敷に真っ先に駆け付けたのはガーディアン達なんだぜ」

「一番乗りだってシャンクに返り討ちにあって、みんな大怪我したって聞いたわよ」

「でもさ、やっぱりすげぇよ。野人たちの急襲が成功したんだって、彼らが予め、センサーや防衛システムをぶっ壊したからだって言うじゃないか」

「誰が言ったのよ?」

 ユーフェミアが鋭く尋ねた。普段は人の話などロクに聞かぬくせに、こういう時にだけ勘が働く。ウェイは口を滑らした自分が嫌になった。

「うっ……いや、それがその……」

「誰なの?」

「……あいつだよ。シルバーグレイ」

 強い瞳に負けてウェイは白状させられた。昔からユーフェミアには弱いのである。だが、彼女は一瞬言葉に詰まっただけで、すぐに問いただす。

「そう。……で、いつ会ったの?」

「いやその……あいつが街を出る直前に……俺んとこにふらっと……」

「へぇ。それでどこへ行くって言ってた?」

 まるで尋問だ。これでは立場が逆である。

「……さぁ、街を出るって。とにかく強くなりたいって言ってた」

「……」

 ——ゼルの馬鹿……。そんな強さなど要らないのに……。

 さっきまでの勢いが嘘のようにユーフェミアは項垂れた。

「……なぁ、ミア。あいつはほんとにお前に惚れてたんだよなぁ」

「……さぁ? 今となってはわからないわ」

「そんなこと言ってやるなよ。俺の方が心が痛いわ」

「どうしてそう思うのよ?」

「だってすごく辛そうに言ったんだ。あいつを護ってやってくれって俺に頭下げてさ……ほんとは自分が一番傍にいたいはずなのに……」

「……ならいてくれたらいいのよ……あんな風に出て行っちゃうなんて、ほんっとサイテー」

 見え透いた強がりの台詞。しかし、声が言葉を裏切っている。

 テーブルにぽたりと水滴が落ちた。

 

 ぽたりぽたり。


「私がどんなに悲しいか知らないで……」

 目覚めて一人ぼっちだと知った時のあの喪失感は、少しもせず、今も心にきりきりと食い込む。

「……きっと戻ってくるさ。泣くな、ミア」

「ゼルと同じこと言わないでよ」

「言うよ」

「キライよ」

「だから、言うなって。ミアがそう言ってんの聞いたら、ホントにあいつ死んじまうかもしれねぇぜ?」

「だったら行かなきゃいいのよ!」

 涙と鼻水が止めどなく流れる。

「男は行かなきゃならねぇ時もあるのさ、うん」

「そんな古臭い歌みだいなごど言わないで!」

 ユーフェミアは鼻をじゅるじゅる鳴らしながら罪もないウェイに噛みつくので、彼は慌てて訂正した。

「う……じゃあ、女には追いかけなきゃいけねぇ時がある」

「ぞうよ! あったりまえよ! 仕事が一段落づいだら絶対私の方から探しに行ぐんだから!」

 ——やれやれ。こいつは絶対そうするだろうなぁ。おい、シルバーグレイ、気持ちは分かるけど早く帰ってきてやれよな……。

 ユーフェミアが生ずる水滴を浴びながらウェイは思った。 


「ごきげんよう、足のほうはいかがです?」

「これは! ……麗しの市長閣下! こんなむさ苦しい所へわざわざのお越し!」

 ムラカミは乗っていた奇妙な形の車椅子を降りた。むさ苦しいとは言っても、ここは所長室である。一応もっともらしい大きなデスクやファイルが置かれてはいるが、その背後の棚には雑多な――中にはガラクタのように見えるものまで、ぎっしり詰め込まれていた。旧世界の帆船の模型、類人猿の頭蓋骨、織部釉の掛った見事な茶碗まである。部屋の主の関心の広さを示すものだろう。

「まぁ、もう歩いても大丈夫なのですか?」

「ええ。他の者にはあとひと月は歩けないって事にして、サボってるんですけどもね。でも、おかげですごくいい、介助ロボットのアイディアを思いつきましたよ。ボク工学博士でもあるんですからね」

「転んでもただでは起きませんね。けれど、それはあの子も一緒のようです」

「ええ、彼女は精力的に働いておりますよ」

「役に立ちますか? あの子のやっていることは」

「相変わらずお身内に厳しいお方だ。でも、きっと実用化できます。あと一歩ですよ」

「そうですか……ミアも大人になったのですね。一時期は泣いてばかりで私も心配しましたが、今は精力的に仕事に打ち込んでいるようですね。あの大雑把な性質は母親譲りです。打たれ強いというか」

「へぇ……で、打たれ強く、ネズミに一生を捧げるのですかね?」

「さ、あの子が一生を捧げるのはネズミではないと思いますけど」

「ああ成程。いいですねぇ、お若い人たちは」

「まぁ、よく考えたらわかっていたことなのですが、あの野人がユーフェミアをあんなに大切に思ってくれるとは想定外でした。つがい……と言うのですか?」

「彼らの概念ですねがぇ……なかなかいいと思いませんか? 愛するもののために一生を捧げるんですよ。やっぱり彼らが人間の理想なのかもしれない」

「でも、このままではユーフェミアがかわいそうです。私もずっと探させているのですが……」

「彼がつがいなら……きっと戻ってきますよ。つがい、いいなぁつがい。あ、そういえば! あなたはインガルス氏の求婚を断られたそうですね」

 ムラカミは小さな丸い目をひん剥いて叫んだ。

「耳が早いですね……ええ、その通りです」

「彼は今やハイドンの犯罪を暴く急先鋒だ。しかもやもめで、まぁまぁ男前。おまけに結構な金持ち、土地持ち、地位と名誉持ち。手を結んだ方がいいとは思わなかったのですか?」

「たった今、つがいを褒め称えた口でそういう事をいうのですか? 私が利己的な目的で結婚すると?」

「……まぁ、ボクだってたまにはひがんだりもするのです」

 エリカの憤慨にムラカミは珍しく言葉を濁した。

「あなたがなぜひがむ必要があるのです?」

「うん、こういう鈍感な所は、姉妹で似ているような気がしますねぇ……」

 ムラカミがぼそっと呟いた時、机上の端末が鳴った。

「はい、ボク。え? ああ……え? それは大変だ……うん、熱はない? すぐに変わります。エリカ」

「ええ」

 サイオンジはくるりと端末を回した。

 それは職場でユーフェミアが体調を崩したという連絡だった。


「久しぶりね」

 秋色のスーツを纏ったパルミラは、普段着姿の娘を馬鹿にするように、格好よく足を組んですわった。

「お久しぶりです」

「体調を崩したって聞いたけど」

「ええ少し……気分の悪い日が続きました。今は大丈夫ですけど。でも、なんで知ってるんですか?」

 ユーフェミアは大人しく答えた。

「一時はあなたを憎んでいろいろ調べまわっていたからね。研究所内には知り合いもいるし……あなた知ってた? あなたが庁舎に引きこもっていた時、私は市長やあなたに関する中傷メールを色んなところに送り付けていたのよ。もちろん市長本人にも」

「中傷……ですか」

「ええ、馬鹿な身内を過保護にするなとか、ゼライドとの契約を解けとか……我ながら卑怯だと思うけど、何かしていないと憎しみに押しつぶされそうだったから……結局何にもならなかった訳だけど」

「ああ……」

 そういえばそんな事を聞いたような気もする。

「ゼライドがこの街を出て行ったのはあなたのせいね」

「……」

「彼が最後にくれたメールは出ていく前の日の日付だけど、つがいに見合うように強くなる。契約を解除してもらいたいって、たったそれだけだった。それ以降は連絡がつかなくなったの」

 そうだ。ユーフェミアのメールもすべて不明で帰ってくる。彼は一切の連絡を絶ってしまったのだ。

 ——それにしてもまた強さか。

 この一月余りでユーフェミアは、強さと言う言葉がすっかり嫌いになっていた。

「つがいとはあなたの事ね」

「ええ」

 ユーフェミアはきっぱりと言った。それだけが今のユーフェミアの心の拠り所だったのだ。

「つがいに対する野人の執着と情愛は知っているの。彼らは人間よりもずっと愛に誠実だってことも……だからあなたの事は嫌い、今でも」

「……」

「あなたが横から現れなければ、あの人は私のものになってくれたかもしれないのに」

「それはないと思います」

 即答である。パルミラは憎らしそうに口を歪めた。

「……言ってくれるわね」

「すみません。でも、彼は誠実で正直な人だから」

「知ってるわよ。私は、あなたなんかと比べ物にならないくらい長い付き合いなのよ。でも、確かにあの人は私を女とは見てくれなかった。最初はただ幼いからと思っていたけど、やっぱり野人ね。つがいではない女、ましてや、仕事のパートナーでしかない女に同情で付き合ったりはしないわ。わかってるのよ。それでも嫌いなの。何にも知らない甘えん坊のくせして、あの人を私から奪っていったあなたが。大人げないと思うわ。でも理屈じゃないの」

「ええ……私もあなたの立場だったらそうなってると思います」

「そう」

「だけど、そんな事だけおっしゃりに来たんじゃないんでしょう?」

「ええ。そうなの。実はもうこの仕事から手を引こうと思って、それを言いに来たのよ」

「エージェントを引退なさるんですか?」

「そ。もうゼルにたっぷり稼がせてもらったしね。ほかにも数人の野人と契約してたけど、全部切ったし。以前からもっとのこ世界を見て回りたいと思ってたんだけど、幸いどこかの大金持ちのご婦人が、秘書兼話し相手を求人してたから、書類を送ったら連絡が来て、一度会っただけで採用されたから、そっちへ行こうと思って。その人旅行家なんだって、丁度いいでしょう?」

「この街を出て行かれるんですか?」

「ええ、ゼライドもいないし、もう未練はないわ。私も私の幸せを探すの。世界を回っている内にひょっとしたらゼルに出会えるかもしれないし。そしたら遠慮なく横取りさせて頂くから」

 パルミラは意地悪く言った。しかし、ユーフェミアには怒る気も起きない。パルミラにだってわかっているのだ。ゼライドはもう誰にも捕まえられないという事を。彼が人間たちの柵に戻ってくることがあるとすれば、それは彼が望んだ時だけだ。自分たちはそれをじっと待つしかない。

「あなたは……この家に住むの?」

 パルミラはかつてほとんど生活感のなかった室内を見まわした。今はユーフェミアの持ち込んだ私物や、研究所関係のもので、物がかなりが多くなっている。

「ええ。いつ彼が帰ってきてもいいように」

 ユーフェミアはそっとお腹に手を当てた。

「ふぅん……益々嫌な女ねあなた。……でもこれ。次の雇い主。いつ無くしてもいいように、紙に書いたのよ。ゼライドがもし帰ったら連絡を頂戴……じゃあね」

 パルミラはユーフェミアが言葉に詰まっている間に小さなメモを掌に押し付け、そっけなく背中越しに手を振ると、あっという間に去ってしまった。

「……パルさんも行っちゃうか……」

 ユーフェミアは小さくため息をついた。決して親しくも、好きでもなかったパルミラだが、ゼライドを間に挟んで彼女たちは同志だったのだ。彼の事を話せる相手がいなくなるのは、やはり少し物足りない。何気なく手の中に残された紙片に目をやると、

「え? ええ!? ちょっと、これ……これって、もしかして……」

 そこに残された名はユーフェミアのよく知る人物の名前だった。

 マリエール・アシェインコート。

「これって……お母さん⁉︎」


 ああ、本当に。

 こんなにたくさん聞いてもらいたいことが出来たと言うのに。

 一体どこにいってしまったの?

 お願い。戻って来て。私を抱きしめて。

 強くなんかなくったっていい、あなたはあなたのままでいいの。

 一人では怖いわ。怖くて叫びだしそうなの。でもだけど――

 逃げ出す訳にもいかなくなってしまったの。

 私は、ここにいる。

 だから、早く戻って。私を捨てていかないで。

 ゼライド――愛しい私のつがい。





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