第63話61.終息
ゴゴ ゴゴ ゴゴ
重い音と共に、ドームが割れてゆく。
今まで薄青い朝の空を投影させていた円天井は、その中央に空いた裂け目が広がり、その向こうに塗り潰されたような闇が現れた。真実の夜空である。ドームの中にいると時間の感覚が狂うが、外の世界は未明なのだ。後しばらくすれば雨が降り始めるのだろう、星の一つも見えはしない。
だが、ドームが開いていくにつれ、別の音が混じりはじめる。
バラバラと
ゼライドとユーフェミアが上方を見上げていると、爆音の源が正体を現した。夜目にも鮮やかなピンクのロゴも毒々しいそれは、ルネサンスTV社のヘリである。
「はぁい! 皆さまこんばんは! って、もうすぐ夜明けだね。おはようございます! 皆様のアーサー・モリナーです!」
鱗粉のように降り注ぐのは、空々しいほど明るい美声であった。だが、ルネサンスTVのオーナーはハイドンなのだ。さっき彼が「救助の手」と言ったのはこの事だったのだろうか? だとすれば、モリナーは敵である。
「なんと! ご覧ください。円形ドームの下は巨大なジオラマになっておりますよ! ライトで見えますでしょうか? なんと美しい! おお! 奥に人がいるようです。もう少しカメラ抜けますか? おや、斃れているのは我らがCEO殿のようです! どうやら鼻血を出してぶっ倒れられているようですよ! ああ! 一面血の海だ! これはすごい。大丈夫なのでしょうか? ここで一体何があったのでしょう!?」
「あの野郎……」
ガンガンと反響する爆音と拡声器の声は、重傷を負ったものには嫌悪の対象でしかない。ゼライドはユーフェミアを己の体の影に隠すと、先ずは当面の敵を倒すために
「う⁉︎」
シャンクが消えていた。
ゆらりとした影は二人がヘリに気を取られている間に、どこかへ逃れたようである。
真新しい血溜まりは残っているが、さっきまで凄まじい殺気を発していた男の姿はもう、露台のどこにもありはしなかった。
「室長は……」
ゼライドの視線を追ったユーフェミアも辺りを見渡している。しかし、動くと足が痛いのだろう。ギュッと眉をしかめるのを見てゼライドは自分のジャケットとシャツを脱いだ。
「ちょっとゼル! 撮影されているのよ!」
「構わねぇ。血はあんまり出てないようだが、傷は深い。とりあえずこれを巻いておく」
ゼライドはユーフェミアの足にシャツを巻きつけると、丁寧に着ているものを直してやった。豪華な金髪は乱れ、秋物のワンピースは血や涙でドロドロである。しかし、それでもなお彼のつがいは、圧倒的な美しさで、雄を魅了していた。
「ん……ありがと」
「酷い傷だ……痛いだろう?」
ゼライドは胸がつぶれる思いで、ユーフェミアの足の傷を確かめた。出血はさほどでもないが、何しろレイピアが貫通したのだ。普通ならショック症状を起こしていても不思議ではない程の傷なのである。見ていると怒りがぶり返したのか、ゼライドは無様に横たわっているハイドンを獰猛な視線で睨みつけた。
——今からでもこのクソ野郎の息の根を……。
「ゼル、駄目よ! 私は本当に大丈夫なの。だってほら、ちょうど脂肪の部分だったのよ。骨や筋肉なら痛くて大変だけど、脂肪なら私、有り余っているから! ね?」
ユーフェミアは剣呑な光を
「わかった……お前の言うとおりに」
ゼライドも満身創痍である。弾丸が掠ったり、ビジュールの爪で掻かれたり、シャンクのナイフにやられたのだろう、体中に大小の傷が無数に走っている。いくつかはかなりの深手で、まだ血が流れ出ていた。そして、右足にはナイフが突き立ったのだ。
「ゼルこそ酷い傷……ごめんなさい」
「謝るな……」
ゼライドは自分を盾にしてユーフェミアを抱きしめた。その間にもヘリはどんどん降下し、露台のすぐ向こうにその巨体を現す。爆風と爆音が空間を揺るがせる中、二人の唇が重なり、吐息が混ざり合う。ローターの爆風と振動に掻き立てられるように、失ってしまったかもしれない互いを求め合った。まぶしいサーチライトが二人の輪郭を曖昧にする。
撮りたいなら撮ればいい、二人ともそんな気持ちだった。
引き離される時がすぐそこに迫っていた。
開放されたドームから本当の風が下りてくる。
ヘリはどんどん降下し、荒野に見せかけた地面に着陸した。酷い騒音が衰え、やがて鎮まる。ヘリが完全に停止したのだろう。地上から人の声が聞こえはじめる。
「ゼル……」
ユーフェミアが怯えたように体を縮こめた。強がってはいても怖いのだろう。彼女は何もしていないのに。
「大丈夫だ。できるだけ顔を伏せてろ。あいつには俺が対処する。抱いていてやるから少し休め……な?」
「うん……ゼル、どこにも行かないよね?」
「行かない。お前を離しゃしねぇ」
ユーフェミアは大人しく彼の胸に頬を押し付けていたが、やがて強張っていた体の力が抜けた。ゼライドと一緒になれたことで少しは安心したらしい。じっと彼に体を預けて、新たな試練に立ち向かおうとしているようだ。露台の奥で無事だった観覧用の椅子にそっと座らせる。
素肌にジャケットをつけながらゼライドは出入り口に向いて立ち塞がった。彼らはここの構造をよく知っているのだろうから、すぐに自分たちは拘束されてしまうだろう。ハイドンはまだ気を失っているようだが、目覚めたらすぐに自分たちを断罪するだろうから。足を負傷しているゼライドにはユーフェミアを連れて逃げる余裕はない。野人は超人ではないのだ。
ゼライドは必死で考える。
——俺のことはいい。どうせ生まれたときからから憎まれ役だ。このクソ爺ぃにしたことが罪だっていうなら、大人しく死刑にだってなってやる。だがユーフェミアだけは守り通さないと。
彼女は罪など犯してはいないどころか、完全な被害者なのだから。
ゼライドが身構えている間に、彼らは疑似岩山の内部を通って、露台のある場所まで上がってきた。内部にはエレベーターがあるに違いない。
「ここだ! ここだぞ! 気をつけろ!」
男たちの声がした。二人の顔にさっと緊張が走る。両側から自動扉が開くと、二人の武装したガーディアンが銃を構えて立ちふさがる。だが、彼らはそれ以上は動かなかった。そしてそのすぐ後から、アーサー・モリナーの金髪が見えた。
「ああ! これはひどい傷だ。大丈夫かい? 君達、すぐに手当を!」
しかし、モリナーの口から出てきた言葉は意外な台詞だった。
彼の後ろから、カメラを抱えたスタッフ、そして白い服を着た救急隊員がばたばたと機材を抱えて入って来くる。その気配でハイドンが身を
「う……ああ」
「おお社長! この度は大変なことで」
モリナーの合図でガーディアンが駆け寄ってハイドンを助け起こす。
「ぐ……ボ……ジナー、そいづだ……はんざいしゃだ……」
ハイドンは鼻と口から血を流しながらもぐもぐと言った。拘束しろという事だろう。だが、モリナーは冷たかった。
「おおお社長。随分ひどくやられたようですね。ご安心ください。お手当は致します。ですが犯罪者はあなたですよ」
「なに……⁉︎」
ハイドンの目が驚愕に見開かれた。
「あなたの命を受けてこちらに向かっていた僕の端末に、何者かが侵入してきたのですよ」
「……?」
「不審に思って開いてみると、驚いたことにリアルタイムでものすごい映像が送りつけられていました」
「な……⁉︎」
「そこには禁忌とされる夜光花や、精製されたナイツ、飼育が厳禁されているビジュールなどが映っていました。そして、あなたがそのお嬢さんにレイピアを突き刺し、銃を向けて脅している様子や、彼女を助けに来たそこの野人に、罪をなすりつけようとしたところが全て映っていたのですよ……ああ、そのカメラだな」
モリナーは露台へと向かう解放口の正面に取り付けられたカメラを見上げて言った。
「ば……馬鹿な。あれは……私が……」
「ああ、あなたのへたくそな演技も撮れていましたねぇ。でも、誰かが密かに設定を弄っていたのでしょう。画像はあなたのハードディスクではなく、僕と局に直接送られて来たのですよ」
モリナーは機嫌よく言った。
「長いこと騙されておりましたが、おかげですごいスクープになりそうです。お礼申し上げます」
「ば……ば……」
ハイドンの顎ががっくりと垂れ下がる。
「今までよく疑われないで、これだけの事を仕出かしてくださいましたねぇ。まぁあなたほどの大物をだれも疑いますまいが……それも金や名誉の為ではなく、個人の趣味ってところがミソですな。ああ、これから忙しくなりそうです。楽しみだ……さて!」
モリナーは立ち上がって、こちらを睨みつけている野人と、その胸に大切そうに抱きしめられている娘を振り返った。
「君たちに会うのはこれで二度目だね。思った通り、やっぱりただもんじゃアなかったねぇ。ああ、僕が言うと、どうしてこんなに軽薄に聞こえてしまうんだろう。でも、君たちのお蔭でゴシック・シティ始まって以来のものすごいスクープがモノにできそうだ。ともかく、先ずは傷の手当だね」
人気キャスターは晴れ晴れとした表情で二人に微笑んだ。
後になって考えてみても、その後に起きた出来事は非常に慌ただしく、人と機材が入り乱れ、ゼライドは順序正しく思い出せなかった。
ゼライドはひたすらユーフェミアを抱いていた。彼女はさすがに緊張の糸が途切れたのか、いつしか彼の腕の中で眠ってしまったのだ。
彼は救急隊員がユーフェミアの傷を手当てするのは許したが、包帯を巻くのは自分で行った。自分の傷は見せることすら拒んだ。ユーフェミアさえ無事なら後はどうでもよかったのだ。そして鋭く周囲にシャンクの気配を探ったが、彼はもうどこにもいなかった。おそらく、ドームが開いて、ヘリが着陸する騒ぎに紛れて、どこかへ逃走してしまったのだろう。
しかし、もはやそれすらどうでもいい。
「ユミ……」
ゼライドはかすれた声で呟いた。
攫われてから心の安らぐ瞬間などなかったのだろう、目元には濃い隈が出来ており、長い睫毛がかっちりと閉じられている。血の気のない頬は些か丸みを失ってしまったようだ。
だが、温かい。
ゼライドは指の背で柔らかい頬を擦った。
——ああ……ユミ、俺は……!
その頬にぽつぽつと水滴が懸る。
塗り込められたような闇の中から雨の粒が落ちてきた。ユーフェミアが濡れないように自分の体で覆い被さるゼライドの背中に、そっと何かが乗ってきた。髪を引っ張られて顔を上げると、ティプシーだった。その足に何やら紙切れが巻きつけられている。
なんだろうとじたばたするティプシーからその紙をほどくと、酷く雑な赤い字で一言書きつけられてあった。
『でかい貸しだぜ V』
ゼライドは愛する女の上に顔を伏せた。
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