桜花は一片の約束

新巻へもん

吉野の山桜

 はあ。はあっ。


 まだ山の澄んだ空気が肌を刺す時節だというのに全身から汗が噴き出していた。足弱な女の身が恨めしい。この程度の崖道を登るのに汗だくになってしまうとは情けなかった。もし、我が身に古の板額や巴のような力があればあの人の側に居続けることができたものを……。


 葛にすがり最後の数尺を登りきり下を向き乱れた息を整える。顔を伝う汗が地に落ち沁み込んだ。息を整え終えて顔を上げる。霞がたなびく薄浅葱色の空を背景に一本の桜の古木が佇立していた。若葉に混じり薄紅の花弁が微風を受けて揺れていた。しばしの間、ここへ来た目的も忘れて陶然と見惚れてしまう。


 やがて我に返ると疲れた体に鞭打ち古木に近づく。背負ってきた袋から小ぶりの甕を取り出すと封を切り、根元に数滴たらすと目を閉じる。愛しいあの方の姿が目に浮かんだ。水干に直垂を着け太刀をはき烏帽子をかぶったあの方が馬に乗る前に見せた微笑みが蘇る。


 ***


 宮様に従う扈従の列の中に見つけた時から胸が高鳴った。荒々しい武者が多い中で涼やかな瞳のあの方は異質な存在で一目で思い慕うようになった娘は多い。こちらは鄙びた山村の山猿ゆえに思いを伝えるなどもってのほか、遠くからその姿を見るだけで満足していた。


 それが、水汲みをしていた私を手伝ってくださり、その手に触れたことから運命は大きく変わる。あの方に惹かれる心はやみがたくなり、いつの間にか契りを交わしていた。


 いずれ都に帰る身とは覚悟していたが、宮様に従い村を離れる前日、この古木の前であの方は誓いを立てた。

「今は宮様を御守りせねばならぬ。片が付けば必ず、迎えに参る」

「都に戻れば、きっと美しい女御に心奪われ、私のことなどお忘れに……」


「さえ殿を忘れなどせぬ!」

 力強くいい私を抱きしめた。しばしの間その姿勢でいたがやがて名残惜しそうに身を離す。私があの方の肩にはらりと花弁が落ちるのに視線を向けるとそれに気づいてその花弁をつまみ上げた。

「これを我が身と思うて帰りを……」

 

 ***

 

 萎びてしまった花弁を守り袋の中に入れ、今も肌身離さず身に着けている。あの方が行ってしまってから春になると毎年ここに詣でるようになっていた。


 風の便りに宮様が籠る城が落ちたことを聞きあの方の身を案じた。次いで、宮様がすべての武士を束ねる将軍になられたことを聞く。宮様に近侍するあの方もきっと私のことなど忘れてしまうのだろうと寂しく思った。そして、良く分からないが宮様が遠く鎌倉まで流されたことを知り、もう会えぬと諦めた。


 それでも、また春になるとここに来てしまう。古木の幹に触れ、あの方の腕の中にあった幸せな日々を思い出し、眦から一筋の涙が伝う。遠く東の方を眺めれば春霞の中にあの方を見出して双眸を濡らした。


 昨年末に宮様が切られたという噂を聞く。単なる噂ではなく事実と確認すると地が崩れ空が落ちたかのような思いに気を失った。ならばあの方も生きてはいまい。すぐに後を追おうと思った時に浮かんだのがこの桜のことだった。もう一度この花を見てから死のう。そう思いここまで来たのだ。


 守り袋の紐を解き、花びらを取り出す。それを包むようにして懐剣を逆手に握った。目をつむるとあの方の懐かしい声が微かに聞こえる。

「さえ殿!」

 己の未練を断ち切るように懐剣に力をこめて胸に突き立てた。


 痛みと熱さが全身に伝わる。刃は骨に阻まれていた。不覚を恥じ、もう一度とより高く懐剣を振り上げる。

「さえ殿ぉ!」

 力強い声に目を開けて振り返る。


 杣人が身にまとった着物がはだけるのも気にせず駆け寄って来ていた。髪を振り乱し、両の頬とあごには髭が生えていたが、あの目元だけは愛しいあの人のままだった。目に溢れるものがたちまちのうちにその姿をゆがめる。繰り返し我が名を呼ぶ声を聴きながら、私は淡い桜の香りに包まれてただ、ただ、立ち尽くしていた。

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