第64話62.黎明

「いやぁ、驚いたよ。いきなり僕の端末にあの映像が送られてきたときは」

 アーサーは意外に静かな声で後部座席を振り返った。

 激しい雨がまるいキャノピーを叩いている。墨を流したような闇を飛ぶヘリの中である。

「誰があんな実況を撮れるようにカメラをセットしていたんだろう? 君……じゃないよね? あの屋敷に怪しまれずに入り込めて、システムを全て熟知している人間でなきゃできない芸当だし……」

 ゼライドはその膝の上にユーフェミアを抱えたまま、返事もせずにぼんやりと眼下を見ていた。彼の頭の中は腕の中のつがいで一杯なのだ。

 女は優しい重みを彼に与えて体を丸めている。

 やっと敵を打ち負かしたと思った途端、派手に現れたテレビ局の男たちに、最初何を言われるのかと緊張を新たにしていたユーフェミアだったが、彼らがゼライドに手出しをしないと理解した途端、気を失うように眠ってしまったのだ。

 無理もなかった。ユーフェミアにとって、精神的にも肉体的にも拷問に等しい三十六時間だったのである。

 ロマネスク・シティの輝きは次第に雨のヴェールの向こうに遠ざかってゆく。やがて見えなくなるだろう。前方の闇に仄かに浮かぶのは、フリーウエイを照らす街路灯だけであった。それは、首飾りのように闇に滲んでいる。

 ゴシック・シティに着いたら自分たちはどのように扱われるのだろうか? 考えている時間は少ない。車で約半日の距離を、ヘリはその半分の時間で彼らを街に送り届けるだろう。


「……でさ、いくら考えても送信者がさっぱり分からない。ハイドンの雇っていたガード達には、そんな余裕はなかっただろうし、第一彼らは僕が行った時には、全員ホール付近で半死半生だったからね。あのドームでの映像が撮れるわけはない……今夜は使用人もすべて暇を出されていたようだし。まさかハイドンが自分の悪事を自分でばらすはずもないだろうし……」

 モリナーはゼライドの様子を見ながら、話し続けた。

「ねぇ、君。君なら誰があの映像を送ったのか知らないかい? まさか、君じゃないだろう?」

「……」

 重ねての問いもゼライドは黙殺する。誰がやったかは、大よそ見当がついていたし、そんな事はもうどうでもよかったのだ。だが、モリナーは諦めきれない様子で首を竦めた。

「まぁ……誰だかわからないけど、お蔭でよかったよ。あの映像のお蔭で、ウチの社長の非道さと変態っぷりが明らかになったんだから。所々ハイドンの自作自演みたいな台詞が入っていたけれど、あれもあの映像マニアが後で自分の都合のいいように作り変えて、僕たちに流させようとしたんだろうね」

 ゼライドはすっかり眠っているユーフェミアを見つめている。彼女は少し身じろいだようだ。モリナーは彼から話を引き出すことを諦めて苦笑を漏らした。

「よほど大切なんだね」

 モリナーの言葉にゼライドは一層ユーフェミアを自分に引き寄せ、その髪に顔をうずめた。乱れた髪が鼻をくすぐったのだろう、ユーフェミアがふにゃふにゃ言い始める。ゼライドが顔を上げた。

「う……ん。あ……?」

 うっすらと目が開く。途端に安心したのだろう。ユーフェミアはふわりと微笑んだ。

「……ゼル?」

「ああ。具合はどうだ?」

「へいき……ここは?」

「空の上だ。ゴシック・シティに向かってる。もう直き着く」

「そう……喉……渇いた」

 ユーフェミアは自分の乾いた唇を指でこすった。

「待ってろ」

 ゼライドは手元のボトルを開けると、たっぷりと自分の口に含み、そのままユーフェミアに与えた。ユーフェミアはこくこくと猫のように喉を鳴らしている。何度も繰り返されるその行為にモリナーも、脇を固めているガーディアン達も見て見ぬふりである。

「ありがと」

「足は痛まねぇか?」

「うん。ゼルは? 痛いでしょう?」

「大丈夫だ。もう血は止まってる」

「……」

 ユーフェミアはドームであったことを思い出してぞっと身を震わせた。ゼライドが大丈夫だというように背中を叩く。まるで小さな女の子に戻ったようでユーフェミアは照れ臭かったが、彼の優しさが胸に沁みた。

 ——けど……私、なにか大切なことを忘れているような……。

 そこで初めてユーフェミアは辺りに目をやった。ここがヘリの中だという事はわかったが、今まで他を見る余裕がなかったのだ。

「モリナーさん……?」

「ああやっと、僕に気付いてくれた? あんまり二人の世界だったからさ、目のやり場に困った」

「……すみません」

 ユーフェミアは真っ赤になって俯く、そこで自分がまだゼライドの膝の上だったことにも気が付いて、慌てて擦り下りた。足の傷がずきりと痛んだが、恥ずかしさの方が優先だ。ゼライドはどうかと振り返れば、彼は明らかに残念そうな顔をしていた。彼は膝から降りることは許したが、腕の中から解放する気はないらしく、上半身はがっちりホールドされている。

 ——や、野人って、こういう事にすごく大らかなのかしら。これじゃあ、誤解されちゃうじゃない……私はその方がいいけど。

「あ、あの!」

 ともかく話題を変えよう。それでなくとも大変なことがいっぱいあるのだ。ユーフェミアは一つ一つ確かめることにした。

「それで……ミスター・ハイドンはどうなったのですか?」

「ああ彼かい? とりあえずロマネスク・シティの警察病院に搬送してある。身柄は厳重に管理されているし、明日にもゴシック・シティに護送されるだろうけど……これは君の姉上の命令でもあるんだよ。今頃、市長同士のホットラインは文字通り熱くなっていることだろうね」

「じゃあ、姉さんはもうこの事を」

「僕が知りえた限りの事だけだけど、伝えてある。もちろんあの映像もね。その彼は何にも説明してくれないし」

 モリナーはちらりとゼライドに目を向けたが、彼は性懲りもなくユーフェミアの肩を抱いてモリナーを威嚇していた。人気キャスターは苦笑を漏らすしかない。

「……そうですか……あ! それとロナウドは? 彼とはレストランでわかれたきりなんです。私、薬を盛られたようで……」

「ああ、彼ならあの後に到着した、後続チームが地下室に監禁されていた青年を発見したと、さっき報告が入った。今頃彼も病院送りになってるよ。記憶が曖昧になるまで薬を打たれたみたいだけど、なんとかなるだろうよ」

「良かった……彼は一応私を守ろうとはしてくれてたみたいだから……」

「一番最初の救助信号は彼の端末から入ったそうだよ。ちゃんとお礼をしなきゃ。そのお蔭で発見が早まったんだからね。……で、同じ地下室でナイツの生成プラントも発見された。庭には精製済みの純度の高いナイツや、原料の夜光花もね。けっして大規模なものではなかったんだけど、だからこそ怪しまれずに着々と毒を浸透させていたとも言えると思う。きっと、あちこちの街に同じような施設があると思うし……まったく、長いこと騙されてたもんさ」

 モリナーは苦々しく言った。

「あ! 私のネズミ達は⁉︎」

「ネズミだって⁉︎」

「私のスクナネズミ! せっかく実験に成功したのに! 置いてきちゃった!」

 ユーフェミアは泣き声を上げた。

「ははは、散々な目に合った自分よりも実験動物の心配かい? まぁ、あと少しで街に着くから、細かい部分は元気になってからゆっくり詰めていけばいいよ。ほら……見えてきた。フォザリンゲートの美しきシルエットだ!」

 モリナーは前方を指差した。

 夜の底がうっすらと明らんでいる。

 その向こうに灯りの消え始めたゴシックシティの尖塔群が見えてきた。それは堅固な要塞のようであり、旧世界の神の家のようでもある。闇を抜けたところにそれは美々しく存在していた。

 雨の滴か空に吸い込まれるように消えてゆく。

 雲の切れ間から帯のような光が差し込んだ。曙である。

「ゼル……」

「ああ、見ている」

 ユーフェミアの言葉にゼライドが頷く。だが、ゼライドが見ているのは窓の外ではない。

「きれいね」

「きれいだ」

 うっとりと見つめるその額に光が当たった。光は少しばかり黄色味を帯びて、世界を黄金に染めてゆく。

 夜明け。


 世界はまた生まれ変わったのだ。




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