第65話63.決心
——これは夢だろう? そうにちがいない。
ユーフェミアが光の中で微笑んでいる。清潔なシーツにくるまれて微笑みながら眠っている。男は生まれて初めてと言っていいほどの安らぎを感じていた。
こんなに優しい気持ちで、つがいを見つめられる日が来るとは思わなかった。激しい飢えも乾きも今は鎮まり、愛しさは優しさと一つになって、尽きぬ泉のように溢れる。つがいが安らかに眠っている姿を見つめるだけで、こんなにも満たされた気持ちになれることを男は初めて知った。
それが彼の福音だった。
——充分だ。俺には充分過ぎる……
白い頬はもう強張っていない。今は閉じている眼ももう、恐怖に見開かれることもない。この世界に彼女を脅かすものはどこにもいないのだ。
——これから、こいつは光の中を未来に向かって歩いて行ける。だから――。
——だから俺は。
野人はつがいに寄り添いながら、目を閉じる。
その瞼から一筋の涙が流れた。
「……?」
ユーフェミアはふわりと目を覚ました。白い天井が目に入る。部屋の中は眩し過ぎない程度に光で満たされていた。質の良い青いカーテンはほどよく陽光を遮り、それでいて風を通してくれるのだ。
——秋の匂いがする。干し草と、熟れた果実と、そしてこれは……大好きなあの人の……。
「……あれ?」
なんだか体中が結構痛い。痛いだけではなく重い。
手首には点滴の管と、血圧を図るためのマンシェット。色んな管が自分に引っ付いている感触。まるで寝台に縛り付けられているようだ。なのに、どうしてこんなに牧歌的な気分で目が覚めたのだろうか?
不思議だ。ユーフェミアは動けないまま眉を潜めた。
——そうだった。私はさらわれて、凄惨な映像を見せられて。薬を打たれて……そしてゼルが助けに来てくれたんだった。酷い、とても酷い戦いだった。血と叫び声と。
ユーフェミアの目尻から、つうと涙が流れる。
裏切りもあった。信頼していた人の穏やかな笑顔は偽りだったのだ。
——でも、この香りは本物だわ。
寝台の上でなんとか首だけを動かして横を見る。柔らかい枕の端に美しい寝顔があった。
——う……わ……ゼル! ゼルが寝てる! 私の横で!
野人は簡素な椅子に座ったまま、半身を寝台に倒し、ぐっすりと眠っていた。シーツに銀髪が乱れて流れている。それは陽の光に映えて、とても豪華に見えた。
初めて見るゼライドの寝顔――。
「……」
きれい。なんてきれいな人なんだろう。
通った鼻筋。引き締まった頬から顎の男らしいライン。そして、今まで気付かなかったが、こんなに睫毛が長かったのだ。それは今、しっかりと閉じ合わされ、男を普段より幼く見せている。普段敏い彼がこんなに無防備な寝顔を晒しているのを、ユーフェミアはぼぅっとなって見蕩れた。
——あれからどのくらい経ったのかしら?
時計もない部屋のようだ。だが、コールを押せばすぐに、ナースかドクターがやって来る筈である。ここは病院なのだろうから。
けれど、ユーフェミアにはそのつもりは全くなかった。
体は痛くて重いけれど、それは傷と疲れのためで、自分は別に病気をしているわけではない。心の傷はまだ少し癒えないけれども。
ユーフェミアは脳裏を過ぎる、惨い映像を追い出そうと顔をしかめた。
——でも……ゼルがいるからきっと乗り越えていける。だってこの人は――ねぇ?
思い出した瞬間、幸せに包まれた。
「ゼル……大好き!」
ぱちりと男の目が開いた。
柔らかい光の中で、それは青く澄んでいる。
「……ユミ」
男はゆっくり身を起こした。
「ゼル」
男の目につがいが映る。つがいしか映らない。
ユーフェミアが見蕩れたように、男もユーフェミアの目を見つめていた。春一番に生えた苔のような明るい翠色の瞳を。
二人はお互いを見つめ合った。微笑んだのはゼライドの方からで、あまりにも穏やかなその目元にユーフェミアはうっとりと頬を染めた。今日のこの人は普段見せない顔ばかり見せてくれる。
「ユミ……」
唇が重なるのは呼吸をするのと同じくらい自然な事だった。
それは軽く触れては離れ、何度も何度も繰り返される。穏やかな至福が二人を満たした。
「……私ずっと寝てたの?」
「ああ。あれから一日中」
「……そんなに?」
「ああ」
「ここはどこの病院?」
「庁舎内の」
「ああ……そっか」
自分はまだ姉の掌の上なのだ。ユーフェミアはちょっと考え込んでしまう。ゼライドは心配そうに眉を寄せた。
「傷は……痛まねぇか?」
「ちょっと痛い……かな?」
鎮静剤が効いているのか、酷い痛みはない。微熱は少しあるようだ。だが、そんな事は気にもならなかった。二人でいるのだからもう怖いことはない。
「ゼルの方こそ、酷い怪我だったでしょう?」
「平気だ。ムラカミが手当してくれた」
「ムラカミって、ムラカミ所長!?」
「ああそうだ」
驚くユーフェミアにゼライドはちょっと笑った。
バルハルトを急襲したムラカミは、完全に彼の不意を突くことに成功したのだが、まさか彼が野人だったとは、さすがの彼も気がつかなかったのだ。
彼の前に立っていたガーディアンの一人は腹を蹴られて瀕死の重体。ムラカミ自身も手練の拳法で応戦したのだが(彼は旧世界の武道の達人だったのだ!)、やはり倒されて両足の骨を折る重傷を負ったのだ。だが、ムラカミはちっともめげていなかった。戻ってきた二人を熱烈に歓迎しながらさっそく働きはじめるも、ゼライドがユーフェミアを抱いたまま離さないので、彼も車椅子に乗ったまま、ゼライドの傷の手当てをした。
さすがにバルハルト——シャンクに刺された足の傷は貫通していたので、このままでは歩けなくなると脅され、ゼライドも、渋々大人しく彼のいう事に従った。
ビジュールの一件以来、ゼライドとムラカミには奇妙な信頼関係ができたようである。
「おっどろき」
「金具で固定されててちょっと歩きにくいがな。何とか動ける」
「ロナウドは?」
「下の階にいるらしい。俺は会ってねぇが」
ロナウドもお調子者なりにやるべきことはやったのだ。ユーフェミアと同じく薬で眠らされたが、幸い麻薬ではなく、意識を失う寸前にSOSを発信し、屋敷内の位置の特定を早めた。ハイドンの別荘で見つけられた時は気を失っていたが、外傷はなかったので回復はユーフェミアより早く、ハイドンの悪事の重要な証人の一人となったのだ。
「皆に迷惑をかけたわね……」
「……お前は何も心配しなくていい。ゆっくり傷を治せ」
「うん……でも、治ったらすぐ仕事に戻るわよ」
ユーフェミアは断固として言った。
「あのネズミか?」
「あのネズミよ」
「お前らしいな。けど、当分は大人しくしていろよ」
「……やぁよ」
さやさやさや
開け放った窓から風が忍び込み、野人の髪を揺らした。温かい沈黙が流れる。
「……ごめんな」
「どうして謝るの?」
「お前を護ると大口を叩きながら、結局このざまだ」
「なぜ? ゼルは命を懸けて戦ってくれたわ」
「だが、なににもできちゃいねぇ。お前を攫われ、傷を負わせ、命まで危険に晒しちまった。マヌエルの敵すら討ててねぇ……あん時、あいつがスティックを投げてくれなきゃ、お前は殺されていたかもしれねぇんだ。俺は結局なんにもしちゃいねぇ」
「ゼル……ゼル……そんな事ない。いっつも全力で私を護ってくれてたよ?」
「俺はガキだ」
野人は苦く言った。
「何度もそう言われたんだ。だが俺はわかっちゃいなかった……俺は歳も経験もまだまだの、ただのガキだったんだ……お前を護れるなんて
「ガキでもいいよ……私はゼルが大好きだから」
ユーフェミアは点滴の針が付いたままの腕を伸ばした。削げた頬に触れる。ゼライドは拒みはしなかった。
「……」
「ねぇ……聞いていい?」
「……ああ、何だ?」
「あの時言ってたのは、本当?」
「あの時?」
「ほら……バルハルト……シャンクがいなくなる直前に……言ってたでしょ?」
ユーフェミアはあの場面を生涯忘れないだろう。
『これは俺のつがいだ』
そう言い放った彼の声、姿、そして温もりを。
彼に向き合い、顔を歪めるシャンクの様子すら、鮮明に焼き付いている。
「……」
「ねぇ、本当?」
「そんな事……言って……」
「言ったよ! あいたっ……」
思わず身を起こそうとしてユーフェミアは痛さに喘いだ。ゼライドが身を寄せる。
「ユミッ! 言わんこっちゃない、大人しくしてろってったろ?」
「なら教えて。あの言葉は本当なの? 私はゼルのつがいになれたの?」
「……」
ゼライドは悲しそうに、横たわるユーフェミアを見つめた。そっと腕を伸ばすと乱れた髪を整えてやる。まだ熱があるようだ。彼は黙ったままユーフェミアの耳元に口を寄せた。
「本当だ」
「……え……?」
「そうだよ。お前は俺のたった一人のつがいだ」
「……」
「だが、なれたんじゃねぇ、俺がそうだと悟ったんだ。お前にとっちゃ災難だ」
「災難なんかじゃ……!」
ユーフェミアが抗議しかけるのを、大きな手が優しく封じる。
「えっと……なんつったっけ? こんな時……ああ、そうだ」
「……ゼル?」
「人間はこう言うんだろ?」
難しい顔をしていたゼライドが、不意に、にっと笑った。
「あいしてる」
「……!」
「……あいしてるぜ」
言い慣れないのか少し舌足らずだ。だが、ユーフェミアには天使の福音に聞こえる。嬉しくて天にも上る気分だ。素晴らしすぎて信じられない。
——たった五つの音なのに、今まで聞いてきた中で一番きれいで嬉しい音だ……。
じわりと涙が滲む。
「ユミ? なんで泣く。泣くな……な?」
ゼライドは少し焦っている。
「ほ……んとに?」
——この人は私が泣く意味をちゃんとわかっているのだろうか?
ユーフェミアはしっかり目を開けて彼を見た。
「ほんとうだ、ユミ……あいしてる。どうにかなりそうなくらい……な」
「……うん……うん、私も……私も愛してるよ」
「俺を?」
「大好き。あなたのつがいになれてよかった。ずっとただの契約相手なんだって諦めていたから……」
「そうか……でも、だから……だからな……俺は……」
「なぁに? ……んぁ!」
不思議そうに唇を尖らしたユーフェミアの口をゼライドが優しく塞いだのだ。
「ああ、ユミ、かわいい……かわいいな」
「ふへ?」
それでは彼は、可愛いと言う言葉を知っていたのだ。そして、いつから彼はこんなにやさしい口づけを覚えたのだろう? 今日は色々ゼライドに面食らわされる。ユーフェミアは彼の唇を受けながら満足の吐息を漏らした。
「ユミ……ごめんな?」
「ん? なぁに?」
ユーフェミアの肌にゼライドの熱い吐息が掛った。ユーフェミアは訳がわからぬ様子で、とろんと自分を見つめている。ゼライドはその明るい翠色から目を逸らせた。
——今のままでは俺が俺を許せねぇ……お前のつがいだって胸を張れるようになるまで、俺は強くなる。ならなくちゃならねぇ。あいつの後を追わないといけないんだ。この街にはもう戻っては来れねぇだろうが、狂おしくユーフェミアを見たあの目は……。
ゼライドはぎゅっと唇を噛んだ。
自分のつがいへの執着を見せた他の雄への憎悪は、人間には理解できないだろう。野人とは、なんという因果な生き物なのだろうか。
——でもユミ。俺はお前のつがいだが、お前は人間だ。野人なんかに縛られることはねぇ。本当は誰にも見せたくねぇほど首っ丈でも、今のこんな俺じゃお前に相応しくない。だから――
——俺は行くわ。
——お前を自由にしてやるよ。
「……ゼル? 怖い顔……」
「ああ、そうだな。さぁ、もう一度寝な。ついててやるから」
そう呟いて、ゼライドは無骨な指先でユーフェミアの頬を撫で、とんとんと肩を叩いてやる。その規則正しい暖かさと優しさに、ユーフェミアの瞼は次第に重くなっていった。
「ゼル……側にいてね」
「ああ。手を握っててやる」
「……起きたらご飯……食べたい。前にお粥……食べ損ねた、から」
「ああ、わかった。お前の為なら何だって作ってやる」
「うん……うれ……しー……よ。ゼ……」
瞼を幾度か持ち上げようとしては下がり、ユーフェミアはやがて寝入ってしまった。寝顔はやはり緩やかに微笑み、握った大きな手に唇が触れている。
ゼライドは暫くの間、息を潜め、ユーフェミアの眠りが深くなった頃合いを見て、そっと指の繋がりを解いた。途端に掌も心も虚しく冷えてゆく。
「ユミ……あばよ。死ぬまであいしてるぜ」
安らかな寝顔にゼライドは囁いた。
熱で少しかさついた唇に、彼は三度口づけを落とす。それはしっとりと、離れがたく――。
ゴシック・シティからゼライドの姿が消えたのは、その日の午後の事だった。
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