四年に一度の自由

江戸川台ルーペ

閏年の俺だけの日

 結婚する時に、妻となる美しい女性と約束した事はたった一点だけだった。


「閏年、二月二十九日だけは俺にくれ」


 その日だけは俺は家にいないし、電話にも出ない。決して俺の事を探したりしないで欲しい。三月一日中に、必ず玄関の呼び鈴を押すから、決して何も聞かず、静かに俺を迎え入れて眠らせて欲しい。これだけが、結婚後の生活において俺が臨む唯一の条件だった。女性は承諾し、妻となった。四年に一度の、たった一日に過ぎない2月29日を夫の自由にさせる。ただそれだけの条件に異議を申し立てるムードにはなかったし、そもそもお互いが深く愛し合っていたのだ。


 一軒家に自家用車、すくすくと育つ娘に、甲斐甲斐しく美しい嫁。穏やかで、平和で、満たされた日々。俺は分かっていた。この、誰もが羨むような幸せな日々がいつまでも続く事を。


 ある種の人々にとっては、喉から手が出る程に欲するこの幸福に満ちた日々を継続させる才能が俺に備わっている事は分かっていた。鳥が空を飛べる事を不思議に思う事はあるのだろうか?



 もっとスリルに満ちた何かを楽しみたい。

 一つくらい、妻に隠し事をしてみたい。



 結婚をして最初に迎えた2月29日は、結婚前に付き合っていた彼女と、あらかじめ予約しておいた温泉宿でファックした。何故その彼女と結婚に至らなかったかというと、やや性に奔放過ぎる性格もあったし、一緒に居ても落ち着く事が出来なかったのだ。彼女は食事も忙しないし、食後にコーヒーを飲まない。結婚してすぐに元カノとセックスって、あんたって本当に最低、と、彼女はノリノリでこの逢瀬に応じてくれた。見覚えのある背中を撫でながら、ありきたりだなと俺は反省した。


 二度目の2月29日まで、四年間の準備期間があった。

 俺は新たな自分を獲得する事にした。英語の勉強を始め、職場での資格を積極的に受講し、出世に意欲的になった。ジムに通い、身体を絞り、着る洋服や顔付き、喋り方などに気を使った。圧倒的にモテ始めた。女性と、あとゲイの人達にも。


 その様な訳で、俺は初めて男とヤッてみる事となった。それが二度目の2月29日のハイライトだ。四年間ほど掛けて獲得したものは、ホテルの最上階にあるプールサイドで目の前で寝そべるイケメンの、ギリシャ彫刻のように美しい裸体だった。俺は正直に打ち明けた。正直なところ俺は異性愛者だと思うし、男とやった事がない。タチかウケか、どちらなのかも分からない。大丈夫だろうか?  男は広告代理店らしい素敵なスマイルで請け負ってくれた。簡単な判別法があるのだ。──すごく大丈夫だった。俺は軽く足を引きずりながら家の玄関の呼び鈴を押した。それが二回目の2月29日のハイライト。


 三回目の、つまり前回の2月29日は、SMに手を出してみた。妙な方向へ人的ネットワークが広がり、そのようなプロの方とも知り合う機会が大幅に増えたのだ。

「あんた正気?」

 キツい目付きの女が足を組んで、胡散臭そうに俺をみた。俺の真剣さを知った女は「じゃあどっちがいいの。つまり、イジメる方か、イジメられる方か」両方。「両方?」呆れたように女がこめかみを揉んだ。それからマニュアル的なものを奥から引っ張り出してきて、「あたしが四年先に生きてるか知らないけど、縛り方とか、そういうの練習しておけば?」 と俺に渡してくれた。世界には様々な女性の縛り方があるし、様々な男用のディルドーの形がある。俺はその全てをマスターした。一部、妻にも流用して、二人目が出来た。いつ、どこでそのようなテクニックをマスターしたのか質問されたが、「聞くな」で済ませた。元来が従順な妻なのだ。前回の3月1日、俺はボロ雑巾みたいになって家の呼び鈴を押すことになった。M気はあまりないみたいだ。女にムチで叩かれると普通に痛いし、腹が立つ。二度とやらない。


 そして明日、四度目の2月29日に向けて準備をしてきたのは、殺人の計画だった。俺の実の母を殺した男をあらゆる手段を用いて探し出し、その復讐を果たそうと思い立ったのだ。どこに住んでいるか?「山梨県ですね」山梨県。「そう、富士急ハイランド。ドドンパ。フジヤマ」何?「機械の整備員のおっさんです。これ、写真と夜勤のシフト表。2月29日は無事夜勤で一人きりっすわ。楽殺らくしょうです」


 銃も手に入れた。2月29日午前0時、軽装で乗り込んだレンタカーのシビックのエンジンは絶好調だった。都内から山梨県は意外と近い。行く、撃つ、殺す、帰る。食う、寝る、遊ぶ、に近い。違いは人が死ぬくらいだ。これで何もかも万事オッケー、オールグリーン。俺はMISIAの曲を掛けながら夜明け前の暗い高速道路を疾走した。


 妙な予感があったのは最初のパーキングエリアで煙草を吸っている時だった。胸騒ぎがした。俺には幸せに生きる才能が生来備わっているのだが、それというのもこの胸騒ぎのお陰だった。何かしらのハプニングが起きる前にそいつが俺に教えてくれるのだ。それはやめておけ、ろくな事にならないぞと。そうした囁きに素直に従う事こそが、俺のこの充実した人生を送る為のコツなのだ。仕方がない。計画は取り止めにするしかない。俺は自分の人生を彩る為に四年に一度の閏年を活用するが、破滅に興味はない。またいずれチャンスはあるだろう。


 逆方向の高速道路に乗り、好みの温泉に寄り道をしながら家に辿り着いたのは、昼の二時頃だった。レンタカーを返却し、銃が入ったクラッチバッグを持って自宅へ歩いて帰った。


 玄関を開けると、家に人の気配が無かった。妻は出掛けているのかも知れない。俺は何気なく靴を脱ごうとすると、足元に見慣れない紳士靴が両足揃えて置いてあるのに気が付いた。誰かが上がり込んでいる。


 俺は忍び足で階段を登ると、そっと開いているドアの隙間から中を伺った。妻の嬌声が聞こえてきて、俺は何もかもを理解した。俺にとっての四年に一度の自由は、妻にとっても同様であったのだ。肉と肉のぶつかる音がする。俺はクラッチバッグから銃を取り出すと、弾丸の装填を確認した。


 いつ踏み込もうか考えたが、交尾の声や音を聞いているとだんだんと馬鹿らしくなってきたので、俺はそのまま玄関まで引き返し、自家用車でやっぱり最初の目的を果たす事とした。胸騒ぎは強くなっていく。恐らく俺は事を仕損じるだろう。だがそれが何だっていうんだ。山梨県へ行ったら美味いものをたくさん食べて、銃であいつを殺そう。あ、そうだ、奴はもう夜勤を終えて自宅へ帰っているのか。奴の自宅までは調べてない。


 まあいいや、この際誰でも。



(了)



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四年に一度の自由 江戸川台ルーペ @cosmo0912

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