善良な僕は今日、人を殺す。
上山流季
善良な僕は今日、人を殺す。
今日、二月二十九日という日付は僕にとって最も特別な日付だった。
閏年――それは人類の採用する太陽暦という時間の数え方に生じるちょっとした誤差を修正するため設けられた緩衝材のようなものだ。詳しい理屈は省略するが、とにかく閏年によって人類は『時間』という概念を一律に保っている。
僕にとって閏年が特別なのは、その『時間』という概念に起因している――わけではない。
僕が閏年を『特別』とするのは、ただ単に、『四年に一度』という区切りが『僕にとってちょうどいいくらいの長さ』だからだ。
僕は、自分で言うのもなんだが善良な人間だ。
電車に乗れば妊婦さんに席を譲り、仕事ではミスした後輩の代わりに取引先に謝罪に行き、コンビニでお釣りを受け取るときは必ずお礼を言い、タバコの吸い殻を見つければしっかり火を消したあとゴミ箱に捨て、友人の悩みには無理にアドバイスせずただ酒を注ぎながら聞き役に徹する。
僕は『善良たれ』と育てられてきたし『それ』こそ人間のあるべき姿だと心から信じている。つまり『善良たれ、と常に自分を律すること』こそが人間としての正しい姿、在り方なのだと、思っている。
が、しかし。その考えは僕個人の、もっと言えば僕個人『だけ』の考えだ。他人に強制するものではなく他人に同調を強いるものでもない。
だからこそ、世の中は『善人』こそが損をする。
僕はそんな世の中にとうとう嫌気がさしていた。そこで、『バランス』をとるために数年に一度だけ『悪行をする日』を設けることにした。
それこそが『閏年』である。
四年に一度、つまり今日、僕は人を殺す。
その行為はさながら『僕』という人格を保つための『誤差の修正』であり『調整』だった。善良であり続けるためには、どこかで『この世の中への鬱屈したストレス』を吐き出す日が必要だった。
別に閏年である必要はなかった。だが、先述した通り――僕にとって『四年に一度』くらいが『ちょうどいい長さ』だった。
今回の標的は、最近同じアパートに越してきた真上の部屋の住人にしようと決めていた。理由は、生活音がうるさいからだ。夜に回り始める洗濯機、掃除機の音に、極めつけは下手な電子ピアノの練習音。最近は遮音性能に優れたダンボールを壁に貼り付ける等の配慮の仕方もあると思うのだが、流石に、床にまではダンボールを敷いていないのだろう。うるさい。というより気になる。寝床に横になって電気を消してさぁ寝るかという段階になって微かに聞こえてくる電子ピアノの高い、そして拙いメロディ。気に障る。
苦情を言いに行ったこともあった。しかし、彼はいかにも『悪そうなバンドマン』と言った風体で、僕の話をほとんど真面目に聞いてくれなかった。
今でも覚えている。金に染めたツーブロックの、耳に大量のピアスを開けた、ひょろりと背の高い、人相の悪い二十代後半の男。ダメージ加工の派手なTシャツに細身のジーンズ。僕の姿を見て早々にした、舌打ち。
他に目ぼしい標的もいなかった。だから、今回はさして仲良くもなく、しかも生活に支障が出ている彼を対象とすることにした。
日付が変わった瞬間、僕は彼の部屋のチャイムを鳴らし、扉が開けられればそのまま無理矢理上がり込んで、カバンに隠したナイフで彼を刺し殺してやるつもりだった。
……流石に、人を殺すのは今回が初めてのことだった。
これまでは精々『外に繋がれている小型犬を蹴り殺す』とか『野良猫の餌に殺虫剤を混ぜる』とかその程度である。
僕に逮捕歴はまだない。が、今回は流石に逃げ切れないかもしれない。なにせ、人間を殺すのは初めてだ。日本の警察も優秀だと聞く。
それでも、僕は今日、なにか『悪行』をなさなければ具合が悪いのだ。バランスが悪い。気分が悪い。殺すしかない。たとえ警察に逮捕されてしまうとしても、だ。
僕は彼の部屋のチャイムを鳴らした。すると、部屋の内側から扉が開けられる。
記憶していたのと同じ顔が、僕を見て少し驚いたような気がした。
「あなたには以前から言いたいことがあるのです」
そう言って、僕は彼の部屋に押し入ろうとした。すると、彼は――
「待ってください。用件については、想像がつきます。そこで、どうでしょう? 外で話をしませんか? こんな時間ですが、ファミレスくらいなら空いているでしょう」
僕は、ちょっと困ってしまった。が、すぐに彼の申し出を受け入れた。
どうせ殺すのだから、もしかして『彼の部屋』でない方がいいかもしれない。ファミレスに向かう道中、電灯のない暗く影の落ちた道で襲うというのは『選択肢』として『アリ』だった。
僕は彼の少し後ろをついて歩くことにした。一番近いファミレスまでは徒歩で約十五分。その間に、殺せばいい。
彼は――暗い夜道を歩きながら、ぽつぽつと語り始めた。
「あなたの用件はわかっています。大方、俺の生活音があなたの部屋まで響いているのでしょう? 本当に申し訳なく思っています。でも、部屋でこの話をして、もし口論にでもなれば他の部屋の住人に迷惑だ。もう、零時ですから」
彼の、僕や他の住人を気遣う言葉に僕はとても驚いた。
気遣う――というより、それは、反省の言葉に近い。困る。非常に。なぜなら、彼の心掛けによっては殺す理由がなくなってしまうのだから!
彼は続けて言った。
「今日は、閏年、ですね。俺は、自分で言うのもなんですが『悪辣な人間』です。電車では座っている学生から席をカツアゲし、バイト先では遅刻の常習犯、コンビニやファミレスでは店員に対し横柄に振る舞い、タバコの吸い殻は平気で捨て、友人の彼女を寝取ったことすらあります。しかし」
彼は一瞬だけ言葉を区切った。
「それでは『バランス』が取れていない。と……俺は思い至ったのです」
……僕は、にわかに手が汗ばむのを感じていた。なぜなら、彼のこのあとの言葉が十分に予想できたからだ。そう、彼は、きっと――
「今日は閏年です。俺は、今日だけは『善行』をなそうと思うのです。四年に一度、今日だけ心を入れ替えます。どうか、普段の悪行のお詫びをさせてください。この時間ではファミレスくらいしか開いていませんが――なんでも奢ります。是非、俺の『善行』に付き合っていただけませんか?」
僕は、ファミレスにつくまでの間に、とうとうカバンの中のナイフを取ることができなかった。
僕と彼はファミレスでお酒と、たくさんのサイドメニューを注文した。
彼が話してくれたように、僕も、彼に『今日が特別な一日である』という話をすることにした。もちろん『彼を殺そうとしたこと』は伏せて、だ。その部分だけは隠し通さなければならない。代わりに『怒鳴り込んで暴れてやるつもりだった』と伝えた。
彼は「そうだったんですね」と、怒りもせず僕に酒を注いだ。
そのあと、僕は彼に対して一晩中つまらない愚痴としょうもないゴシップとを話し続けた。内容は、本当にどうでもいい、不平不満とネガティブを固めたような代物で、普段僕が口にしないような、しないよう心掛けているような、最低な内容だ。話している間、僕はなんだか涙が出てきて、それでも話すことをやめずに彼に対してどうにもならない文句をずっと言い続けた。世の中への不満だけでなく、上司、部下、友人、恋人、その他大勢、そして彼への悪意を直接口に出し続けた。彼は怒らず、嫌そうな顔もせず、たまに相槌だけ打ってずっと話を聞いてくれていた。
朝になって、僕は彼に「ありがとうございました。もう、いいです」と言った。
彼は「あなたの力になれたみたいでよかった」と、笑顔を見せた。笑うと案外、そこまで人相が悪い男ではないような気がした。
「ちなみに、あなたの『今日の悪行』はどうするんですか? 俺は、さっきのを『今日の善行』に数えようと思うのですが」
僕は「そういえば、そうでしたね」と返しながら朝日を見上げた。
「……会社、無断欠勤しようかな」
僕がそう言うと、彼は吹き出して大きく笑い出した。
「じゃあ、今日は一日遊び歩きましょうよ。財布係しますよ、俺」
「いいのですか?」
「いいんですよ。……普段、善良なあなたを今日助けずして『バランス』なんて取れっこない。それに」
彼は言った。
「今日、互いにバランスを取っておけば、俺の騒音問題についても今後我慢してもらえそうだ」
彼の言葉に少々面食らったあと、僕も笑い出した。
やはり殺しておけばよかったかもしれない。
でも、今回の閏年は――会社を無断欠勤して彼と遊び歩いた今日という一日は、僕の人生で最も特別で、最も心が軽くなった閏年となるだろう。
善良な僕は今日、人を殺す。 上山流季 @kamiyama_4S
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます