月の棺に花を添えて

狐のお宮

朧月と地下の花

「……………♪」

 どこからか微かにピアノの音色が聞こえる。それに気づいた少女は、少しだけ日の差してくる小さな窓に駆け寄る。

 当たり前だが何も見えない。それでも少しだけ、ここはピアノの音が大きく聞こえた。

「まぁた、そんなに聞き入っちゃってさ」

 ハッとした少女が振り返ると、そこにはボロボロの服にぼさぼさの髪、体中傷だらけの少年が。

 二人には、重くかたい鉄の首輪がつけられていた。

「そんなにサボってると兵隊の鞭が飛ぶよ。ここに僕らの自由なんてないからさ」


 二人は奴隷である。親に捨てられ孤児院にいたところ、王宮の騎士だと名乗る者が現れ二人をここへ連れてきた。

「そうだね、戻んないとね」

「戻っても鞭打ちだけどね」

 少女と少年は苦笑した。そうなのだ。今更少女が戻っていっても、抜けていたことが兵隊に見つかり、サボるより厳しい鞭打ちが待っているだけなのだ。

「にしてもよくここに来るよな。そんなに鞭打ちされたいのか?」

「ううん。ピアノの音が聞こえたから」

「ピアノ?」

「きっと王宮で、王子様が弾いているのかなって」

 少女は窓を見る。あの日からずっと求めている日の光が、そこから細く優しく降り注いでいた。

「なんで王子なんだよ。王女様かもしれないだろ」

 意地悪そうに言う少年は、少し不満気にも見える。

「ううん、王子様だよ」

 少女ははっきりと首を横に振った。そのあとにこっと笑うと、

「鞭打ち、また一緒だね。頑張ろうね」

「うん」

 君だけに痛い思いはさせない——そんなこと、少年が言う勇気はなかった。



 奴隷の中でも子供はまだ楽な方だ、と少女は思う。

「明日は四時半起きだって」

「うわ、また早くなった」

 大人は寝る時間がほとんどないのに比べ、子供であるうちは四時間ほどの睡眠が許されるからだ。寝室、と言われた小部屋にはすでに二十数人ほどがひしめき合っていた。

「リディア、またそんなところでいいの?」

「うん。皆あったかいところで寝たいでしょ?」

 皆が温かいところを求め部屋の奥に押し寄せる中、少女——リディアは冷たい風がよく入ってくる扉の近くに寝転がっていた。一枚しかない麻布は、既に奥で寝始まった子供奴隷たちに占領されている。

「リディアはいつも優しいね」

 隣に寝転がる少女は、リディアたちと同じ時期につれてこられた。今ではリディアの親友だ。

 リディアはその言葉に、少しだけ罪悪感を覚える。

「そんなこと、ないよ」

 すこし遅れて返事をしたころには、親友の少女はすっかり寝てしまっていた。


 みんなが寝静まったころ、リディアはそぅっと起き上がる。光の入らぬ真っ暗な小部屋。普通ならこの時間に子供たちは起きない。貴重な睡眠時間だからだ。

 みんなを起こさないよう、真っ暗な部屋の中を壁伝いに辿っていくと、すぐ扉に手が触れた。大きな音を立てないように少しずつ力をこめると、鍵のかかっていない扉はすぐ開く。

 子供一人通れる幅まで開けると、少女はするりと小部屋から出た。

 小部屋の監視が甘いのは、たとえそこから抜け出たとしてもこの地下からは出られないようになっているからだ。地下から出る道は一本だけ。その道には監視がしっかり立っているし、周りは頑丈な地盤に覆われている。監視に捕まれば死は免れない。

 だが彼女は知っていた。この地下にはもう一本だけ、地上につながる道があるのだ。いつもは周りと同化してよく見えない。だけどそう、今日は——

(ピアノが聞こえた)

 小部屋から少し歩いた道の足元。細身な子供一人通れる大きさの穴が開いている。少女しか知らない、秘密の抜け道だ。

 

 身体ギリギリの幅の急な上り坂を這い上がりながら、リディアは心躍っていた。長くて辛い抜け道もなんのその。一歩進むたび、胸の鼓動は早くなっていく。

 すっと、心地の良い空気が頬を撫でた。気が付けば上に星空が見えている。

 地上だ。

 少女がそう思うと同時に、その空がかげった。何かが少女に向かって伸ばされる。よく見るとそれは、少し骨ばった男子の手だった。

「もう少し。頑張れ、リディア」

 静かな声。少し低くて落ち着くその声を聞いて、リディアはほっとする。

 手を伸ばせば、その手がグイっと引き上げてくれた。

 地上に出ると澄んだ空気が肺一杯に満ちてくる。この瞬間、リディアはいつも生を実感する。

 少し乱れた呼吸を整えてから、リディアは隣に座っている少年と目を合わせる。

「こんばんは」

「こんばんは」

 二人同時にふふっと笑いがこぼれた。

 クスクス笑う少年——と言ってもリディアより二、三歳年上の青年とも呼べる——の、細くてサラサラの髪が揺れる。奴隷少女のリディアとは正反対な、質の良い服に身を包んだ美しい男であった。

「リディア」

 おいで、と彼は手を広げる。

「あ、でも——」

 リディアは自分の手を見つめる。さっきまで抜け穴を上ってきた手。こんな土だらけの手で、綺麗な彼を汚したくはない。

「汚れが気になるのかい?じゃあ、あそこまで行こう。綺麗な湖があるんだよ」

「大丈夫。時間も無くなっちゃうから」

 抱きしめられなくていい。綺麗な彼といられるなら。

 四時間しかない睡眠時間。その間だけ、彼と会っていられる。一分一秒、少女は大切に噛みしめていたかった。

「ううん、一緒に来て。今夜は君と過ごしたい」

「えっ」

 だけど躊躇なく少女の手を取り、彼は駆け出した。


「だめだよ、手が汚れちゃう」

「洗えばいいさ」

 夜道は灯り一つ点いていなかったが、不思議と足元が見える。青白く、美しく。二人の駆けた後に花が揺れた。

「ついたよ」

 手を引かれてやってきたところは、木々が周りを囲む静かな湖のほとりだった。波ひとつ立たぬ湖面には満月が映る。

 ほとりには、二人の行く先を照らしていた花が咲き乱れていた。

「きれい……」

夜月花やつきばなだよ。月の光に反応して、自らも蒼く光り輝くんだ」

 いつの間にか彼はほとりに腰を下ろしていた。湖の水を手ですくい上げてはまた戻す。

 月明かりが優しく照らす彼はいっそう儚く、ともすれば消えてしまいそうな感覚まで覚えた。

 月の良く似合う彼は、民衆からこう呼ばれている。


 『朧月の化身』と。


(……私は、奴隷)

 ふと少女にその言葉が湧き上がる。そう、自分は奴隷だ。本来ならば奴隷は、このような場所にいていいはずがない。綺麗な彼に触れてはいけない。

 彼は王子である。本来なら見ることさえ叶わぬはず。初めて会った日からこうして彼が会いに来てくれるのは、きっと朧月の魔法だろう。

「きれいだろう?ずっと、君に見てほしかったんだ」

 ふと、水を救い上げた彼の手がとまる。成すがままの水はサラサラと、細い指の間を駆け抜けた。

「うん、とっても。でもどうして?」

 彼は微笑んだ表情のままだった。微笑んだまま、大きな満月に目を向ける。

 静寂は、二人を静かに包み込んだ。


 自分は彼が好きだ。彼を愛している。だが、それを奴隷という鎖ががんじがらめにして離さない。

 だめなのだ。“私”が“彼”を愛してしまっては。

「ねぇ、もしも明日。僕が消えてしまったら、君は悲しんでくれるかい」

 彼は月を見上げたまま。少女にはその言葉が理解できなかった。

 ただ、朧月の彼がそのまま消えてしまいそうで、それがどうしようもなく不安だった。

 夜月花をかき分けて、ほとりに座る彼の傍に座る。最初は躊躇ったものの、意を決して彼の手を握った。

 ぎゅっと両手で、彼がどこにも行かないように。

「……ありがとう」

 くいっと手がひかれたと思ったら、あっという間に唇が重なった。あまりに自然な流れで、数秒遅れで慌て始める。

 反射で身体がこわばる。そんな彼女に優しく手をまわし、彼はもう一度、吐息を落とすように深く深く——。

 そのまま、二人は後ろに寝転がった。

 夜月花が頬を撫でる。

「…私でいいの」

「君がいいんだ。そうじゃなきゃ、こんな夜更けに会いに行かない」

 二人には愛があった。昼間は天と地の、分厚い壁が邪魔をする。だけど夜は。

 夜は静かに許諾する。何も言わず、二人に実った淡い恋を。

 何を言うまでもなく二人は互いを抱き合った。

「生きるということは残酷だね。辛くて、悲しいことばかりだ——」

 少女は朧月の胸に顔をうずめ、静かにその話を聞いていた。

「だけど、悲しいと感じるほど、辛いと感じるほど生命を実感できる。生きるって、そういうことなんだ」

 少女は知る由もなかった。このとき、朧月の君が泣いているなんて。

「悲しみがあるから、幸せがやってくる。生きるがあるから、死がやってくる。僕たちがそれを本当に知るときは、死の間際なのかもしれない」

「いかないで……」

 心のどこかで分かっていたのかもしれない。きっとこの恋は長く続かないまま。ぎゅっと、彼を抱く手に力が入る。

 ——今宵の月が、夜明けとともに彼を連れていってしまわぬように。

 朧月は、泣いていた。今度はそれを隠そうともせず、

「リディア……僕は——」

 ぽつりと彼は真実を語った。


「…………………」

「…………………」

 彼の話を聞き終えてから。二人は何も言わず、しばらくそのままでいた。

「……そろそろ、時間だね」

「…いやだ」

 夜明けがやってくる。地下の奴隷たちも動き出す。二人に昼が訪れるのだ。

「貴方がいるから、私は地下での鞭打ちにも耐えられる。貴方がいるから、私は今日の昼も乗り越えられる。貴方がいるから——」

 私は今日も生きていられる。最後の言葉は、涙でかすれて言えなかった。

「泣かないで、リディア」

 彼はゆっくり起き上がる。もうすぐ消えていってしまう、朧月を見上げて。

「辛さや悲しみは、幸せの装飾品だよ。だからそう、きっと。君はいつか、大きな幸せを手に入れる」

 人の命は儚く、そして美しい。そう言った時の彼の美しさを、彼女はずっと忘れない。




「おい、そこの貴様!何サボっている!」

 鋭い鞭が少女の腕を叩く。もう痛みすら感じない。あの日彼が言っていた辛さを、彼女は感じていない。

「所詮は奴隷だ、代わりなんぞ余るほどいる。使えねぇんなら捨てちまいな」

 ろくな食事もとっていない細い脚では、まともに歩けない。ほとんどずるずる引きずられている状態でも、彼女は何も感じなかった。

 あの日の彼が、頭を離れない。



『生贄……?』

『うん。王が自らの寿命を延ばすため、生身の人間を天に捧げる……すでに僕の兄上たち八人は、そうやって王のために死んでいった』

『貴方も……そうなるの』

『どうやらそうみたいだ。だから、さっきはあんなこと聞いたんだ。自分が死んでも愛してくれる人がいて、僕は、幸せ者だなぁ』

 笑っている。笑っているが彼の頬には涙がつたう。きっと本当の幸せと、迫る死への恐怖が混ざりあった果てのものだろう。

『いつになるかわからないけれど、僕はもう死ぬ』

『……怖く、ないの』

 そっと尋ねる。

 彼はしばらく答えなかった。否、突き上げるツンとしたものに阻まれ、うまく声が出なかったのだ。

『……怖いよ。どうしようもなく怖くて、今でも震えてる。だって、ねぇ。やっと自分の気持ちに気付いたと思ったら、もう僕の将来は無いんだって』

 彼は自分の膝を抱えて顔をうずめる。少女はそれを見つめるしかできなかった。

『やっと愛せたのに。やっと輝いてきたのに』

 彼の声に震えが混じる。

『もっと……。もっと生きたい……。僕は、生きたいんだよぉ……っ!』

 ついに堪えきれなくなり、彼は大粒の涙を隠そうともせず泣いた。静かな湖に、彼の嗚咽だけが響く。

 少女はただただ、彼の隣に座っていることだけしかできなかった。



 さんざん引きずられた最後、ガラクタ置き場のような場所に少女は投げ捨てられた。先のとがった鉄骨やら何やらに、無防備な肌が食い込む。鮮血がぼたぼた滴っても、少女に感情は戻らない。

 彼はまだ生きているだろうか。もうすぐとは言っていたが、その詳しい日時は知らない。運よく誰かが儀式を止めてくれることを願う。

 それがほとんど意味をなさないことでも——

「お姉さま聞きまして?今日、だそうですのよ」

「あらまあ本当に?じゃあ出席しないとね」

「それにしても国王様は勿体ないことをいたしますのね。あれほど優美なお方、きっと千年に一度現れるかどうかですのよ」

「ま、あなた国王様の前でそれを言ってはダメよ。はこの国の繁栄を願って——」

 その瞬間。少女の頭に電流が走ったような感覚がした。ガタッと、身体が反射的に動く。

「あら?お姉さまあちらから変な音がしまして?」

「だめよ、あっちはごみ置き場。奴隷なんかも捨てられてるから不衛生よ。さ、早く行きましょう」

 血が噴き出るのも気にならない。まるで何かに憑りつかれたのかのように、少女はゴミ捨て場を走り去った。


 彼が生きている。彼は生きている。もう助からないかもしれないけれど、最期にもう一度——

 噴き出る血よりも嬉しさが勝り、彼に会いたいという一心が彼女を突き動かした。



「——おお、神よ。万物を司る神よ。我が血の末裔を貴方に捧げる。我に、あともう一世の命を与えたまえ」

 木で作られた祭壇に、一人の少年が横たわっている。目を閉じているため周囲の様子はわからない。だが、“儀式”に呼ばれた名の知らぬ貴族たちが、自分が死ぬのを目に焼き付けようと息を詰めて見ているのがわかる。

 コツ……コツ……と父王はゆっくり近づいてくる。朧月の目は開かない。開けられない。

 今しがた父が実の息子を殺めようとするのを、己が欲のために人殺しをする者の顔を、どう見ようというのか。

 足音が消えれば自分は死ぬ。王宮での日々、母、殺された兄たちの顔、そして——

(……リディア)

 誰にも知られず育んできた愛の象徴が、朧月の走馬灯だった。


 コツ……コツ……コツ。

 足音が、止む。

 周囲が一斉に息を吸った音が、よく聞こえた。



 バダンッ!

「な、なんだ⁉」

「後ろの方からだ」

「キャアァァッ!奴隷!奴隷よ!」

「奴隷?なんだって奴隷が⁉」

 王が再び目を開けると、集まっていた大勢の貴族たちが慌てふためいている様子が視界に入ってきた。

「……何事だ」

「申し訳ありません!どうやら奴隷が一匹、暴れているようでして……。奴隷と、放し飼いにした奴らを捕まえて参ります」

「……ふむ」

 貴族たちは捕まえろだの汚らわしいだの喚いているが、王は微動だにせずその背に熱を感じていた。

「ええいすばしっこい奴め、おい!兵はいないのか⁉早急にこの奴隷を捕まえよ!」

「イヤァっ!こっちこないで汚らわしい!」


 少女は一心に走った。もう体に残る血は僅か、意識も朦朧とする中。扉を開け放った瞬間飛び込んできた真っ赤な炎に、彼の終わりを感じながら。

 周りの貴族は自分を蔑んだ目で見るが、それももう気にならない。むしろ近寄ってこないのですんなりと祭壇までたどり着くことができた。

 国王は衛兵につれられすでにいない。傍で息子が燃えているというのに、弔いの言葉すらかけないまま。

「あやつ、一体何をするつもりだ?」

 一部の貴族は気づき始めた。最初は奴隷の者による国王や貴族の殺害かと思われたが、彼女はそうすることもせずただ、燃え続ける祭壇の前に立っている。

 そこにやっと兵がやってきた。貴族が安堵の息をつくと同時に、少女の決意は固まった。

 おぼつかない足取りでゆっくりと、燃え上がる祭壇の内部に足を踏み入れる。

「……!まさか……?」

 その時、一人の貴族が思い当たるような顔をした。

「何か、心当たりがあるのかね」

 別の貴族が問うと、その貴族は慌て気味に説明をする。

「聞き覚えはありませぬか。身分の高い死んだ男に、身分の低い女が重なって共に焼かれると、来世で結ばれるという——」

「“逢瀬おうせの儀”か」

 また別の誰かが言った。それを聞いて大勢は納得する。

「のんきに納得している場合ではない!あの儀式は我らが国王様の命を伸ばす、“延命の儀”なのだ。“逢瀬の儀”を行っては“延命の儀”が成功しないではないか!」

 それには大衆もどよめいた。

 しかし時すでに遅く、慌てた貴族が少女を止めようとする頃には少女は炎の中へ消えていた。



 炎が牙をむく。容赦なく我が身を喰らう。それでも少女は構わなかった。

 熱い、熱くて痛い。本当は身体が激痛に悲鳴を上げている。

「あ…あ、やっと……見つけた、ね……」

 黒く、黒く。その身に炎をまとった朧月が、そこにいた。その様は焼かれてなお美しく、彼は最後まで朧月なのだ。

「大丈夫、私も、一緒……ね、——」

 少女は燃え盛る彼の隣に、一緒になって横たわった。邪魔する者はもういない。

 死さえ彼らを邪魔できない。

 炎に消える意識の中で、少女は月の手を取った。昔話に聞いた記憶を頼りに、彼の上へ重なる。

(大丈夫。私たち、きっと来世で)

 


 咎無き少女の願いを、業火は天へと舞い上げる。





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月の棺に花を添えて 狐のお宮 @lokitune

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